アイドルに興味はないが、そこに付随する金には興味がある。(4)
深夜二十四時。
多くの者が寝静まり、街中から明かりが消えていく時刻。
僅かな肌寒さを感じながら、サクラは街灯の明かりを頼りにして、通りを歩いていた。
サクラはクレオパスを訪れたことが、一度もない。
そのため当然、街の施設や通りには詳しくなかった。
だが事前に、目的地となるその道順は頭に叩き込んでいたため、分岐路に差しかかろうと迷いを見せることなく、淀みなく歩を進めた。
宿を出てから約十分が経過した。
サクラの背後から、少年の怪訝な声が上がる。
「ねえ、サクラお姉ちゃん。
散歩ってどこまで行くつもりなの?」
背後を振り返るサクラ。
そこには、彼女の背後をぴったりと付いて歩く、金髪の少年がいた。
ここクレオパスで議会議員を務める、ハーマン・ルーズヴェルトの一人息子――
ハル・ルーズヴェルトだ。
眠たそうに瞼をこすり、ハルが欠伸混じりに言う。
「もう宿屋に帰ろうよ。
ボクってばすごく眠いからさ。
明日の朝に、ボクの家にみんなで行くんでしょ?
散歩だったらその時にしようよ」
少年からの当然ともいえるクレーム。
個室で一人寝ていたところを、サクラに叩き起こされて、多少不機嫌でもあるようだ。
サクラは視線を前方に戻し、ことも何気に言う。
「明日の朝にお前の家になんか行かないぞ」
「……え、何で?」
不思議そうに尋ねてくるハル。
サクラはこれまた平然と言う。
「今まさに、お前の家に向かっているんだから。
明日の朝に行くも何もない」
「ふーん、そうなんだ……ん?
ええ!?」
少年が一度納得しかけて、すぐに困惑の声を上げる。
パタパタと背後からサクラを横切り、彼女を通せんぼする形で、少年が前方に躍り出た。
だがサクラは、前方に立った少年など一切気にせず、歩を進めていく。
立ち止まらないサクラに、彼女とぶつからないよう、少年が慌てて後ろ向きに歩き始める。
「ちょちょ、サクラお姉ちゃん。
止まってよ」
「断る。
お前の家まで結構距離があるんだぞ。
立ち止まっていては日が暮れる」
「日が暮れるも何も、深夜だよ?」
的確な指摘をするハル。
サクラを停止させることを諦めたのか、少年がいそいそとサクラの隣に並ぶ。
短い脚を小走りに動かしながら、ハルが眉尻をちょこんと落とす。
「どういうこと?
ゴードンおじさんとリーザお姉さんに、明日行くって言ったじゃん」
「……あの場はああ言っておかないと、奴ら納得しないだろ」
「納得って……じゃあ、あれって嘘なの?」
「まさか本当に、魔族同伴で人間の屋敷に行けるわけがないだろ」
呆れたように溜息を吐くサクラ。
そして、ぽかんと目を丸くするハルに、さらに言う。
「今の私達は教会に追われる身だ。
その罪状については、まったくの事実無根で濡れ衣の何物でもなく、洗礼潔白である私に、何もやましいことなどないわけだが――」
何やら言い訳めいている。
そのことに気付いたサクラは、空咳を吐いて話を続ける。
「何にせよ、状況は面倒だ。
お前を親元に返して、自分の身の潔白も証明しなきゃならないってのに、魔族を連れて行くなんて心証が悪すぎるだろ。
話し合いってのは繊細なんだ。
少しでも円滑に話を進めるためには、魔族の連中に居てもらっちゃ困るんだよ」
「そんな――ひどいよ!
サクラお姉ちゃん!
みんなを助けるって約束したのに!」
予想通りといえる少年の反発に、サクラは肩をすくめる。
「そんな約束していない。
私の謝礼金が確約されたら、勝手に交渉しろと言っただけだ」
「だって、これじゃあ話をすることもできないじゃん!
サクラお姉ちゃんの嘘つき!」
「うるさい黙れ!」
憤慨してぐずるハルに、サクラも苛立たしく口調を強める。
「魔族連中がいたら話し合いどころか、即刻教会に通報だってされかねないんだぞ!」
「だからってずるいよ!
