乙女の意識がない隙に、勝手に服を脱がして治療するな!(3)
サクラの着物は、この屋敷の使用人の手で綺麗に洗濯され、ベッド脇にあるタンスの上に畳んで置かれていた。
サクラはブーツを手早く履くと、ベッドから腰を上げて、畳まれた着物まで歩いて近づく。
着物を両手で掴み、目の前に広げてみる。
右脇腹のあたりに小さな銃痕があるも、どうやら血はしっかりと洗い落とされているようだ。
着物の袖に腕を通す。
着物と同じくタンスの上に畳まれていた帯に手を伸ばし、サクラはいつものように、動きやすいよう多少着崩した独自の着付けをした。
着物を着終え、彼女はふと視線を巡らす。
目的のものはすぐに見つかった。
ベッドの枕元に無造作に置かれていた眼帯を掴み、頭に巻き付けて右目を隠す。
「……どうして右目を隠す。
魔族を嫌悪しているからか?」
「別に……この赤い眼で、いちいち騒がれるのも面倒だからってだけだ」
話し掛けられたついでに、サクラは部屋の隅で椅子に座るハンネスに、尋ねる。
「私の刀はどこだ?
まさか売ってないよな」
「……ここにある」
ハンネスが、ポケットから右手を抜き、自身の背後を探る。
カチャリと物音が鳴り、彼が自身の背後から、黒塗りの鞘に納められた刀を取り出した。
ハンネスが刀を無造作に放り投げる。
サクラは慌てずに、刀を右手で掴み取る。
「……何でそんなところに隠している。
やはりくすねるつもりだったのか?」
「……少し眺めていただけだ。
その服装もそうだが、あまり見ないモノだからな」
「ふーん。
まあ着物も刀も、どちらも私の故郷のものだからな」
「キモノ……それがその武器の名前か?」
「馬鹿か。
逆だ逆……」
帯に刀を吊るして息を吐く。
「多少動けるようになったからな、私はもう帰るぞ。
文句ないな」
「ない……が、あの子供はもういいのか?」
ハンネスが無表情に尋ねてくる。
サクラは「いいも何も……」と肩をすくめる。
「お前の話では、この誘拐事件は教会長とやらの茶番劇で、ハルの奴は教会から親元に返されるんだろ?
だったら、私がどうこうすることも、もうないだろうが」
「その話を信じるのか?」
「何だ、嘘なのか?」
眉根を寄せるサクラ。
ハンネスが僅かな間を空けて、小さく頭を振る。
「嘘は話していない」
ハンネスの感情のない表情。
それを幾ら注意深く眺めても、嘘を吐いているようにも、正直に話しているようにも、どちらにも見える。
だがサクラは、全く根拠のなく、彼が本当のことを話しているのだと、直感した。
首を左右にコキコキと傾けながら、サクラは溜息交じりに言う。
「あーあ、謝礼金による夢の生活がパアか。
くそ……腹も痛いし慰謝料よこせってんだ」
「腹の傷はヴィレムの仕業だ。
奴に請求しろ」
「……真面目に返すな」
「だが、もう動けるまでに回復するとはな……その回復力から察するに赤魔導属性か?」
「教えてほしけりゃ情報料払え」
サクラはそう言うと、おもむろにハンネスに向けて、右手を差し出した。
サクラの行動に、怪訝に眉をひそめるハンネス。
困惑する彼に、サクラは唇を尖らせて言う。
「どうした?
握手だよ」
「……なぜだ?」
「そりゃあ……あれだ……」
サクラは、左手で桜色の髪をポリポリと掻ながら、ぼそぼそと言う。
「一応は……命の恩人だからな。
まあ……お礼みたいなものだ」
「……お礼が握手なのか?」
「なんだ?
不満なのか?
