第6話 旅館
その後は、魔物による襲撃も数える程度の数しかなく俺たちが戦う必要はなかった。
そして、5日目の昼過ぎには目的地であるフェルエスへと到着した。
「なんだか変な匂いがします、お兄様」
馬車から下りてきたクリスが周囲に漂う匂いに顔を顰めていた。
「ああ、これは硫黄の匂いだよ」
俺も迷宮にある温泉で硫黄の匂いに慣れていなければ同じように顔を顰めていたかもしれない。
迷宮の地下67階。
そこは、魔物が一切出てこない様々な温泉施設と火山で構成された階層だった。
いや、おかしいよ!
迷宮の地下66階から70階までは遺跡フィールドで薄暗い道が続いている中、アンデッドを倒しながら罠に注意し、各階層に仕掛けられた謎を解いていく階層になっていたはずだ。
それが67階に入った瞬間に太陽の照り付ける中にある天然温泉。
明らかに上下とのコンセプトが違い過ぎる。
これは、完全に娯楽目的で上下の階層のことを気にせずに造ったな! リゾートフィールドはまだ上下と同じ海フィールドだったから許容できたけど、温泉フィールドは全然違うよ。
「どうにかなりませんか?」
「こればっかりは慣れるしかないな」
「お兄様は慣れているみたいですね」
「これなら家族ぐらいは慣れる為に迷宮へ案内しておいた方が――」
「絶対にいいわけがないので止めて下さい」
馬車の片付けを行っていたシルビアに聞かれて怒られてしまった。
地下67階と言えば人類未踏の階層。硫黄の匂いに慣れる為だけに招待できるような階層ではない。
「では、馬車は私の方で預けておきます」
「お願いします」
馬車の御者をしてくれた使用人に挨拶をして家族総出で目の前にある豪華な旅館へと向かう。
旅館は歴史ある建物で風情があって敷地を大きく使われていた。敷地は塀によって囲まれていたのだが、端は遥か向こうに霞んで見える。
旅館の大きさに感心していると誰かに服の裾を引っ張られた。
「あの……本当に泊まっていいんでしょうか」
裾を引っ張っている人物を見ればリアーナちゃんだった。
シルビアと同様に田舎出身の彼女は旅館の大きさだけで気圧されてしまったらしい。
「大丈夫。ちゃんと招待する許可は貰っているから大丈夫だよ」
「ほんとう?」
「本当だから安心していいよ」
左手を差し出す。
「はい!」
リアーナちゃんが嬉しそうに俺の手を掴んできた。
しかし、それを気に喰わない人物がいた。
「むっ……」
クリスが飛び付くように俺の右手を握ってきた。
「えいっ!」
最後に両手の塞がっていた俺の体にメリルちゃんが飛び付いてきた。
「こら、メリル!」
「痛い!」
ミッシェルさんの拳がメリルちゃんの頭に落ちた。
「ごめんなさいマルスさん」
「はは、いいですよ。メリルちゃんだけ除け者にするのも悪いですし……メリルちゃんはおんぶでもしましょうか」
「いいのですか?」
聞きながらも屈んだ俺の背に嬉しそうに飛び乗るメリルちゃん。
両手と背中に妹3人。
どういう状況だ?
