邂逅
『ディート、おかえり』
『今度、城で模擬訓練があるんですって? わたくしも観に行くからね』
『ディートも強くなったな、私も嬉しいぞ』
『あにうえ、かっこいい!』
ディートリヒは騎士に担がれて、自宅の門をくぐった。
門は破壊されており、母と姉が庭師と一緒に丹誠込めて手入れしていた花壇は踏み荒らされていた。弟が遊んでいた庭は泥まみれの血まみれになっており、目を背けたくなるような惨状に変わり果てていた。
左胸に受けた呪いの痛みに苦悩しながらも、彼は家族に会うために屋敷に戻った。
それなのに――
優しくておおらかな父は、玄関で。
おっとりと上品な母は、リビングで。
しっかり者の姉といたいけな弟は、子ども用の部屋で。
それぞれ血の海に浮かんだ状態で、ディートリヒの帰りを待っていた。
どうして。
どうしてこんなことに。
グロスハイムは、ファリントンと戦争する気なんてなかった。
今回だって、あちらの国の第三王子が和平会議のために来ると聞いて、丁重に迎え入れただけなのに。
騙し討ちのようにファリントン軍が王城を襲撃し、国王や王妃、年長の王子王女たちは処刑された。
ファリントン軍はさらに、城下町にも進撃して戦う力を持たない者たちの命も奪った。
ディートリヒの家の使用人で生き残っていた者に話を聞くと、ディートリヒの父は妻子を避難させ、単身ファリントン軍の説得に行ったそうだ。だがファリントン軍は護身用の短剣しか持たない父を問答無用で殺し、使用人たちと一緒にリビングで待機していた母も殺し、子ども用の部屋に隠れていた姉と弟にも手を掛けたという。
「……誰が、こんなことを――!」
「……ぼっちゃま」
弱々しい声に、ディートリヒははっとして振り返る。そこには、頭から血を流しながらも自分の足で立つ中年女性使用人の姿があった。
「マルギット! 無事だったのか!」
「も、申し訳ありません、ぼっちゃま。旦那様たちをお助けできず、私のような者が生き延びてしまい――」
「何を言う、おまえだけでも助かってくれて……よかった」
ディートリヒはさめざめと泣く女性使用人を助け起こし、負傷した彼女を騎士に託そうと振り返ったが――
「ぼっちゃま――どうか、これを」
ゼイゼイ息をつく彼女は、震える手を前に出した。彼女の手には、丸いボタンが握られていた。
「これは……カフスボタン?」
「旦那様たちを殺害した騎士が、身につけておりました――きっとこれに描かれているのは、ファリントンのどこかの家の紋章です」
はっとして、ディートリヒは使用人から受け取ったボタンを凝視する。
この紋章を調べれば、家族を惨殺した者の所属を明らかにできるのではないか。
「……分かった。後は僕がなんとかするから――マルギットは一旦休め。いいか、必ず快癒して生きるんだぞ!」
「……かしこまりました、ぼっちゃ、ま――」
安堵したことでふっと気を失った使用人を騎士に託し、ディートリヒは血で黒ずんだカフスボタンを見つめる。
彼の藍色の目には、十歳の少年に似つかわしくない復讐の炎が灯っていた。
デニス・カータレットは井戸の前にいた。
元々グロスハイムとも親好のあったファリントンの平民であるカータレット家の養子になり、騎士見習として王城に潜入して約一年。
(あの腐った貴族ども――!)