そんなんだったらボクは家に帰らないからね!」
そう叫んで道端に立ち止まるハル。
サクラも仕方なく立ち止まり、少年に声を荒げる。
「馬鹿かお前は!
家に帰らないでどうする!?
浮浪者にでもなるつもりか!」
「ゴードンおじさんとリーザお姉さんに家まで連れてってもらうから別にいいもん!」
「だから、そんなことしても何にもならないって言ってるだろ!
人の話を聞け馬鹿!」
「サクラお姉ちゃんのほうが馬鹿だ!
馬鹿で嘘つきだ!
あと感情のない狂戦士だ!」
「狂戦士ってなんだ!
ていうか深夜に騒ぐな!
近所迷惑だろ!」
「嫌だ!
みんなと帰らないと嫌だ!」
「だから魔族がいたら困るんだよ!」
「嫌だ!
嫌だ!
嫌だ!
嫌だ!」
バタバタと地団太を踏むハルに、サクラはこめかみをひくつかせ、瞳を尖らせる。
「ああもう――いい加減にしろ!
魔族の連中がいては邪魔だから、魔族の連中を抜きにして、私が連中には手を出さないよう、話をつけてやろって言ってるんだろうが!」
サクラの怒声に、ハルがきょとんと目を丸くして口を閉ざす。
「チッ」と軽く舌打ちをしてそっぽを向くサクラに、ハルがパシパシと目を瞬く。
「……え?
話してくれるの?」
「……お前にも協力してもらうぞ。
それでも、上手くいく保証なんてないけどな」
ぼそりと呟くサクラ。
その彼女の様子に、ハルが不思議そうに小首を傾げる。
「……もしかしてツンデレ?」
「どこでそんな言葉、覚えてきた?」
半眼でハルを睨む。
ハルが「ああ、でもでも……」とワタワタ腕を振る。
「それだったら、二人にもちゃんと話せばよかったじゃん。
どうして黙っていたの?」
「私が話をつけるから付いてくるなと言っても、信用しないだろ。
二人は」
「そうかな?
二人ともサクラお姉ちゃんの言うことなら聞いてくれそうだけど」
「……まあ、ゴードンの奴は良くも悪くも単純だからな。
あっさりとこちらの言うことを信用するかも知れん。
だがリーザの奴は絶対に納得しないだろうさ」
困惑顔で「どうして?」と問う少年に、サクラはポリポリと桜色の頭を掻く。
「あいつは態度こそふざけているが、油断ならない奴だよ。
液状族の仲間であろうと、素行が怪しければ監視を置き、場合によっては締め上げることも厭わない奴だからな。
ミリィ以外の仲間を連れていないのも、他の連中は真に信頼がおけないからだろう」
「ええ……そうは見えないけど」
なぜか声を上擦らせるハル。
サクラはヒラヒラと手首を振り、少し投げやりに言う。
「まあ確証はないけどな……だが下手に疑われて面倒を起こされても困る。
だから二人には黙って行くんだ。
ほら、これで納得しただろ。
なら早くお前の家に向かうぞ」
そう話して、再び道を歩き出すサクラ。
だが道に立ち止まった少年に、動く気配が見られない。
サクラは数歩進んだところで再び立ち止まり、少年に声を掛けた。
「おい、まだ何か文句があるのか?」
「……いや、文句じゃなくて……」
いやに歯切れの悪いハルに、怪訝に眉をひそめるサクラ。
彼女の訝しげな視線を受けて、少年がひどく気不味そうに指を弄りつつ、躊躇いがちにポツリと言う。
「あの……ごめんなさい」
「……は?」
「実はわ――」
少年が何かを言いかけた、その直後――
サクラの前方にある横道から、大勢の人影が姿を現した。
「――!
おい、人がいるぞ!