私と握手ができるなんて、光栄だと思えよな」
高慢にそう告げるサクラに、沈黙するハンネス。
そのまま十秒ほどの時間が経過する。
ハンネスがおもむろに椅子から立ち上がり、サクラへと近づいた。
サクラの差し出した右手に、ハンネスが右手を伸ばして――握手をした。
次の瞬間――
掴んだハンネスの右手を引き寄せ、サクラはハンネスの鳩尾に右膝を叩き込んだ。
至近距離から放たれたサクラの全力の膝蹴りに、ハンネスの身体がくの字に曲がる。
普通の人間なら、臓器が破壊されるだけの威力があったはずだ。
例え魔族であろうと、大量の涎を吐き出し、苦悶に膝を崩していたことだろう。
しかし――
「……これは何のつもりだ?」
平然と尋ねてくるハンネス。
サクラの右膝は、ハンネスの鳩尾に突き刺さる前に、彼の左手によって止められていた。
軽く舌打ちをするサクラ。
ハンネスの右手を離し、右膝を引いて彼から距離を取る。
サクラの膝を受け止めた左手を、プラプラと揺らしながら、ハンネスが口を開く。
「……一応確認だが、今のもお礼の一つか?」
「お前がマゾヒストなら、そう考えてもらってもいいんだがな……」
「……俺の話が偽りだと判断したか?」
ハンネスの問い。
サクラは口元をニヤリと曲げて、刀の柄に手を掛けた。
「いいや、お前は嘘を話していない。
確証はないけどな」
「だったら、どうして攻撃してくる」
鞘から刀身を素早く引き抜き、刃を立てるようにして前方に構えるサクラ。
僅かに腰を落として臨戦態勢を整えると、無警戒に立つハンネスを鋭く見据え、彼女は言う。
「嘘は話していない。
だが全てを話していないからだ。
お前はまだ何か隠している」
「……どうしてそう思う」
「言っただろ?
確証などないと」
神経を研磨するチリチリとした感覚。
意識を戦闘に集中させつつ、会話を続ける。
「洗いざらい吐いてもらうぞ。
お前達が何を企んでいるのか」
「……お前には関係ないことだ」
「ヴィレムに肩入れする気はないんだろ?」
「邪魔する気もないと話したはずだ」
そこでハンネスが言葉を区切り、「……もっとも」と気だるげな調子で呟く。
「お前が俺達にとって、何かしらの邪魔になるとも思えないがな……」
その言葉にサクラは――
全力でハンネスへと駆け出した。
それなりの広さがある部屋だが、戦うには明らかに狭い。
一瞬にして距離を詰め、ハンネスに向けて刃を閃かせる。
狙いは右脇腹。
魔族ならばそれなりの深手でも、死ぬようなことはない。
サクラはそう考えて、躊躇いなく刀を振るった。
瞬間――
ハンネスの右手に漆黒の闇が出現する。
「――!?」
脳裏に疑問が過った。
だが、すでに極限まで加速した体を止めることはできず、サクラは刀を横なぎに振り切る。
距離の関係から、サクラの振るった刃は間違いなく、ハンネスの右脇腹に届いたはずだった。
しかし――
まるで手応えが感じられない。
カンッ!
