プロローグ
クロラス森林。
それはカッサンドラ地方の東部に位置する、面積が百平方キロメートルもある広大な森の名前だ。
多様な常緑樹が密集したその森は、頭上を覆う緑葉の天蓋により、一年を通じて日の光が遮られ、薄暗く陰鬱な気配を漂わせている。
そんな森の一画に、樹々の開けた場所がある。
まるで、森にぽっかりと穴が空いたような、背の低い雑草だけが生い茂るその場所には、底まで水の透き通る美しい湖があり、森を通過する者達の、一時の憩いの場として知られていた。
その、本来ならば気を休めるべき湖のほとりで、恐怖に満ちた男性の声が上がる。
「ひぃいいいいああああ!」
声の主は、三十代半ばと思しき、顎髭の生えた男性だった。
商業を営んでいるのか、小さな子供ならば隠れることができそうな、大きな荷物を背中に抱えた男性が、へたりと力なく座り込む。
男性の見開かれた瞳。
その視線の先には――
怪物が立っていた。
身丈が二メートル弱。
まだらのように濃淡のある緑色の皮膚に、不気味に細長い四肢。
頭部から生えた灰色の髪の毛に、顔面の比率に対して大きすぎる赤い瞳。
頬まで裂けた口からは、蛇のように長い舌と、肉食獣のような鋭い牙が、覗いていた。
地面に尻もちを付けたまま、男性が歯の根が合わない声で言う。
「ゴ……ゴゴ……餓鬼族……か?」
「見て分かるようなこと、いちいち聞いてくんじゃねえよ、ああ!?」
男性の言葉に対し、髪をモヒカンにした怪物――餓鬼族が、ドスの利いた声を上げる。
餓鬼族の威圧的な態度に、竦みあがる顎髭の男性。
その彼の怯えた様子に、モヒカン餓鬼族が、牙を剥いてニヤリと笑う。
「そう怯えんなよな……いきなり大声上げて悪かったよ、人間のおっさん」
「あ……ああ」
カタカタ震えながら頷く顎髭の男性。
餓鬼族が瞳を細めて、穏やかな口調で言う。
「何もよ、お前さんを取って食おうってわけじゃねえんだよ。
なあ?
昨今のご時世だ。
俺ら魔族だってよ、テメエら人間と友好的に過ごしていきたいわけよ。
分かる?」
「も……もちろんだ。
わ……私としても……君達魔族と争うことは望んでいない……」
「おう、そうかそうか」
頬まで裂けた口を広げ、不気味な笑みを浮かべるモヒカン餓鬼族。
その悍ましい餓鬼族の笑顔に蒼白になりながらも、顎髭の男性もまた、表情に無理やり笑顔を浮かべる。
モヒカン餓鬼族が、朗らかともとれる口調で、言葉を続ける。
「分かりあえて何よりだ。
争ったところでお互いに得なんてないからな?」
「ま……まったくだ。
ははは……」
「それでよ、お互いが仲良くなったってことで、友好の証を貰いてえんだが?」
「へ……友好の証?」
引きつり笑みのまま、目を丸くする顎髭の男性。
ぽかんと疑問符を浮かべる彼に、餓鬼族の口調が、朗らかなものから一転、「あ?」と威圧的なものに変わる。
「何をしらばっくれてんだよ、テメエは。
証だよ証。
おら、さっさと寄こしやがれ」
「あ……証って……そのつまり……」
「金寄こせって言ってんだよ!」
声を荒げたモヒカン餓鬼族に、顎髭の男性が「ひぃ!」と小さな悲鳴を上げる。
恐怖から体を硬直させる男性に、苛立たしそうにモヒカン餓鬼族が舌を鳴らす。
腰に下げていた鞘から、分厚い剣を抜刀し、モヒカン餓鬼族が瞳を鋭くする。
「仕方ねえ……友好の証が貰えねえんじゃあ……俺達は敵対するしかねえよなあ?」
「まままま……待ってくれ!
ちょ――」
「テメエをぶち殺して、身ぐるみ剥いで死体を埋めといてやるよ!」
「払うから!
払うから待ってくれ!」
顎髭の男性が慌てた様子で、背負っていた荷物を脇に下ろす。
荷物の口に固く結ばれていた紐を手早く解き、荷物の中から小袋を取り出すと、無言で手を差し出しているモヒカン餓鬼族に、そそくさとその小袋を手渡した。
モヒカン餓鬼族が、手渡された小袋を上下に揺らす。
小袋の中から鳴る、金属同士がぶつかる音。
景気の良いジャラジャラとした音に、餓鬼族がヒュウと口笛を吹く。
「なかなかの量じゃねえか。
これで俺とお前は、友好関係が成立したわけだな」
「そ……それは何よりです……はい」
「お前にはもう用はねえ。
さっさと消えな」
構えていた剣を鞘にしまうモヒカン餓鬼族。
顎髭の男性が荷物を背負い直し、そそくさと立ち上がる。
そして若干背後に重心を移しつつ、躊躇いがちに口を開く。
「あ……あの……実はそのお金なんですが、今月の売上金の全てでして……」
「ああ?