確認しろ!」
その声が聞こえた直後、横道から現れた大勢の人影が、サクラとハルに向けて一斉にライトを向ける。
暗闇に慣れた目に強い明かりを当てられ、サクラは思わず瞼を閉じた。
「わわ、何なの!」
ハルの狼狽する声が聞こえた。
サクラは苦心しながらも、瞼を薄く開けて、ライトの向こう側に焦点を当てる。
強い明かりに滲んだ影から、矢継ぎ早に声が上がる。
「若い女と少年の二名!」
「両名共に、報告と特徴が一致しています!
間違いないと思われます!」
「少年は――ハル・ルーズヴェルトです!」
ライトの向こう側から聞こえてきたその声に、サクラの心臓が強く跳ねた。
サクラの視界に滲んでいた人影が、瞳孔の収縮運動に伴い、徐々に鮮明になっていく。
青を基調とした衣服に身を包んだ集団。
教会の制服に酷似しているが、彼らが身につけているのは、より機能的に洗礼されたものだと、一見して知れた。
肩から羽織った白いマントに、胸元に刺繍された剣と盾。
そして何よりもの彼らの特徴は、一般人では決して身につけることがない、身につける必要がない、その腰元に下げられた――
肉厚の剣と、銃身の長い拳銃。
「――騎士軍か!?」
驚愕するサクラ。
どうしてこの場に騎士軍がいるのか。
疑問に思うも、悠長にそれを考えている暇などなかった。
騎士軍の司令官と思しき男が、声を上げる。
「女を拘束しろ!
抵抗するようならば殺しても構わん!」
司令官の指示に、前衛にいた三名の騎士が鞘から剣を引き抜き、こちらへと駆け出してくる。
サクラは内心で舌を鳴らすと、腰を落として迎えうつ態勢を整える。
「問答無用か――よ!」
騎士が十分に近づく前に、こちらから急接近して、騎士の一人に蹴りを入れる。
鳩尾に踵を突き刺された騎士が、涎混じりの息を吐き出し、後方にひっくり返る。
サクラは蹴り足を引くと、ほぼ直感に従って、素早く腰を屈めた。
サクラの桜色の髪を掠めて、二本の肉厚の刃が頭上を通過する。
腰を屈めたまま足を滑らせて、一人の騎士に接近。
掌底で顎をかち上げて、騎士の脳を激しく揺らす。
背後を振り返らずに、半身に体を逸らすサクラ。
背後から振り下された剣が、彼女の鼻先を通過する。
攻撃を仕掛けてきた騎士に音もなく接近し、脇腹に拳をねじ込む。
声にならない呻き声をあげ、騎士が前のめりに倒れた。
先行した三名の騎士を打ち倒し、サクラは前方にいる数十名の騎士に、視線を戻す。
サクラによって、瞬く間に三名の騎士を無力化させられるも、彼らに動揺の色はない。
恐らくこの三名は、こちらの戦力を分析するためだけに、先陣を切らされたのだろう。
司令官と思しき男が声を張り上げ、部下に指示を飛ばす。
「奴をただの女だと思い油断するな!
一息には近づかず、まずは周りを取り囲め!」
司令官の的確な命令に、内心で毒づくサクラ。
十数名の騎士がぞろぞろと動きだし、サクラの背後へと回り込んでいく。
サクラを取り囲んだ騎士が剣を引き抜き、構えを取る。
前後左右から向けられる鋭利な敵意に、サクラの全身に、じっとりと冷や汗が浮かぶ。
状況は最悪。
抵抗云々と話していたが、いきなり斬り掛かられたことからも、こちらが諸手を上げても、無事で済まされる保証はない。
そもそもそんなことをすれば、ハルの身柄を、教会に引き渡さなければならなくなる。
(それじゃあ謝礼金がもらえないし……身の潔白も証明できなくなる)
教会に拘束された後、牢の中で親元に送り届けるつもりだったと主張しても、聞き入れてくれる見込みはない。
それは、例えハルがその意見に同調しようとも、同じことだろう。
自身の主張を押し通すためには、それを行動に示すことが、絶対条件なのだ。
そしてそれさえ達成すれば、あとは議会議員であるハーマンの力で、教会への反抗も帳消しできるはずだ。
教会から逃げていた理由は、突然斬り掛かられたため――これは事実そうだ――、自己防衛のために仕方がなかったのだと、説明すればいい。
何にせよ、クレオパスまで訪れて、謝礼金を諦めることも、牢にぶち込まれることも、御免だった。
もちろん、人生をここで終わらせる気もない。
じりじりと包囲網を縮めていく騎士。
それを見回し、焦燥に駆られながらも思案する。
(まだだ……まだ勝機はある)
先程から騎士が使用する武器は、もっぱら剣だけだ。
騎士の最強兵器たる拳銃に手を伸ばす者はいない。
これはサクラの近くに、保護対象のハルがいるからだろう。
拳銃の精度はまだ完全ではない。
彼らは誤射により、少年を傷付けることを恐れているのだ。
(ハルを盾にしてこの場を切り抜ける。
あとは体力の続く限り、逃げ回るしかない)
そう決意をして、サクラはハルの腰に腕を回して、少年を肩に担ぎ上げた。
「わっ」と短い声を漏らす少年。
すぐさま腰を屈めて、足先に力を入れたところで――
サクラは違和感に気付く。
「――ハル。
お前?」
「……えへへ」
ハルが気不味そうに笑う。
少年のその事実に、サクラが暫し呆然としていると――
「いかん!
