ひとりぼっちのお姫様
父と母が死んだ日から、セリアの人生は大きく変わった。
突然の事故により、優しい両親は天に召された。当時四歳そこらだったセリアには、両親の死がなかなか理解できなかった。
どうして、あの箱の中にいる両親に会えないのか。
どうして、両親は地に埋められていくのか。
どうして、住み慣れた小さな屋敷からランズベリー公爵家本邸へ連れてこられたのか。
どうして、今まで世話をしてくれた使用人たちが全員解雇され、愛想のない使用人たちが宛われたのか。
「おまえを引き取ってやっただけ、有り難く思え」
幼いセリアに対し、叔父であるランズベリー公爵はそう言い放った。
彼はセリアの母の弟だが、今まで会ったことがなかった。だからセリアは無邪気な顔で、「おじさん、だぁれ?」と問い、早速しこたま殴られた。
「使用用途がないと分かれば、すぐに追放する。よいな」
公爵は泣きわめくセリアを一瞥し、それっきり視線を合わせてくれなかった。
後になって分かったことだが。
先代公爵の娘だったセリアの母は縁談を断って下級貴族だった父と結ばれ、王都の隅っこで暮らしていた。どうやら先代公爵夫妻は娘の結婚にかなり寛容だったらしく、「ランズベリー公爵家から名を消すが、それでもいいのならば愛する人と一緒に幸せになりなさい」と送り出してくれていたという。
だが母の弟である叔父はそれを快く思っていなかったそうだ。なんでも母が断った縁組み相手が彼の知り合いだったらしく、友人の顔に泥を塗ることになってしまったそうだ。
そうしてセリアの両親が死に、セリアの祖父母もほぼ同時期に亡くなった。そうなれば、公爵位を継いだ叔父の天下である。
叔父は一度は除名されたものの公爵家の血を継ぐセリアを引き取り、優秀な「駒」になるよう教育させた。もし能力がなければ、即刻捨てる――セリアはずっとそう脅されてきた。
叔父は乱暴で、叔母はセリアのことを「顔がいいだけの穀潰し」と罵倒する。
いとこたちもセリアをあざ笑い、誹る。
使用人たちも、公爵たちの機嫌を損ねてはならないとセリアに味方してくれない。
幼いセリアは、必死で考えた。
どうすれば、皆に認められるのか。
どうすれば、ここから追い出されないのか。
どうすれば、皆に愛されるのか。
そうして、彼女は必死に勉強するようになった。
皆に気に入られるのならば、感情のないお人形になるのだって厭わない。たくさん勉強して、賢くなって、セリアが存在する理由ができるならば、何だって頑張れる。
幸運にもセリアには母親譲りの容姿や頭脳だけでなく、聖奏師としての素質があった。これを伸ばせばきっと、皆に認めてもらえる。自分の居場所ができる。
必要とされたくて。
居場所がほしくて。
少女は、氷の仮面を被るようになった。
いつも通り玄関に護衛を待たせ、セリアは一人で図書館に入る。
この図書館は資料が豊富で、毎日通っても飽きない。
唯一の欠点は、「学徒が平等に学べる場」であるため、護衛を連れて入れずあちこちに平民の姿があるということくらいだ。
平民は見下してもよい対象であると、叔父たちはいつも口にしていた。
叔父たちに逆らうという発想を持たないセリアはただただ彼らの思考に付和雷同し、平民を見下すようになっていた。
だからその日、へらりと笑顔を浮かべながら近づいてきた平民の少年を目にしたセリアは、あからさまに嫌そうな顔をした。
「平民が話しかけないでくださいまし」
ぴしゃりとはねつけると、少年は驚いたように目を見開いた。
くすんだ金色の髪に、藍色の目。その顔立ちは思ったよりも整っているが、あちこちに擦り傷やかさぶたがあり、頬の一部が青く腫れている。喧嘩でもしたのだろうか。
辛辣な言葉を吐かれたにもかかわらず彼はすぐに目つきを和らげ、にこやかにセリアのテーブルに近づいてきた。
「そんなこと言わないでよ。僕も、勉強しに来たんだ」
「では、別のテーブルに行きなさい。近寄らないでくださいまし」
少年からは、土と、草と、泥と、あとよく分からない匂いがした。
だが意外なことに、セリアは少年のこの何とも言えない匂いをそれほどまで不快と思わなかった。
子どもの頃――まだ両親が生きていた頃は、セリアも使用人たちと一緒に庭で泥遊びをしていたものだ。ふとその頃の思い出が蘇りそうになったセリアは目元を拭い、へらへら笑う少年を睨みつけた。
「臭い平民はあっちに行きなさい」
「あ、ごめん、僕そんなに臭う?」
少年ははっとしたように自分の服を嗅ぎ、そして申し訳なさそうに俯いた。
「ごめん、それじゃあ今度はちゃんと着替えて臭いを消してから来るね」
「は?」
「それじゃあ、また今度。お嬢さん」
セリアの返事を待たず、少年は軽やかな身のこなしで書架の間に滑り込んで消えてしまった。
