森の奥への訪問者
その日、彼女は珍しい生き物と遭遇した。
「よく分からないけれど、呪術を受けた。治してくれるか」
年齢の割に偉そうな物言いの少年はそう言い、帽子のフチの下から覗く藍色の目で彼女をじっと見上げてきた。
対する彼女は来客の前だというのにだらしない格好である。ローブは着崩し、椅子の背もたれに片腕を乗せてすらりとした両脚を組むという姿勢で、目の前の少年を見つめていた。
仕立ての良さそうな服。
品のある顔立ち。
物言いは偉そうだが、訛りひとつない流暢な言葉。
「……あんた、どこかの金持ちの子息かい?」
彼女がテーブルの灰皿に置いていた葉巻を銜えて尋ねると、少年は見るからに嫌そうな顔になった。
「名乗る必要はないだろう」
「ぶぁーか、あんたはあたしに頼み事をしたくてここを訪ねてきたんだろう? 用件があるなら、礼儀としてまずは名乗りな。それができないならさっさとお帰り、ボウヤ」
彼女がハッと小馬鹿にしたように笑ってやると、少年はいよいよ不快感を露わにしてきた。
だが、彼女の言い分ももっともだと思ったのだろう。彼はそれまで被っていた帽子を脱ぎ、洗練された動作でお辞儀をした。
「……グロスハイム王国の元貴族、ディートリヒだ。僕以外の一族は全員殺されたので、名乗る家名はない」
「……そうかい。グロスハイムからこんな森の奥まで、よく来たね。お座り」
彼女は一気に態度を和らげ、少年に椅子を勧めた。ただし、伸ばした右脚のつま先で椅子を引っかけて引き寄せただけだが。
少年は大人しく座り、唇を噛みしめて彼女を見上げてきた。
よく見ると、膝の上に乗せた拳が小刻みに震えている。
自分よりずっと年上の女性に対しても物怖じしない態度を取ってはいたが、実際はかなり怖い――そして、心細いのだろう。
彼女とて、口は悪いが性格はそこまで悪くない。そっと少年ディートリヒに問うた。
「それで……ああ、そうそう。呪術を受けたんだって?」
「……そうだ」
「そうかい、そんな幼い身空で大変だったな――で、受けた箇所はどこだい? 見せておくれ」
少年は大人しく頷き、おしゃれな上着を脱ぎ始めた。
彼女は目を細めて、少年が服を脱ぐ様を見守る。上の衣服を脱いだということは、呪いを受けたのも上半身。よくあるのは腕や背中、腹などだが――
最後の白いシャツを脱ぐ直前、少年はほんの少し戸惑ったようだ。だが彼女が目を細めて「早く脱げ」と視線で促すと、しぶしぶボタンに手を掛けた。
そして――
「……っ! こりゃあ、酷い――」
さしもの彼女も目をも開き、椅子から立ち上がった。
シャツを脱いだ少年の、裸の胸。まだ成長途中のためか筋肉もほとんど付いていない薄い体。
その左胸に、おぞましい文様を描く赤い呪術痕があったのだ。
彼の――いや、別の人間の心拍に合わせて脈打っているかのように見える、それは――
「これは……とんでもない呪いを受けたね」
「……分かるのか?」
「……そうだね。あたしはこれでも十年以上前にはファリントン王国筆頭聖奏師の座にいた。筆頭としての基礎教養で、呪術に関する書物も読んでいたんだ」
そうして彼女は少年の胸に触れ、眉根を寄せた。
「……これは、かなり性根がねじ曲がり、強い負の感情を孕んだ呪いだよ」
「……一体どういう種類の?」
「聞く覚悟はあるのかい?」
彼女は問うた。
それだけである程度のことが察せられたのだろう。少年は今にも泣きそうに顔を歪め、ごしごしと顔を拳で拭った後、頷いた。
「……知らないといけないから」
「分かったよ。……これはね、『術者が死ねば、被術者も死亡する』っていう類の呪いだ」
「……どういう、ことだ?」
「言葉の通りだよ。……この呪術痕は、あんたに呪術を掛けた者の心臓と繋がっている。術者が負傷なり寿命なり病気なりで死亡すれば、あんたの心臓も同時に止まる」
