逡巡
「……一月と言いましたが、滞在期間を短縮して王都に戻ろうと考えています」
デニスがマザーの部屋を訪れてそう語ったのは、春の終わりのある夜のことだった。
前日の昼間にセリアと一緒に麓町に向かった際、旅の吟遊詩人がエルヴィス、セリア、ミュリエルの三人をもとにした歌を歌った。
それを聴いたセリアは嘆き悲しみ、昨夜一晩はデニスにしがみついて泣き明かしたのである。
今朝顔を合わせたときの彼女はなんとかいつも通りに戻っているようで、デニスも一安心だった。
(でも、これ以上僕がここにいる必要はない)
セリアは、王都から離れたグリンヒルで幸せに暮らしている。
セリアを気遣い、愛する人がたくさんいる。
そして――デニスはいずれ死ぬ。
最初は、数日泊まってセリアの無事を確認できたらさっさと出ていくつもりだった。だがマザーに一月間の宿泊を勧められてしまうと、ついついその話に乗ってしまったのだ。
(僕は、ここに長居するべきじゃない)
このあたたかい世界に、未練を感じてしまう。
離れがたくなってしまう。
そして――いずれ自分が死を迎えたときに、セリアを悲しませてしまう。
それくらいなら、予定よりも早めに撤退する方がいいだろう。
そう思ってデニスはマザーのもとを訪れたのだった。
愛用のロッキングチェアに揺られるマザーは、デニスの言葉を聞いても一切動揺したそぶりを見せなかった。彼女はゆらゆら前後に揺れながら首を捻り、椅子に座っているデニスの方に顔を向ける。
「……迷いが生じるからですか?」
「……え?」
「セリアと離れがたくなり、かえって彼女を悲しませると思ったからですか?」
静かに告げられたマザーの言葉に、デニスは息を呑んだ。
呼吸の音でデニスの動揺を悟ったのだろう、マザーは穏やかな口調で続ける。
「そうなのですね? ……自分が死んだときに、セリアが悲しむからでしょう?」
「あ、あなたは一体――」
何者なのだ、と問いかけて、デニスはぐっと言葉を飲み込む。
そんなの問うまでもない。
(マザーは、マザーなんだ)
彼女の素性を怪しんでいるわけではない。
彼女がファリントンの密偵なのでは――なんて疑っていない。
ただただ、彼女には全てが「見えて」いるのだ。
マザーは、膝の上で手のひらを握ったり開いたりしているデニスに小首を傾げて問うてきた。
「あなたがこれまで館で過ごした日々は、無駄なものでしたか?」
「いえ、そういうわけじゃありません」
デニスはすぐさま否定する。
デニスがこの館で暮らしてきて得たものは、すぐには挙げられないほどたくさんある。
「……しかし――僕は、ここに来るべきじゃなかった。長居するべきじゃなかったんです。僕は、これから先ずっとセリアの側にいることはできない。彼女を守ってあげることも、支えてあげることも――できないのです」
「……最初あなたがここにやって来たときから、なんとなく分かっていました」
キィ、と音を立ててロッキングチェアの揺れが止まる。
「わたくしが気づいたのは、三つ。あなたが、誰にも言えない秘密を抱えていること。あなたが、いずれ死ぬ気でいること」
まさにその通りだ。
デニスは苦渋の表情を浮かべ、静かにマザーの言葉を待つ。
「そして――あなたが世界中の誰よりもセリアのことを愛し、必要としていること」
「なっ……!」
「だからわたくしは、あなたに滞在を勧めたのです」
自分の恋心すら一撃で見抜かれていたということに愕然とするデニスに、マザーは言った。
「あのまま数日限りであなたを見送れば、あなたは未練を残したまま息絶えるのだろうと思いました。そんなあなたが生きる術を見つけられるなら、セリアのことを想ってくれるなら――少しでも長くここに留まってもらい、運命を変えてほしかったのです」
「運命を変える……ですか」
ついつい皮肉な口調になってしまった。
マザーは事情を知らないから、希望に満ちたことを口にできるのだ。
(僕は死ぬ。エルヴィスを討ったら呪いが発動し、死んでしまう)
エルヴィスを討たなくては、祖国は助からない。
エルヴィスを討てば、自分は死ぬ。
だからデニスはいずれ、自らエルヴィスを討ちに行くのだ。自分が死んでも、コンラートが皆をうまくまとめてくれる。デニスは人知れず死に、その遺骸はさっさと処分してもらうつもりだ。英雄となるだろうコンラートの前に、自分の無惨な死に姿を差し出す必要はないのだから。
呪いを解くことはできない。
自分はどうあがいても助からない。
希望なんて――在りはしないのに。
マザーはしばらく沈黙していたが、ぽつりと言った。
「……ここを出たいというのならば、あなたの意志に従いましょう」
「……」
「でも、わたくしもセリアも他の皆も、あなたのことが好きなのですよ」
「っ……」
「あなたが何を選ぶのか、わたくしはあなたの意見を尊重します。ですから、どうか……後悔だけはなさらないでください」
後悔。
若くして死ぬことへの後悔。
セリアを誰よりも愛しながらも、その恋を叶えることができないという後悔。
(運命は……変わるのだろうか)
十年前からずっと覚悟していた己の末期。
もし、デニスにも未来を拓く可能性があるのなら。
諦めていた未来を手にすることができるのなら。
「……もう少し、ここにいさせてください」
デニスが言うと、マザーは穏やかな顔で頷いたのだった。
(セリア、僕は君に言いたい言葉があるんだ)
マザーの部屋を出たデニスは、壁に寄り掛かって瞑目する。
(でも、それを言ったら君を困らせてしまう。たとえ僕が死んでも、君には幸せでいてもらいたいから)
コンラートと交わした約束は必ず果たす。
祖国のためにエルヴィスを討つ。
(だから……もう少しだけ、君のぬくもりを感じさせてほしい)
いずれ自分がセリアの元を去るだろう、その日まで。




