セリアの風邪
その日、セリアは地下貯蔵庫で座り込んでいるところをジェイクに発見された。
おつまみ用の乾燥肉を取りに来たジェイクは、ほの暗い貯蔵庫の階段に座っているセリアを見つけて、うおっと野太い悲鳴を上げた。
「おいおい、こんなところで何してるんだ、セリア」
声をかけたジェイクだが、反応がない。木綿のシャツにスカート、ランプの明かりのみに照らされる地下にいるからか金色の髪はくすんだ色に見えるが、この後ろ姿はセリアで間違いない。
セリアはジェイクに背中を向ける形で、階段に座っていた。体は少し傾ぎ、煤けた壁に寄りかかっている。はー、と息をついたジェイクは階段を数段下り、セリアの方を揺さぶ――ろうとして、目を見開いた。
今は秋の終わり。
肉や乳製品などを保管している貯蔵庫は地上よりも温度が低くて、半袖のジェイクも少しだけ肌寒さを感じていた。
だがジェイクが触れたセリアの肩は、びっくりするほど熱い。まさか、と思って首筋に触れると、そこもまた火照っていた。
「おまえ……熱があるんじゃないか!?」
「……あれ、ジェイク?」
大声を上げたためか、やっとセリアが反応して振り返った。その動作も億劫そうで、ジェイクを見上げる目は半分閉じている。
「ここ、涼しくて気持ちいいわね……ジェイクもどう?」
「いや、何が『どう?』なんかちっとも分からねぇし、おまえ絶対熱があるだろ」
「ないわ。ちょっと頭がぽかぽかするだけよ」
「それが熱ってやつだよ。……しばらく姿を見ないと思ったら、体が熱いから貯蔵庫に降りて涼もうとしたんだろ」
「してないわ。私は元気よ」
「はいはい、そんじゃ上に行くぞ。部屋で休むんだ」
「だめよ……私は今から、お昼ご飯の仕込みを手伝うのだから」
「それは健康なときでも、やめとけ」
結局セリアはジェイクに担がれて貯蔵庫から上がり、そのまま部屋に放り込まれた。
「身の回りの世話はひとまずフィリパたちに任せる。……あー、今日のデニスは夕方まで帰らないんだったか」
セリアを寝かせたジェイクはぼりぼりと頭を掻き、ぼんやりとするセリアを見下ろして嘆息した。
「そんじゃ、おまえはゆっくり休んでおけ。医者の手配はしたから、もうすぐ来るはずだ」
「……ごめんなさい、ジェイク」
「ばぁか、そこは『ありがとう』でいいんだよ」
言葉とは裏腹にジェイクのまなざしは柔らかく、彼はセリアの頭をぽんぽんとなでた後、部屋を出て行った。
まもなく、フィリパに案内されて麓町の医者がやってきた。
「ふむ、季節の変化や疲れで熱が出たのだろう」
初老の医師はそう診断し、鞄から薬を出しつつ言った。
「おまえさんは、ただでさえ抵抗力が落ちている。確か今年の夏も、体が辛かったのだろう?」
「……はい。去年までは大丈夫だったのですが」
「長い間昏睡していたのだから、それも仕方ないだろう。きっと今後一年くらいは、体力や免疫の低下がより顕著になるだろうが、反面自覚も出にくいだろう。これから寒い時期になる。去年は大丈夫だったから、と言わずに体を大切にするんだぞ」
「……かしこまりました」
セリアは素直に頷いた。
今年の春、セリアは約一年間の眠りから目覚めた。
それ以降、セリアの体は以前のように動いてくれなくなった。
暑さにすぐ参ってしまい、今年の夏は先ほどのように地下貯蔵庫の近くで涼まないと倒れてしまう日が多かった。いざ夏が終わって気温が低くなっても、足下がふらつきやすいのは相変わらずだ。
今年の冬も、外出はなるべく避けて暖かい部屋で過ごすべきだろう。
夕方になるまで、着替えや食事の介助などはフィリパが率先して行ってくれた。
そんなとき。
「……は? セリアが熱!? なんだそれ!」
「あっははは、あんたの旦那の声、ここまで聞こえるわよぉ」
「……ま、まだ旦那じゃないわ」
窓の外を眺めていたフィリパにからかわれ、セリアはさあっと赤面した。午前中よりは頬の赤みが引いてきたと思っていたのに、これでは逆戻りだ。
窓の桟に腕を乗せた格好のまま振り返ったフィリパは、にやっとおもしろがるような笑みを向けてくる。
「いいわねぇ、愛されてるって。……そろそろあんたたち、一緒の部屋になるべきなんじゃないの?」
「……いや、それは――」
「なんでためらってんのよ。あんたたちがしょっちゅうどっちかの部屋に行って一緒に寝てるって、私たちは知ってるんだから。今更じゃん」
「っ……それは、そうだけど――」
セリアの声は、荒々しく廊下を駆けてくる音でかき消されてしまった。
「……セリア!」
「はい、埃と汗の臭いのする男は、おことわりー」
「そこをどけてくれ、フィリパ!」
「だめだめだーめよ。ただでさえセリアは弱ってんの。昼頃から咳が出てきたし、砂埃は厳禁。ほら、ちゃんと湯を浴びて着替えてから出直してきなさーい」
「っ……セリア、ただいま。ちょっと体をきれいにしてくるからね」
「うん、おかえりデニス」