「……っ!」
少年の目が見開かれた。
「……そん、な……そんなの、ありなのか!?」
「あたしだって初めてお目に掛かったよ。これは、呪術の中でもとりわけ悪質で、普通の身分の人間じゃあこれを発動させることができない。……あんた、相当偉い身分の人に恨まれたんだね……いや、グロスハイムってことは、まさか――」
「……僕を、殺すのか?」
少年の声が震えている。
彼女は目を細め、「いや」と小さく答えた。
「……あたしはね、もう十年以上前に現役を退いている。こんな森の奥で一人寂しく暮らしているのは、面倒事に巻き込まれたくないから。……あたしにとってあんたは敵国の人間じゃなくて、客人だ。客人を殺すわけない」
「……」
「ただ……すまないね、あたしにはこの呪いを解くことができない」
彼女が静かに告げると、少年はくしゃりと顔を歪め、また泣きそうな顔になった。
「……無理なのか? 筆頭聖奏師でもだめなのか?」
「……そう、だね。挑戦できなくはないけれど、あんたの呪いを解くためにあたしが死んでしまうかもしれない。それくらい厄介なんだよ」
彼女がそう教えると、少年は俯いた。
当然、「自分の呪いを解く代わりにおまえは死ね」なんて、言えないのだ。
「……僕は、あいつの死をずっと怯えないといけないのか」
「……そう、だね。呪いがある限り、あんたが生き、術者が死ぬということはないんだよ」
「…………分かった」
少年は立ち上がり、肩から提げていたバッグの中身をあさる。
「……何してんだい?」
「金を出すから、ちょっと待っていてくれ」
「はぁーん? あたしは話を聞いただけで、治療はしていない。代金なんてもらえないね」
「だが、忙しい時間を縫って僕の話を聞いてくれただろう。ならばたとえ治療を受けなくても、それ相応の代金は支払うべきだ」
「ぶぁーか、ガキがいっちょまえなことを語ってんじゃないよ。……あんた、これから苦労するだろう? その金は大切にとっておいて、必要なときに使いな」
鞄の中を探っていた少年の動きが止まる。
戸惑うような眼差しを向けられ、彼女はにやっと力強く笑ってみせた。
「あんたの寿命があとどれくらいなのかは分からない。でも、それまでにできることがあるはずだ」
「僕に、できること――」
「そう。それをしっかりこなしな。それこそ――いつ死んでも悔いのないようにな」
少年は目を細くし、唇を噛んだ。
そうして鞄から手を離し、戸口まで向かう。ドアの前で帽子を被って振り返り、来たときと同じように礼儀正しくお辞儀をした。
「……話を聞いてくれて、ありがとうございました」
「気にすんな。……元気でな、ディートリヒ」
彼女がひらひら手を振ると、少年は頷いて家を出て行った。
どうやら家の外で誰かを待たせていたらしい。話し声がした後、やがて辺りは静かになった。
彼女は元のようにだらしない格好になりつつ、脇のテーブルに置かれた手紙を見やった。
それは、先日王都ルシアンナから届いた依頼の手紙だった。
ナントカ公爵家のご令嬢に聖奏師の素質があり、現在王都の学校に通わせている。十二歳になって学校を卒業したら弟子入りさせてくれないか――いや、弟子入りさせろという大変無礼な内容であった。
最初は断るつもりでいた。この手紙の書き手が相当ご立派な性格であることは、文面からにじみ出ていたのでよく分かる。そのナントカ公爵の姪とやらもどうせ同じようなクソガキだろうと予想は付く。クソガキの面倒見なんてお断りだ。
だが――
「……できること、やってみっか」
彼女は腕を伸ばして手紙を手に取り、嘆息するのだった。
彼女はだらしない格好で本を読んでいた。