「あの……」
俺の様子を見ていた旅館の従業員が声を掛けてきた。
20歳手前ぐらいで俺たちよりも少し年上のお姉さんが困ったように俺たちのことを見ていた。この旅館は、大きさから分かるように貴族や大商人を相手にした接客を行ってきた。今まで旅館前でこのように騒がしくしている客はいなかったのだろう。
「ごめんなさい。騒がしくして」
「いえ、大丈夫です。ようこそ『雅亭』へ」
お姉さんが正した姿勢で頭を下げてくる。
「ここが『雅亭』なのですね」
「当旅館をご存知なのですか?」
「ええ、フェルエスへの訪問自体初めてのことですが、フェルエスにおいて一番の宿だと伺っておりました。なので今回利用することができて大変嬉しく思っております」
ミッシェルさんも元は貴族だから機会さえあれば訪れることはあったのかもしれない。
親孝行という意味でも旅行に誘えてよかった。
「ありがとうございます。アルケイン商会当主様より皆様のご案内を申し付けられております。お部屋まで案内させていただきます」
「お願いするわね」
宿へと入れば俺たちの護衛依頼は一時中断となる。
ここから先は家族揃っての旅行ということでアルケイン商会の関係者である母を先頭に宿を案内される。
「なかなか趣のある宿ですね」
宿の床は板張りで壁や柱にも多くの木が使用されている。あちこちから漂う木の香りがゆったりとした気持ちにさせてくれた。
「お気に召しましたか?」
「はい。ゆっくりとできそうです」
屋敷の機能的な家も好きだが、こういった落ち着ける家も好きだった。
せっかく迷宮に温泉フィールドがあるんだから今度こういった家でも造ってみようかな?
「こちらが皆様のお部屋になります」
案内された部屋の扉を開けるとベッドが4つ置かれた部屋があり、奥にある窓からは広い庭が見えるようになっていた。冬ということもあって庭にある木には葉が付いていなかったが、庭に置かれた岩によって趣のある庭へと装飾されていた。
「皆様には右隣にある同じ部屋2つをご利用いただくことになっております。御用がある時は部屋に備え付けられたベルを鳴らしていただければ従業員が訪れるようになっておりますので、ご用事の際にはお気軽に声を掛けて下さい。夕食の時にお迎えに上がりますので、それまではご自由にお過ごしください」
そう言って従業員が部屋を退出する。
夕食までは自由にしていいとのことなので、せっかくだから温泉へ行こうということになった。
だが、その前に決めておかなければならないことがある。
「部屋割りはどうします?」
4人部屋を3つ自由に使用していいと言われた。
「まずはあなたたち冒険者4人で1部屋を使いなさい」
「それもそうですね」
「「「「え?」」」」
母親からそんなことを言われて思わず全員が声を上げてしまった。
明日以降の合流になるとはいえ、ガエリオさんや兄だって来ることになるのだから1部屋は男子部屋にするつもりでいた。
「大丈夫よ。自由にしていいからね」
その言葉に隠された意味に気付いてシルビアが顔を赤くしている。
アイラやメリッサも微妙な表情していた。
「しないよ! こんな状況でするわけないです!」
「あなたは大丈夫でも女の子たちの方が心配なのよ」
「まさか……」
チラッと窺うと3人とも苦笑していた。
「ごめんなさいマルスさん私の娘が」
「ウチの娘も」
ミッシェルさんとオリビアさんが謝ってくる。
母親としてその対応でいいのか?
「いい?旅行中なんだから事故が起こる可能性はあるわ。もしも、事故が起こった場合に誰を同室にさせればいいの? クリスたちは論外だし、私たちだって自分の子供の情事を見たくないわ」
情事って……。
「とにかくこの部屋は4人で使うこと。私たちは他の部屋を適当に使わせてもらうことにするわ」
それだけ言い残して部屋を出て行く母たちと妹たち。
残された俺たちにどうしろと?
「とりあえず夕食まで時間があるみたいですし、荷物の整理をしてから温泉に行ってみることにしませんか?」
場を明るくするためか朗らかに提案するシルビア。
「俺は預かったままの荷物を渡してくるよ」
手荷物なら馬車から下りた時から持って来ていたが、数日分の着替えなど大きな荷物は俺の道具箱の中に収納されている。別の部屋で寝泊まりするなら渡す必要がある。
荷物を渡して部屋に戻って来ると3人とも無言で自分の荷物を整理していた。
こんな状況で3日間寝泊まりしろと?
俺も仕方なく入浴の準備をすると温泉へと向かうことにした。