少年を即刻保護しろ!」
徐々に包囲網を縮めていた騎士が、一斉にサクラへと踊り掛かる。
サクラは「チッ」と舌を鳴らすと、判明したその事実を一旦脇に置き、地面を強く蹴った。
騎士の頭上を跳び越えて、立ち並んでいる建物の、窓枠の出っ張りに足先を掛ける。
そして再び、体を跳ねさせる。
二度の跳躍により、七メートルほど跳び上がったサクラは、隣接していた背の低い建物の、その赤い屋根に跳び移った。
「……マジかよ」
眼下にいる騎士の一人が、サクラの曲芸に呆然とした呟きを漏らした。
騒然とする騎士から視線を外し、サクラは屋根の上を駆け出す。
通りに残された騎士から、声が上がる。
「お……追え!
絶対に逃がすな!」
司令官の指示を受け、通りにいた騎士が一斉に、サクラの後を追い掛ける。
サクラは隣接する建物の屋根に、次々と跳び移りつつ、視線を忙しなく左右に振った。
(くそ……予想はしていたが、やはりどの通りにも騎士がうろついているか)
先程までサクラがいた通りから、建物を挟んで向かいにある通りにも、大勢の騎士がおり、下から照らされたライトに浮かび上がるサクラを、懸命に追い掛けていた。
サクラは苦々しく顔を歪めると、駆ける足を止めることなく、現状の分析に努めた。
(これだけの騎士が集められている以上、騎士の巡回中に偶然見つかったとは、考えにくい。
何者かが私達の居場所を、教会にリークしたんだ)
それは、先程からなされている騎士達の会話からも、推測されることだ。
だがそれが事実ならば、サクラ達の居場所を教会に伝えたのは、一体何者なのか。
(人気がないだろう路地を予め選び、宿を取ったんだ。
確かに、目立つ行動は多々あったが、検問以降、教会の連中も見掛けなかったし、細かい位置まではバレていないはず)
だが実際には、詳細な位置まで知られていたため、これだけの騎士が招集されたのだろう。
自分の行動にどのような落ち度があったのか、サクラは必死に思考を巡らす。
(宿の主人が教会の連中と繋がっていた?
考えられなくはないが――)
しかし、あのような人気のない場所で経営する宿の主人を、教会が子飼いにする利点が思い浮かばない。
そもそも、自治都市という性質がゆえ、常に資金不足で喘いでいる教会に、それだけの資金力があるとも思えない。
だとすれば何か。
教会でないのなら、何者がサクラ達を陥れたのか。
(――まさか小人族の仕業か……)
魔族の各種族に内通者を配置し、さらに人間社会にもその支配権を広げているという、力ではない情報戦を得意とする稀有な魔族。
ハル誘拐事件の首謀者だと思われており、ゴードンとリーザがしきりに、警戒するよう口にしていた、全容の知れない存在。
その小人族と宿の主人が通じていた。
そうは考えられないか。
しかしサクラ達が泊っている宿は、クレオパスの地図を眺めて、それこそ適当に決めたものだ。
そこがたまたま、小人族の息が掛かった人間の経営する宿などという、偶然があり得るだろうか。
或いは――
(偶然なんかじゃなく……それは必然に近いものだった……とすればどうだ?)