と甲高い音が床で鳴った。
反射的に音のした位置に視線を向けるサクラ。
コンクリートで固められた灰色の床。
その床の上に――
真っ二つに折れた刀身が落ちていた。
背筋に悪寒が奔る。
眼帯に隠れていない左碧眼を震わせて、床に落ちている刀身を見つめるサクラ。
彼女はその視線を徐々に、自身が右手に構えている刀へと移していった。
右手に握られた刀の、その刀身が――
根元から切断されている。
「――こんな……」
「これで……少しは大人しくなるか?」
落ち着き払ったハンネスの声。
サクラは折れた刀を静かに下し、ハンネスに視線を向けた。
感情のない表情で、サクラを見据えるハンネス。
その彼の右手に――
いつの間にか、漆黒の刀が握られていた。
呆然と目を見開いたサクラは、間抜けにもハンネスに、率直に尋ねた。
「……何だ、それは?」
「……これが俺の魔道属性だ」
ハンネスが、右手に握った闇の刀身を、サクラの首元に近づける。
サクラの桜色の髪の毛が、闇の刀に触れただけで切断され、パラパラと床に落ちた。
全身に冷や汗が滲む。
表情を強張らせるサクラに、ハンネスがどこまでも平坦な口調で言う。
「黒魔導――『万物消滅』。
あらゆる物質を触れただけで消滅させる能力だ」
「黒魔導……馬鹿な……黒魔導の使い手は、二百年前の魔王を最後に、失われたはず」
ハンネスが「話したはずだ」と、呆れたように溜息を吐く。
「俺の種族は魔王と同じ――魔王族だ。
当然、奴と同じ能力を持っている」
ハンネスが、ごく当たり前のように話したその言葉に、サクラは息を呑んだ。
自身が魔王族であることを、ハンネスは確かに口にしていた。
だがサクラは、それをただの戯言だと片付けていた。
実際に、魔族の中には、自身を魔王の再来だとして、その種族を語ることがある。
いわゆる、見栄やハッタリに過ぎないものと、思い込んでいた。
だがもしも、それが事実だとすれば、目の前にいるこの男は――
(誰も敵わない……最強の魔族……)
二百年前。
全魔族を統率して人類に戦争を仕掛けた魔族がいた。
その魔族は、世界で数多く存在する魔族の中において、どの種族にも属さない、孤立した種族であった。
当時、その魔族を表す種族名がなかった人類は、その魔族を差して使用されていたとある呼称を、その唯一となる魔族の種族名として、宛てがうことにした。
それがつまり――魔王族。
この感情を見せない男が、二百年前に唯一存在した魔王族であるなど、にわかには信じられない。
だが黒魔導を扱えるのは魔王だけだ。
理性が男の言葉を否定しようと、目の前の現実が男の言葉を肯定している。
サクラの刀を切断した闇の力が――
彼が魔王族であることを示している。
驚愕と困惑。
二つの激しい感情の波に呑まれ、ただただ言葉を失うサクラ。
呆然と瞳を震わせている彼女に、ハンネスが小さく息を吐き、闇の刀を彼女から退けた。
ハンネスが闇の刀を消失させる。
そしてサクラに背を向けて、部屋の隅にある椅子へと歩いていく。
脚を組んで椅子に座り、瞼を静かに閉じるハンネス。
彼のその一連の行動を呆然と眺めていたサクラは、掠れた声を絞り出し、彼に尋ねる。
「……何の……つもりだ?」
「……もう十分だろ。
俺達に係わるな」
「……ふ……ざけるな……まだ――」
「お前には興味がない」
ハンネスの溜息交じりの一言に――
サクラの感情が瞬間的に爆発する。
「――上等だ!」
折れた刀で斬り掛かろうと、足先に力を込めるサクラ。
だがその直後――
パンッ!
と空気の弾ける音が鳴った。
踏み出しかけた足を止め、頭上を見上げるサクラ。
普通の人間であれば聞き逃すほどの小さな音であったが、間違いなくそれは、拳銃の発砲音だった。
「――まさか……」
嫌な予感がする。
サクラはギリギリと奥歯を噛みしめると、ギロリとハンネスを睨みつけた。
ハンネスも拳銃の発砲音に気付いたようで、その視線を頭上に向けている。
ハンネスが、覗かせていた赤い瞳を静かに閉じ、見上げていた顔を、サクラに向けた。
「……さっきの子供がいるのは、地下にあるこの部屋の、真上の部屋だ……早く行け」
ただサクラを追い払いたい意図で、ハンネスから提示された情報。
そこにまた、全身を焼きつけるような怒りが、サクラの内に沸いてくる。
だが今は――
(――くそ!)