彼は周りに人気がないのを確認し、水を辺りに撒き散らしながら乱暴に顔を洗った。
先ほど、「田舎者は帰れ!」と偉そうな騎士見習に殴られ、蹴られ、歯を折られそうになったので顔面に一撃お見舞いして逃げてきたところだ。逃げたのはいいが、いずれ捕まって報復を受けるだろうと思うと気が重い。
祖国グロスハイム奪還の志を胸に敵国に潜入しているデニスだが、いよいよこの空気に耐えられなくなってきた。
貴族が平民を見下すのが当たり前の世界。
デニスと同じ平民の騎士見習いたちは貴族連中にいつも怯えていた。そんな平民仲間の態度も気に入らない。
(グロスハイムの騎士団では、貴族と平民で差別することはなかった)
顎を滴る水を拭い、デニスは舌打ちして井戸から離れた。
自室に戻ったデニスは服を着替え、勉強道具を持って宿舎を出た。
彼は今、城下町の寄宿学校に通っている。十五歳になって学校を卒業したらいよいよ、騎士として王城に仕官できる。
(王城に入れるようになれば、調査が進む)
いずれグロスハイムがファリントンを滅ぼす時のために、デニスはファリントンの騎士になって王城に入れるようにならねばならない。だから、どんな仕打ちを受けようと逃げるわけにはいかないのだ。
男子のみ通う寄宿学校は、貴族女子のみ通う学校と隣接している。普段の交流は皆無だが、両学校の生徒が自由に立ち入りできる図書館では、男子生徒と女子生徒が顔を合わせることになるのだ。
(……あれは、貴族の護衛?)
本日勉強のために図書館を訪れたデニスは、玄関前に佇む騎士たちの姿を目にした。
生徒のための図書館に、護衛が入ることはできない。きっと今図書館でどこかの子女が自習しており、護衛を外に待たせている状態なのだろう。
「……あ、デニス」
声を掛けられたデニスは、ちょうど図書館から出てきたところらしい顔見知りの騎士見習と鉢合わせした。
「君はこれから自習?」
「そうだ」
「そっか。なんか今、ランズベリー公爵家のお嬢さんが来ているみたいで、入り口がものものしい感じだったでしょ?」
彼の言葉を聞き、デニスは目を見開いた。
彼の脳裏を、血にまみれたカフスボタンの映像が過ぎる。
「……ランズベリー?」
「うん。お嬢さんといっても、公爵の姪らしいけど」
「そいつ――いや、その人も中にいるのか?」
「遠目に見ただけだけど、いたよ。赤金色の髪のすごく可愛い子だった――あれ、デニス?」
騎士見習仲間の言葉を最後まで聞かず、デニスは早足で玄関を抜けた。
約一年間、見習として行動できる範囲で調べた結果、あのカフスボタンに記された紋章の意味が分かった。
ファリントン王国でも屈指の名門である、ランズベリー公爵家の家紋だった。
家紋入りのボタンを身につけるということは、一般兵ではなく公爵家の者であるはずだ。ランズベリー家の家系図を把握するには至っていないが、家族を惨殺した者がランズベリー公爵家の一員であるのは確かである。
つまり、今図書館で自習しているというランズベリー公爵の姪とやらは、ディートリヒの敵の親族なのだ。
司書に学生証を見せたデニスは、素早く館内に視線を走らせる。夕暮れ時だからか、生徒の姿はあまり多くない。司書に叱られない程度に足を速め、書架の間を抜け――
(あいつか)
先ほど見習仲間が言っていた「赤金色の髪」「可愛い子」の情報を頼りに、ディートリヒはとうとう目当ての人物を発見した。
長テーブルをひとつ占領して、読書にふける少女。背が低いからか椅子に座る彼女のつま先は床に届いておらず、宙に浮いている。柔らかそうな赤金色の髪を背中に流しており、その横顔からは育ちの良さが伺えた。
賢そうな、可愛らしいお姫様。
彼女の顔をズタズタに切り裂いたら、公爵たちは何と言うだろうか。
藍色の目を漆黒に染め、ディートリヒはゆらりと書架から身を乗り出した。すると少女は思いのほか勘がよいようで顔をこちらに向け、ふらふらと現れたディートリヒを目にしてあからさまに嫌そうな顔をした。そのピンク色の唇が、「平民――」と呟く。
ディートリヒは黒く渦巻く感情を一旦押し込め、我ながら胡散臭いと思われるほど爽やかな笑顔を浮かべて彼女に近づいた。
「こんにちは。隣、いいかな?」
へらりと笑い、「偶然通りかかった」風を装ってディートリヒは声を掛けた。
少女は鼻の頭に皺を寄せ、ディートリヒを半眼で見つめてくる。そして――
「平民が話しかけないでくださいまし」
それが、二人の出逢いだった。