人間社会に潜む小人族。
その影響力が、サクラの想像を遥かに上回るものであり、何でもない安宿の主人でさえ、当然のように彼らの影響下にあるのだとすれば――
(クレオパスでの行動の全てが、連中に筒抜けってことか!)
これでは連中の腹の中に、自ら飛び込んだようなものだ。
サクラは焦燥に歯ぎしりしながらも、屋根の上を駆けて逃走を続ける。
(だがそう仮定したとして、なぜ連中が私達の居場所を教会に知らせる必要がある?)
小人族の狙いはハルだ。
少年が教会に保護されては、彼らとて都合が悪いはず。
教会さえも彼らの支配下にあるとすれば納得もするが、さすがにそれは考えにくい。
(……街中では小人族も魔族を集めにくいと、ゴードンが話していたな。
それが事実なら、連中は私達を捕らえるための人手として、騎士軍を利用したってことか?)
魔族である小人族が、魔族と敵対している騎士軍を利用するなど、まるで想像の埒外だ。
だがもし仮に、その推測が的を射たものであるなら――
(連中はいずれ、この場に姿を現す!)
その考えにサクラが至った、その直後――
パンッ!
そんな軽い破裂音とともに、サクラの腹部が弾けた。
屋根を駆けていた足がガクンと崩れ落ち、ハルを肩に抱えたまま、サクラは屋根の上に転倒する。
(――撃たれた!?)
瞬間にそれを理解するサクラ。
だがハルを抱えたサクラを、騎士の連中が躊躇なく発砲するなど、考えにくい。
どれほど腕に覚えがある者だろうと、拳銃はその機構上、完全な命中精度を満たすことなどなく、ハルを誤射する可能性が必ず残る。
もしも、それを理解してなお、拳銃を発砲した者がいたとすれば――
(ハルに銃弾が当たっても……構わないと……考えて……いる……)
屋根に倒れたサクラの体が、屋根の傾斜を転がっていく。
腕に抱えたハルが何かを叫んでいるが、腹部の激痛に意識を掻き回され、何も理解することができない。
屋根から体が落ちる。
体を包み込む浮遊感。
サクラは咄嗟にハルの体を強く抱き、自らの背中を地面に向けた。
サクラの背中に、体をバラバラに砕くほどの、強い衝撃が叩きつけられる。
それと同時に、落下の衝撃に揺すられた頭部が、地面に激しくバウンドした。
頭蓋が耳の奥で鳴る。
視界が掠れていき、意識が遠のいていく。
腕の中に抱いたハルが、また何かを叫んでいる。
だが今度は、意識を呑み込む闇に、声が吸い込まれていく。
掠れていく視界の端で、騎士がこちらへと駆けてくる様子が見える。
だがサクラにはもう、身動きする余力すらない。
剣を携えた騎士が、あと数歩の距離まで近づいた――
その時――
巨大な漆黒の壁が、騎士とサクラとの間にそそり立った。
「――!?」
遠のく意識に疑問が過る。
そしてその直後、地面に横たわるサクラの目の前に、頭上より何者かが下り立った。
すでに焦点を結ばないサクラの視界では、その何者かの姿を正確に捉えることができない。
輪郭を滲ませて地面に立つ黒い影。
サクラにはそれが――
地面から突如生えた、影法師にしか見えなかった。
「――何だ貴様は!?」
漆黒の壁の向こう側から、聞こえないはずの騎士の声が、サクラに届いた。
輪郭をゆらりと揺らして、影法師が騎士の問いに答える。
その声はあまりにも小さく、ともすれば騎士にさえも届いていないのではないかと心配になるほど、頼りないものであった。
だがしかし――沈みゆく意識の中で、不思議とサクラには、その影法師の声がはっきりと聞こえていた。
その影法師は騎士の問いにこう答えたのだ。
「――魔王族」
その影法師の声を最後にして――
サクラの意識は完全に闇に沈んだ。