折れた刀を鞘にしまい、サクラは全速力で部屋を飛び出した。
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ヴィレムとダンカンが、面会をしている客室。
その部屋にある廊下へと続く扉。
そして、その扉付近に立ち、協力を迫るダンカンに、声を詰まらせていたハル・ルーズヴェルト。
金色の頭に金色の瞳。
今年で十歳になる、まだ幼い少年。
その小柄な少年の体が――
ヴィレムが放った一発の銃弾により、前のめりに倒れた。
硝煙を上げる銃口を、倒れた少年にぴたりと合わせているヴィレム。
脅迫めいた言葉で少年に協力を迫っていたダンカンが、銃弾に倒れた少年を、呆然と見つめる。
うつ伏せに倒れたまま、ピクリとも動かない少年。
その姿を暫く眺めた後、ダンカンが拳銃を構えたヴィレムをギロリと睨み、声を荒げた。
「き……きき……貴様!
何のつもりだヴィレム!
なぜこんな……」
「なぜ……ですか?」
クツクツと笑い、銃口を静かに下ろすヴィレム。
彼のその態度に、ダンカンが一瞬たじろぐのが分かった。
丸眼鏡に隠した赤い瞳を輝かせ、ヴィレムが口を開く。
「決まっています。
これが私の――私達魔族の目的だからですよ」
「目的……だと?」
ダンカンが「馬鹿な!」と手を振るい、笑みを浮かべるヴィレムを睨みつける。
「貴様、自分が何をしたのか分かっているのか!?
貴様ら魔族は今、追い詰められた状態にある!
もしこの子が無事に帰らなければ、間違いなく戦争が起こるのだぞ!」
「いえいえ、ご心配には及びません。
初めからそのつもりですから」
「初めから……ど……どういうことだ!?」
魔族を利用し、幼い子供を利用し、情勢さえも利用して、自身の目的を果たそうとしたダンカン・スコールズ。
その聡明な彼にしては、間の抜けたことを言う。
ヴィレムは、何とも勘の鈍いダンカンに、浮かべていた笑みを深くする。
するとその時、廊下を駆ける足音が聞こえてきた。
ずかずかと床板を踏み抜くような足音が部屋に近づき、一切の間を空けずに、扉が力強く内側に開かれる。
廊下を駆けて扉を開いたのは、薄紅色の髪を持つ、眼帯をした女性だった。
「……貴方は……サクラ・トドロキさん。
どうしてここに――」
ヴィレムはそう言いかけて、すぐに事情を理解した。
大方、ハンネスが彼女に余計なことを話したのだろう。
そもそも彼は、今回の計画に積極的というわけではない。
あくまで魔王族としての宿命に従い、協力しているに過ぎない。
ゆえに、計画に大きな支障がない限りは、その他の雑多な物事に関心がないのだ。
(つまり彼女は危険ではないと、ハンネス様が判断されたということ……)
ならば、放っておいて問題ないだろう。
そうヴィレムは内心で判断した。
部屋に飛び込んできたサクラ・トドロキが、扉付近に倒れていたハル・ルーズヴェルトを見つける。
床に倒れたまま身動きしない少年に、少女が表情を強張らせた。
サクラ・トドロキが少年に駆け寄る。
うつ伏せに倒れた少年を抱きかかえ、反転させて少年の顔を上向きにする。
少年の顔色を見た少女が、表情を歪める。
「これは……何の真似だ!
ヴィレム!
ハルには手を出さないとそう言っただろ!」
「いいえ。
指一本触れないとは申し上げましたが、手を出さないとは約束しておりません。
しかし見上げた回復力ですね。
まさかもう、動き回れるほどに回復するとは」
「――貴様!」
「お……おい!
待て、そこの女!
何だお前は!?
とにかくハル様から離れろ!」
状況をまるで理解していないダンカンが、少年の体を抱きかかえている少女に、怒声を上げる。
少女が屈み込んだ姿勢のまま、ギロリと瞳を尖らせ、ダンカンを睨みつけた。
ヴィレムはやれやれと肩をすくめ、大きく溜息を吐く。
「何やらごたついてしまいましたね。
まあここまで状況が進めば、もう良いでしょう。
サクラ・トドロキさん。
貴方も同席してください。
どちらにせよ、すぐに分かることです」
「分かること?