だから何だよ?」
ギロリと睨みつけてくる餓鬼族に、顎髭の男性が震えながら言う。
「ですから……あの……少しだけでも返していただけると……私にも生活が……」
「……なるほどな。
だったらよ、今後の生活の心配が要らないようにしてやろうか?」
モヒカン餓鬼族が再び鞘から、肉厚の剣の刀身を覗かせる。
顎髭の男性が「け……結構です!」と踵を返し、泡を喰ったように逃げ出した。
躓きながら遠ざかっていく男性の背中を眺め、モヒカン餓鬼族が気分良さそうにゲラゲラと笑う。
「情けねえ野郎だ。
所詮人間なんぞ臆病者ばかりのクソに過ぎねえってこったな」
男性からカツアゲした金を革鎧の懐にしまい、モヒカン餓鬼族が冷笑する。
そして、立てた髪をガリガリと掻きながら、ぐるりと視線を巡らした。
「さてと……これで暫くは金に困ることはねえわな。
退屈していたところに小遣い稼ぎができて何よりだが、まだ約束の時間までは少しあるな……」
周囲の樹々を見回していた視線を、ある一点でピタリと止める。
彼の視線のその先には、一辺が一メートルほどの木箱が置かれている。
髪を掻いていた手を下し、モヒカン餓鬼族が大きく溜息を吐く。
「さっさと、このたるい仕事を終わらせて、うまい酒にありつきたいものだが……ん?」
ぴくぴくと尖り耳を動かすモヒカン餓鬼族。
周囲に起立する樹々の一画に、鋭く細めた赤色の瞳を向けて、モヒカン餓鬼族が牙を剥いて、ニヤリと笑う。
「……こいつは……人間の足音か?
くっくっく……今日はツイてるな。
約束の時間が来る前に、もうひと稼ぎできそうだぜ」
そう独りごち、モヒカン餓鬼族が息を殺して暫し待つ。
三十秒ほど経つ。
モヒカン餓鬼族の見据える先から、樹々の隙間を縫うようにして、一人の人間が姿を現した。
「……女か?」
姿を現した女性に、モヒカン餓鬼族が眉間に皺を寄せる。
十代後半と思しき女性だ。
身長は百七十センチ弱で、細身の体格をしている。
日焼けのない白い肌に、腰まで伸びた薄紅色の髪。
僅かに俯いたその目元は、長い前髪に隠されており、形の整った小ぶりな鼻と、固く結ばれた唇だけが、表情に覗いていた。
女性の服装は珍妙なものであった。
花柄模様の大きな一枚布を、そのまま体に羽織ったような服装で、一見するとローブの印象と近い。
動きにくい服装にも思えるが、女性の所作はまるで淀みなく、その一挙手一投足に美しさすら覚えるほどだ。
森の中で出会うには、不可思議な女性であった。
商人とも旅人とも趣が異なる。
だが餓鬼族が珍妙に感じたことは、そこではない。
彼が訝しく思ったこと、それは――
女性の腰元に吊るされている、黒塗りの鞘に納められた、細身の剣の存在であった。
「まさか……傭兵か?」
モヒカン餓鬼族が小さく呟く。
人間が武器を携帯することは珍しいことではない。
だがこうも、ひけらかすように所持していることはまれだ。
それをするのは、自身の強さを誇示する必要がある、特異な人種のみとなる。
つまり傭兵か、或いは教会に属する騎士などのような――
戦闘に身を置く人間。
起立した樹々を抜け、湖のある広場に足を踏み入れた女性が、ぴたりと立ち止まる。
訝しげに沈黙するモヒカン餓鬼族に、女性が何とも気楽な調子で、話し掛けてくる。
「今しがたこちらの方から、ひどい形相をした男が逃げてきたと思うが?」
「……ケッ」
僅かばかり気勢を取り戻したモヒカン餓鬼族が、女性の質問に歯を剥いて笑う。
「お前……さっきの男の知り合いか何かか?」
「いいや、ついさっき偶然見掛けただけで、まったく知らない男だ」
「だったらお前は、ここに何しに来た?」
「確認と……あとはまあ小遣い稼ぎだ」
モヒカン餓鬼族が眉間に皺を寄せる。
女性が唇の端をニヤリと曲げて、僅かに俯けていた顔を、ゆっくりと持ち上げた。
女性の前髪に隠れていた目元が、徐々に顕わとなる。
目尻が吊り上げられた、碧い輝きを湛える左の瞳。
そして――
革製の眼帯に隠された右の瞳。
女性が、眼帯に隠されていない左碧眼に、刃物のような眼光を閃かせ、淡々と語る。
「何があったのかは、大方の予想ができている。
お前らチンピラ魔族のすることなんざ、たかが知れているからな。
単刀直入に訊くが、あの男から金品を強奪したな?」
「……人聞きの悪い姉ちゃんだ。
強奪なんざしちゃいねえよ。
寄付金は貰ったがね」
「名目なんざどうだっていいさ。
とにかく、金を手に入れたってことだろ?」
「仮にそうだとして……まさか姉ちゃん、その取られた金を取り返そうってわけじゃねえよな?
忠告してやるが、正義の味方気取りなんかしても、痛い目を見るだけだぜ?」
女性を嘲笑うモヒカン餓鬼族。
だが餓鬼族の発言を受け、女性もまた「正義の味方?」と、嘲るように唇の笑みを深めた。
女性の左碧眼が、針のように細められていく。
「私の話を聞いていなかったのか?
私はさっき、小遣い稼ぎだとそう話したんだぞ?」
「……ああ?」
「回りくどいことは抜きにして、はっきりと言わせてもらうぞ」
女性が、腰元に下げていた細身の剣を、スラリと抜刀する。
まるで水に濡れたような輝きをほこる美しい刀身。
その切っ先をモヒカン餓鬼族に向けて――
女性が堂々と言い放つ。
「先程の男から奪い取ったぶんを含め、有り金を全てこちらに渡してもらう」
この女性の発言を受けて、モヒカン餓鬼族はようやく、自身の現状を理解した。
魔族である自分が今――
人間の女に恐喝されているのだと。