第36話 狂う宿屋
今回は3人称視点になります
その日は『金の狐亭』で休むことにしたマルスたち。
ベントラーとはエスターブールにあるロンヴェルト子爵家へ行けば会うことができる。子爵家の屋敷まではパティに案内してもらえばいい。冒険者ギルドで秘書をしているパティなら居場所もハッキリしている。
という訳で、その日は眠ることにした――夜。
宿の上階へと歩く人の姿がある。
その人は、音を立てずに歩くことに慣れており、寝ている客に気付かれることなく目的の部屋まで辿り着く。
目的の部屋――マルスたちが寝泊まりしている部屋の扉を鍵を使って開ける。
普段からきちんと整備されている扉は音を立てることなく開けられる。
ここまで誰にも気付かれていない。
侵入者は、ベッドで寝ている人物にゆっくりと近付く。
この部屋を利用していたのはシルビアとイリス。手前のベッドにシルビアが寝ており、イリスが奥のベッドで寝ている。二人とも侵入者に気付いた様子もなく、寝続けている。
「――死ね」
ただ一言、恨みだけが籠った声を出しながら持っていたナイフを寝ているシルビア目掛けて振り下ろす。
グサッ!
ナイフが刺さった……ベッドに。
「え……」
ベッドに突き刺さって抜けないナイフに戸惑う襲撃者。
ナイフはたしかにシルビアに当たるはずだった……というよりもナイフの刺さっている場所を考えると当たっていなければおかしい。
「恨まれる覚えはないんだけど」
そんなシルビアはベッドの向こう側に立って襲撃者を見ていた。
なんてことはない。ナイフが当たる瞬間に【壁抜け】を発動して刺さるはずだったナイフを通過させベッドに突き刺さることになった。その時には移動を開始しており、ベッドの奥に立っていた。
「何か事情があるのかもしれない」
奥のベッドで眠っていたイリスも起き上がる。
二人とも寝たフリをしていただけで襲撃に対応できるようにしていた。
「相手は他人の弱味を握って脅しても何とも思わないような連中。1日だけとはいえ時間を与えたら何かしてくるかもしれないと思っていたのよ」
最初からベントラーのことを警戒しており、襲撃があってもいいように備えていた。
ただし、襲撃者の正体だけは予想外だった。
「どうしてレイナちゃんが襲い掛かってくるの?」
「さあ?」
レイナの振り下ろしたナイフには力が込められていた。それこそシルビアがスキルですり抜けなければ致命傷を負っていたほどだ。
一方、奇襲に失敗したレイナは両手でナイフを引き抜くと構える。
「ふー、ふー、ふー……」
ナイフを構えてシルビアのことを睨み付けるレイナの目は血走っている。
まるで親の敵でも見るかのようだ。
「お父さんとお母さんはどうしたの?」
「二人とも!」
もう奇襲に意味はないと悟ったのか階下にいる二人を呼ぶ。
ドタバタドタバタ――階段を急いで駆け上がって来る音が聞こえる。
二人は、そこでレイナが襲撃犯に選ばれた理由に思い至った。音を立てずに移動するなら体重の軽い方がいい。力のなさについては、寝込みを襲うならそれほど関係ない。
部屋の前に姿を現す熊の獣人と象の獣人。
二人ともガッシリとした体をしており、娘と同様に憎しみの籠った目をシルビアとイリスへ向けている。
「……なんだ騒々しい」
その時、隣の部屋から一人の男性が出て来た。
エスターブールへは商売の為に外国から訪れており、自分の国とは違った様子に驚きながらも商売を終え、明日には帰る予定だった。
「あ、待って……」
シルビアが制止の為に声を上げる。
だが、その声は届かず女将さんの振るった拳が男性の頭を殴る。
「がぁ……!」
殴られた男性は頭から血を流して床に伏せてしまった。
シルビアの位置からではチラッとしか見えなかったが、殴られた場所が陥没していた。凄まじい力で殴られている。
「ぐぅ……!」
レイナの父が腕に力を込める。
すると手の先から爪が伸び、鋭利な刃物と化す。
「逃げるわよ」
シルビアが後ろへ跳び窓ガラスを割って外へ飛び出す。すぐに窓枠を掴むと真上にあった部屋まで飛び移る。
「失礼」
剣で刃物となった爪を弾き、ついでに床と一緒に凍らせるとイリスも飛び出す。
あの凍った状態なら簡単に抜け出すことはできない。
そう思っていたところ力任せに氷を砕いてしまった。
「うそ……」
氷を砕かれたことよりも砕くことを選択したことに驚いていた。
力任せに氷を砕いたことによって爪は半ばから折れ、手から血をダラダラと流していた。相当な激痛が腕を走っているはずだが、そんなことは気にせずイリスのことを睨み付けている。
「たしかに私の責任だけど、私のせいじゃない」
負傷した父親を置いて上の階へと移動する。
「なんだったの、いったい?」
「それは、この部屋の状況を見れば分かるかもしれない」
上の階もシルビアたちが寝ていた部屋と同じように二人部屋。
その部屋に泊まっているのは、結婚したばかりの夫婦で結婚を記念した旅行でエスターブールを訪れていた。様々な物が集まり、利用することに長けた都市を一度でいいから見ておきたかった。
部屋の利用者である二人が上半身だけを起こして部屋に侵入して来たシルビアとイリスを見つめている。
二人とも服を着ていない。新婚の夫婦ということで励んでいたのだろう。
「……って、そんなことはどうでもいいの!」
夫が殴り掛かって来る。
同時に妻の方が近くに置いてあったハサミを手に突っ込んで来る。
「【迷宮操作:鎖】」
金属の鎖が床から生え、襲い掛かろうとしていた妻の体に絡み付き拘束してしまう。
必死に藻掻く妻。
夫の方は妻を心配した様子を見せることなく襲い掛かろうとしている。
「……やっぱり普通じゃない」
「う……」
夫の腹を殴って気絶させる。
暴れていた後で気絶させれば襲い掛かって来るようなことはなく大人しくしていた。
「大丈夫か!?」
そこへマルスが駆け付けて来た。
とにかく慌てて出て来たらしく服を乱雑に着ていた。
後ろには3人の仲間も見つけてホッとしていた。
「襲撃があるかもしれないと思っていましたが、この状況は想定外です」
「そうだよな。雇われた暗殺者とか来るものだとばかり思っていた」
「……どうやらのんびりと話をしている余裕はないみたい」
あちこちから聞こえてくる足音。
階段を駆け上がって来る数人分の足音と外から聞こえてくる何十……何百という人数の足音。
「とりあえず移動するぞ」
そう言って再び窓から屋上へと移動する。
マルスたちの実力なら何百人と敵がいても殲滅は可能だが、状況があまりに不明すぎる。
今は一旦引いて状況を洗い直す必要があった。
「いえ、どうやらゆっくりしていられるほどの時間的余裕はないみたいです」
地上を見下ろすメリッサ。
迷宮主と迷宮眷属として驚異的なステータスを持っているため彼らには暗くても地上の様子がハッキリと分かった。
「マジかよ……」
思わず嘆かずにはいられなかった。
彼らの泊まっている『金の狐亭』へと押し寄せる大量の人。全員が憎しみの籠った目で必死に宿へと押し寄せていた。