一体何の話だ!」
「話を戻しましょう。
なぜ私が、戦争を止めるために必要な、ハル・ルーズヴェルトを撃ってしまったのか。
その答えはとても単純なことですよ」
革張りのソファに腰掛けたまま、前傾姿勢となり、ヴィレムは明瞭に答えた。
「私の目的が――魔族と人類との戦争を引き起こすことだからです」
ヴィレムの言葉に、サクラ・トドロキとダンカンが、同時に表情を硬直させた。
滑稽に目を見開き、唖然とする二人の姿に、ヴィレムはちょっとした小気味よさを覚える。
「ですから、ハル君が傷付こうと、例え死んでしまおうと、何の問題もありません。
むしろ私はこの状況を望んでいました。
これは宣戦布告なのですから」
「宣戦布告……だと?」
掠れた声で訊き返すダンカン。
ヴィレムはニヤリと口元を曲げ、犬歯を覗かせた。
「俗っぽい言い方をするなら、喧嘩を売っているのですよ。
それを明確に示すために、ハーマン・ルーズヴェルト議員のご子息を拉致し、貴方の目の前で殺したのです」
「ば……馬鹿な!
お前達がハルを誘拐したのは、私が指示したからだろう!」
「ええ、まさに貴方からの依頼は渡りに船でしたよ。
貴方の手回しのおかげで、ハーマン氏の行動を逐一把握することができ、教会に守られているハル君を、警備の穴を突いて連れ去ることができましたからね。
さらに中央政府への報告も、ハーマン氏を説得して思い留まらせてくれていた。
おかげでとても動きやすく、非常に助かりました」
「……なんだと。
ヴィレム……貴様まさか」
「別に驚くようなことでもないでしょう」
顔を蒼白にするダンカン。
ヴィレムは子供を諭すように、丁寧に話をする。
「貴方が魔族である私を利用したように、私も人間である貴方を利用しただけですよ。
もっとも、私の場合は貴方に利用されているフリをしていただけですがね」
「ふざけるな!
ま……魔族風情が、人間を利用するなど驕りがすぎるわ!」
「それこそが人類の驕りそのもの。
魔族を見下し、己の能力を過信した結果です」
ダンカンをそう嘲笑い、ヴィレムは体を背後に倒し、ソファの背にもたれ掛かる。
「まあ良いではないですか。
戦争が起これば、貴方の目論見である教会の強化は、否応なくなされます。
そうすれば、教会長である貴方の懐も、さぞ温かくなることでしょう」
人類の平和のためだ何だと、声高に主張していたダンカン。
だがその実、ただ自身の私腹を肥やすために、彼が行動していたということなど、ヴィレムはとうに気付いていた。
ダンカンが蒼白の顔を醜く歪め、歯ぎしりしながら唸るように言葉を吐く。
「……勝てると思っているのか?
魔族が人類に……皆殺しにされるだけだぞ」
「勝ち負けなど、この際どうでもいいこと。
魔族は二百年もの間、人類に抑圧され続けてきた。
その雪辱を晴らすために、今こそ我らは魔族の本質に従う。
つまり――闘争です」
「捨て鉢のつもりか?
二百年前の戦争で我ら人類が勝利した時、魔族を殲滅せずに情けで生かしてやった恩を忘れ、あろうことかそれを仇で返そうとは……この痴れ者が!」
「人類に恩などありはしない。
そして捨て鉢のつもりもない。
勝ち負けなど関係はないが、負けるつもりも毛頭ない。
我ら魔族には今、魔族を統率するに相応しいお方がいる。
各種別に散り散りとなった魔族は、これより一丸となり、人類に戦いを挑むつもりです」
ヴィレムのこの言葉に、ダンカンの蒼白の顔が、徐々にどす黒い憤怒の色に染まっていく。
格下だと見下していた魔族からの高圧的な物言いに、彼の人類としての高いプライドが刺激され、決して前向きでなかった戦争に対し、好戦的となっていったのだろう。
さらにダンカンを煽ろうと、ヴィレムは口を開こうとした。
だがその時――
「……ふざけるなよ」
ヴィレムとダンカンの会話に、女の声が割って入った。
声の主はサクラ・トドロキだった。
動かなくなったハル・ルーズヴェルトを腕に抱いた彼女が、ヴィレムとダンカンを交互に睨みつけている。
少年を強く抱きしめ、慎重に立ち上がる少女。
彼女の眼帯に隠れていない左碧眼に、激しい怒りが映しこまれていた。
「戦争だ何だと……そんな下らないことでハルを傷つけたっていうのか?