ドアの前に立ちふさがるフィリパを挟んで、セリアとデニスは優しく言葉を交わす。デニスを追い払ったフィリパは、「悪役って辛いわねぇ」とからりと笑うのだった。
フィリパの指示通り、湯を浴びて着替えもしてきたデニスはセリアの部屋に来るなり、焦った様子で手を握ってきた。
「風邪を引いたんだって? ごめん、セリア」
「え? どうしてデニスが謝るの?」
「君の体調を気遣ってやれなかった僕にも非がある。君はあまり体が強くないのだから……」
「何を言っているの。風邪を引いてしまったのは自己管理が――」
言葉の途中で咳き込んでしまい、デニスは真っ青になってセリアの髪をせわしなくなでた。
「辛いよな? いろいろな話は治ってからにするね。……消化に良さそうなものでも作ってもらわないとな。昼は何か食べた? 今、何か食べたいものでもある?」
「……お昼は、パン粥をちょっとだけ。冷たいものがほしいわ」
「分かった。じゃあ何か用意してくるね」
そう言うとデニスはあわただしく部屋を出て行った。
セリアが風邪を引いたのは、デニスのせいではない。着替えの手伝いや歩行補助などは彼の手を借りることがあっても、自分の体調管理は自分でするべきなのだ。
「……私もまだまだだわ」
ぽつんとつぶやいた後、デニスが戻ってきた。その手には小さなボウルがある。
「リンゴのすり下ろしなら食べられるかな。蜂蜜も入れて甘くしてみたよ」
「まあ……ありがとう」
ボウルに入っているリンゴは皮ごとすり下ろされたらしく、赤と黄色のまだら模様だ。とろっとした見た目なのは蜂蜜を入れているからだろう。
「それじゃあ……はい、あーん」
「えっ……」
匙ですり下ろしリンゴを掬ったデニスが、笑顔でセリアの口元に運んでくる。
「じ、自分で食べられるわ」
「君は病人だ。それに、時に手も動かしにくくなるだろう? ベッドにこぼしてしまったら大変だから、僕が食べさせてあげた方が効率がいいと思わないかい?」
「……それなら、ランチョンマットでも持ってきて――」
「僕が君に食べさせてあげたいんだよ。だめ?」
そんな顔で言わないでほしい。
いつもは爽やかに微笑んでいる彼が、捨てられた子犬のように寂しそうに目を伏せるものだから、セリアの中で罪悪感がわき上がる。
「……分かったわ。お願い、デニス」
「うん! それじゃ、口を開けて?」
いきなり態度を変えないでほしい、と思いつつ、セリアは素直に口を開いた。
普段から子どもたちの食事の面倒をみることも多いデニスは、他人に食べさせるのにも慣れている。セリアが匙を口に含むと、中身がこぼれないようにそっと匙を引き抜く。
やけに楽しそうに食事の介助をするデニスだが、手つきが慣れていることもあってセリアは安心して彼に任せることができた。
「はい、完食。おいしかった?」
「ええ、甘いし冷たくておいしかったわ。ありがとう。どうやって作ったの?」
「……どうも何も、ただおろし器ですり下ろしただけだけど」
食事の後は、タオルと湯の入った桶を持ってきてセリアの体を拭いてくれた。といっても拭いてもらったのは、汗ばみやすい首筋や脇、自分では手の届きにくい背中だけにしてもらった。
「……本当に、手つきが慣れているわね」
「そりゃあ、いつもチビたちの世話をしているから。あいつらに比べれば、セリアは大人しいから手伝いしやすいよ」
「ふふ。子どもたちもデニスになついているみたいだし……デニスはいいお父さんになりそうね」
寝間着のボタンを留めつつ、セリアは何気なく言った。
本当に何気なかった。
だが。
「…………それ、わざと?」
「はい?」
やや不穏な声に振り返ると、濡らしたタオルを絞った格好のままデニスが動きを止め、目を細めてこちらを見ていた。その頬は、ほんのり赤く染まっている。
そして、セリアは己の発言が意味することを悟った。
「…………あ。えっと、その」
「うん」
「い、今のはね、例えというか……あの、どうして迫ってくるの?」
「どうしてだろうね?」
「……風邪が、うつっちゃうわ」
「僕は風邪を引かない自信がある」
「そ、そうなの。あの、この手は……?」
「何だろうね」
いつの間にかセリアの両肩に手を乗せ、顔を近づけていたデニスは半眼でセリアを見つめた後、そっとその体をベッドに横たわらせた。
「……セリア、顔が赤いよ」
「風邪のせいよ。……デニスこそ、顔が赤いわ」
「セリアのせいだよ」
そう耳元で囁いた後、デニスは常時より熱いセリアの額に唇を押しつけた。
「……確かに、まだ熱があるな。汗も拭いたことだし、今日はしっかり休んで、セリア」
「……う、うん」
「熱が引いたら、覚えていてね?」
「…………はい」
とろりと甘い声色で囁かれたセリアは、掛け布団の中に潜り込んだ。
先ほどよりも熱が高くなったように感じるのは、気のせいではないはずだ。
セリアとデニスが同じ部屋で暮らすようになるまで、あと少し。