セリアはぽかんとして彼の消えた先を見、首を捻る。
「……また今度って……また来るの?」
宣言通り、次の日も少年は現れた。
「寄るな、平民!」
「分かった。じゃあ、この辺に座るから」
「うるさい! あっちに行きなさい!」
「あ、ここは図書館だから、もうちょっと静かにしようね?」
実に腹の立つ少年である。正論だからこそ、セリアも言い返せないのが癪だ。
ぐぬぬ、と少年を睨んでやるが彼はどこ吹く風でセリアのはす向かいに座り、持ってきた本を読み始めた。
「……席なら他にもあるでしょうっ」
「僕、ここがいいんだ」
「無礼者っ!」
「この図書館では、そういうのは通用しないよ」
全くもってその通りである。
今までセリアがひとつのテーブルを占領していたのは、他の学生たちがセリアに遠慮していたからだ。本来なら「学生平等」の図書館で公爵令嬢として威張り散らすことはできない。セリアもそれを分かっているからこそ、しれっとして本を読む少年が腹立たしかった。
そんな日が、しょっちゅう続いた。
勉強をしているセリアの元にふらりと現れた彼は、猫のように髪の毛を逆立てて威嚇するセリアに構わずテーブルの端の席に座って本を読む。読書を始めた彼はそれまでの態度が嘘のように落ち着いており、結局セリアの方が折れ、彼が同席することを許す――の繰り返しだった。
「おまえ」
「僕、デニス。よろしく」
「名を覚えるつもりはないわっ」
「君はなんて名前?」
「教える義理はないわっ」
「そっか。これからよろしくね、セリア」
「はいっ!?」
「名前、その教科書に書いているし」
「このっ……!」
飄々としておりつかみ所のない少年と、そんな会話から始まり。
いつしかセリアは彼のことを「おまえ」から「デニス」と呼ぶようになり、「お薦めの本ってある?」と聞かれて無言で彼に大好きな本を押しつけるようになり、「君は僕よりひとつ下なのに、こんなに勉強を頑張って偉いね」と言われて、まんざらでもないと思うようになった。
「……そっか。君は、親戚の皆に認められてほしくて頑張っているんだね」
いつからだろうか。
セリアはぽつぽつと、彼に自分の身の上を話すようになった。
公爵令嬢であること、両親がいないこと、叔父に引き取られたが「駒」としてしか扱われていないこと。
デニスはいつも真面目な顔でセリアの話を聞いてくれた。
「勉強するのは、楽しい?」
「……ええ、楽しいわ。叔父様に認めてもらいたいっていうのもあるけれど、知らないことを知るのはとっても楽しいの」
いつからだろうか。
捨てられたくなくて、愛されたくて、認められたくてやっていた勉強が、純粋に楽しいと思えるようになった。
図書館に来るたびに、「今日はデニスに会えるかな」と思うようになった。
公爵令嬢ではなく、ただの女の子として接してくれるデニスとの時間に、安らぎを覚えるようになった。
時が流れ、十二歳になったセリアは学校を卒業することになった。
「これから三年くらいは、聖奏師になるための修行をするつもりよ」
卒業を間近に控えたある日、セリアはデニスにそう言った。
「田舎に隠居している元筆頭聖奏師の方が、私の弟子入りを許可してくださったの」
「そっか……セリアは聖奏師になるんだね」
しみじみとした様子で言うデニスも、もう十三歳。あと二年くらいすれば彼も見習の身分を返上し、正騎士登用試験を受けることができるそうだ。
「次に君が王都に帰ってくる頃には、僕も正騎士になれていたらいいんだけど」
「そうね……それじゃ、約束」
セリアはデニスの手を取り、そっと握った。
「私は一人前の聖奏師になって戻ってくるから、デニスも正騎士になるのよ」
「……はは。正騎士登用試験の合格率、結構鬼畜なんだよねぇ」
「難しそう?」
「難しいよ。でも、君だって修行してくるんだから負けてられない」
デニスはセリアの手を包み込むように握った。いつの間に、彼の手はこれほどまで大きくなっていたのだろうか。
「……しばらくの間、お別れだね」
「うん。……寂しい?」
「もちろん寂しいよ」
デニスの正直な言葉に、ふわりとセリアの胸が温かくなった。
ひとりぼっちだと思っていた。
手柄を立てないと、優秀にならないと、認めてもらえないのだと思っていた。
だが、デニスはそんなの関係なく、セリアと接してくれていた。
セリアとの別れを惜しみ、「寂しい」と言ってくれる。
「……私も、寂しいわ」
「セリア……」
「でも、デニスも頑張っているんだから、私だって頑張ってくる。……私、一人前の聖奏師になって戻ってくるね。お互い大人になったら再会しましょう」
そう、セリアはもうひとりぼっちじゃないのだ。
待っていてくれる人がいる。信じてくれる人がいる。
だから、大丈夫。
これから先、何があっても。