こいつには、お前らのそんな事情など、何の関係もないんだぞ」
「……意外なことを口にされますね。
サクラ・トドロキさん」
本当に少女の言葉を意外に感じ、ヴィレムは怪訝に眉をひそめる。
「ハル・ルーズヴェルトは、政治家のもとに生まれた子供です。
本人が望む望まないに拘わらず、彼は利用価値の高い子供であり、ゆえに危険な立場に置かれることとなります。
その程度のこと、サクラさんほどのお方でしたら理解できると思っていましたが?」
「お前達の理屈なんてどうでもいい。
私はこいつをこれから病院に連れて行く。
戦争が何だ、二百年前の恩だ仇だなんて、お前達で勝手に話し合っていろ」
「な……何だと?
女!
何を勝手なことを言っている!
その子はこちらが預か――」
「黙れ!」
喉が裂けんばかりに声を荒げ、少女がダンカンの声を遮った。
「倒れた子供を無視して、くだらん戦争談義に華を咲かせている貴様らに、ハルを任せることなんてできるか!
ハルは私が預かる!
誰にも文句は言わせない!」
「……その子を連れて行っても無駄ですよ」
滑稽なほど怒りを顕わにする少女に、ヴィレムは蔑みを込めて呟いた。
「銃弾はハル君の心臓を撃ち抜きました。
例え病院に行こうと、その子は助からない」
「黙れと言っているだろうが!」
「……どうしてハル君のことで、貴方がムキになるのですか?
関係ないでしょう?」
サクラ・トドロキがヴィレムを鋭く睨む。
彼女の焼き付けんばかりの視線を、平然と見返すヴィレム。
睨み合いは数秒。
少女がヴィレムから視線を外し――
ハル・ルーズヴェルトを抱えたまま、駆け出した。
ヴィレムとダンカンの前を横切り、窓へと近づく少女。
全ての窓は隙間なく閉じられ、鍵も掛けられている。
だが一切の躊躇なく、少女が床を蹴って、肩から窓にぶつかった。
パリンッ!
と窓ガラスが粉々に砕ける。
一階の窓から屋敷の外に飛び出した少女が、地面に着地したと同時に、すぐさま再び駆け出した。
屋敷の広い庭園を横断し、硬く閉ざされた門扉を悠々と跳び越えて――
ヴィレムの視界から少女が消える。
ヴィレムは、少女が逃げた方角を眺めながら、内心で溜息を吐いた。
餓鬼族や液状族に仕込んでいた内通者からの情報によれば、サクラ・トドロキとは自身の欲望には忠実のようだが、もう少し理知的な人間だと考えていた。
少なくとも、下らない情に流され、冷静な判断が下せなくなるような、愚か者ではないとしていたが――
(過大評価だったか。
ハンネス様が放っておかれたのも、それが理由か?)
何にせよ、サクラ・トドロキもハル・ルーズヴェルトも、自分にとってはもはや無価値な存在だ。
ヴィレムはそう判断し、苦虫を噛み潰したような顔をしているダンカンに、再び視線を戻す。
ダンカンの視線がこちらに向くのを待ち、ヴィレムは口を開いた。
「明日の正午、我々魔族はクレオパスに対し、襲撃を仕掛けます。
火急的に寄せ集めた軍勢のため、少々物足りないものですが、それを開戦の火蓋としましょう」
「……本当に……人類と戦争を起こすつもりなんだな?」
ダンカンのくどい確認。
ヴィレムは躊躇なく頷くと、赤い瞳を爛々と輝かせた。
「さあ、二百年ぶりの戦争を楽しみましょう」