「師匠、楽譜の写しができました」
そう言って彼女の元に手書きの楽譜を持ってきたのは、今年十三歳になった少女。
赤金色の髪に深緑色の目を持つ彼女は、昨年王都の学校を卒業して弟子入りしてきた子である。
「公爵家のお姫様」と聞いたときには、さぞかし高慢ちきなクソガキなのだろうと思っていた。だが叔父である公爵に連れられてやって来た彼女は大人しく、思っていたよりもずっと素直で賢い娘だった。三年ほど前に送られてきた手紙を読んで分かる限りでは、平民をゴミムシのように扱うクソガキだったはずなのだが。
彼女は弟子から楽譜を受け取り、ふと尋ねてみることにした。
「……なあ、あんたにとってものすごく大切で、何があっても失いたくないという人が不治の病に冒されたとする。その人の命は、もう長くない」
「はい」
「あんたの聖奏でその人の病を癒すことができる。でも、その代償にあんたは死んでしまうとしたら――どうする?」
十三歳の少女に対しては酷な質問だったかもしれない。
弟子は大きな目を瞬かせた後、しばらく考えるように顔を伏せた。
「……私は――きっと、聖奏すると思います」
「へぇ」
「あ、あの、そういっても、いざそういう場面にならないと分かりません。でも……それほどまでに大好きな人なら、死んでほしくないと思います」
弟子は自分の答えに自信がないようで、視線を彷徨わせつつそう言った。
彼女は微笑み、弟子の頭をぽんと撫でてやった。
「そうかい……いや、これは別に答えがあるわけじゃないんだ。あんたならどうするかな、と思ってね」
「そう、ですか」
「……なあ、あんたはきっと、これからめきめき腕を伸ばすだろう。いずれ、あたしをも越える聖奏師になると信じている」
彼女は弟子を見つめ、重々しく告げた。
「……あんたは賢いし、力がある。だから、その持てる力を正しく使いな。よく考え、よく人の気持ちを理解し、自分の思いを見極めるんだよ……セリア」
「……はい」
弟子は不安そうな顔になりながらもしっかりと頷いた。
彼女が、少年に言わなかったことがある。
それは、筆頭聖奏師のみ閲覧が許される禁書に記された聖奏なら、彼の呪いを解くことができるということ。
なぜ言えなかったのか。
それには、二つの理由があった。
まずは、「代償」。
人間の極限を超える高度な聖奏を行えば、必ず奏者の身に相応の代償が返ってくる。
死ぬか、精神が崩壊するか、四肢が崩れ落ちるか、体中から血を噴き出すのか――どんな反動なのかは分からない。
禁書の聖奏は特殊で、彼女のように聖奏師としての盛りを過ぎた年頃でも問題なく演奏できる。必要なのは、自分の命を賭してもよいかという覚悟だった。
そして、もう一つ。
禁断の聖奏を奏でるには、確固とした想い――「愛情」が必要なのだ。
奏者が患者のことを想い、心から愛し、大切に想っているときのみ聖奏の効果が発動する。生半可な気持ちでは、精霊に呼びかけることができないのだ。
つまり禁断の聖奏を行った場合、効果を受けた者は自分の身が救われるのと引き替えに、自分を一番に愛してくれる人を代償に捧げなければならないのだ。
そんな聖奏は、誰にでもできるわけではない。だから彼女は少年に言えなかったのだ。
「おまえを一番に愛する筆頭聖奏師を生け贄にして助けてもらえ」なんてことは。
もし、彼を愛する筆頭聖奏師が現れたら。
何を引き替えにしてでもいいから彼を助けたいと願ったなら。
彼女は目を閉じ、弟子が書いた楽譜を握りしめた。
「師匠?」
「……ああ、なんでもないわ。そろそろお茶にしましょうか」
「はい! おいしいお茶を淹れますね!」
「あんたが淹れたのはどうしても……いや、なんでもないわ」
彼女は笑い、弟子と手を繋いでキッチンへと向かっていった。