第26話 黒い雫
ベクターを覆った黒い水滴。
だが、覆っていたのは数秒だけの出来事で、風船が割れるように弾けて地面に落ちてしまう。
「いない……!?」
「完全に取り込まれたか」
そこにベクターの体はない。
エルマーは取り込まれたベクターの安否を気にしているが、構わずに上へ顔を向ける。
「チッ、マズった……!」
空から雨のように少しずつ降ってくる黒い水滴。
地面や壁には気を付けていたが、真っ白な部分――空に続く部分にまで対処はしていなかった。空のように見えても、迷宮なら天井に空の絵が映し出されているに過ぎない。
「走れ――!」
もう上に脱出することはできない。
次の転移結晶まで走って迷宮を脱出する。
俺の言葉を受けてエルマーたちが下に向かって駆け出す。
「シルビア、そっちは大丈夫なんだろうな」
『大きな問題は今のところありません……いえ、それ以前の問題ですね』
諦めた者の悲しい声が念話で聞こえてくる。
「どうするの?」
「試験は中止だ。想像していた以上に漏れてきている」
雨の量は少ない。
ただし、もう人間を覆える程度の量は落ちてきたみたいで、黒い水の球体が空中に作られるとディアに飛び掛かる。
「え……?」
いきなり攻撃されると思っていなかったディアが足を止めて呆けてしまう。
『悪いが、その子たちを傷付けさせるわけにはいかない』
飛んで接近した不死帝王の大鎌が黒い水球を両断する。
けれども所詮は水球。斬られて二つに分かれた黒い水がアンデッドエンペラーを覆うべく襲い掛かる。
黒い水に纏わり付かれるアンデッドエンペラー。
「あの……!」
ディアが心配して声を掛ける。
人間からかけ離れた姿をした魔物だったとしても自分を助けてくれ、俺の制御下にいる。
少なくとも味方なのは間違いない。
『心配ない』
アンデッドエンペラーの体から迸った瘴気が黒い水を弾き飛ばす。しかも、弾き飛ばされる方向を調整していたようで大半がマグマのある下に落とされている。
ただし、黒い水が相手では黒いマグマに落としたところで意味はない。
『見たところ大半の力がアレに割かれている。儂が引き受けることにしよう』
「頼んだ。俺はこいつらが逃げられるようにする」
ノエルと協力して魔力を迷宮に流す。
膨大な量の魔力が迷宮の地面や壁に浸透してコーティングされる。
「まさか、さっきからずっとやっていたんですか!?」
「お前たちが地下31階に到達してからだ」
大鎌を掲げながら火山を下に向かってアンデッドエンペラーが飛んでいく。
下からは黒いマグマが大量に飛び出してくる。黒い水やマグマではアンデッドエンペラーにダメージを与えることができず、攻撃を受けても何も問題はない。
『むっ……』
ただし、アンデッドエンペラーの目的は上へ行かせないことにある。体に当たって弾けても無事な黒い液体が上へ向かおうとしている。
『行かせるわけにはいかない』
黒いマグマに向かって手を叩き付け、魔力で弾き飛ばして動きを止める。
まるで滝を叩いているような無駄に思える攻撃だが、時間を稼ぐことは十分にできている。
「本当に、大丈夫でしょうか?」
「あいつを信じてやれ。お前たちは先に進むだけでいい」
不安を隠せないディア。
そうしている内に地下34階の入口に当たる場所へ到達したらしく、転移結晶が見えるようになる。
「う……」
だが、転移結晶が黒い水に覆われていて使用することができない。
「もう転移で連れ帰りましょ」
隣にいるアイラが安全策を提示する。
普段なら最も確実な脱出方法だ。
「ダメだ。安全を確保できていない」
黒い水のせいで空間が不安定になっている。
今のままでは目印のない場所から転移すれば、どのようになるのか予想することもできない。
「なら、斬りましょ」
「止めておけ。溶けるぞ」
アイラの剣なら黒い水を斬ることもできるが、同時に剣を溶かしてしまうことになる。かと言って使い捨ての剣ではそもそも耐えることができない。
それに斬ったところで使用する前に黒い水が復活してしまう。
「こいつは転移結晶から出てきているぞ」
転移結晶を覆っているのではなく、転移結晶から溢れた黒い水が巣のようにして纏わり付いている。
止める為には転移結晶を破壊する必要があるが、それでは本末転倒だ。
「では、どうします!?」
尋ねてくるもののエルマーの中で答は出ている。
「最下層は安全なんですね」
「正確には、その手前も安全にしている」
「わかりました」
最下層まで辿り着くことができれば俺たちの勝ち。
「行きましょう」
『むぅ……そっちに素早いのが行った』
最下層へ向かおうとするのとアンデッドエンペラーからの言葉が同時に届く。
下から物凄いスピードで飛び上がって来たのは真っ黒な体をしたワイバーン。体からは黒い靄のようなものを放出させており、飢えた獣のような目をエルマーに向けていた。
誰が一番弱いのかを理解しており、獲物を捕食しようとしている。
咄嗟に武器を構える4人。
「無駄だ。アレに攻撃は通用しない」
武器を使って攻撃しても溶かされ、魔法も分解されて魔力が吸収されることになる。逆に回復させてしまう場合もあるので迂闊に攻撃することができない。
少量ならともかく高濃度に圧縮されたのが敵では採れる手段が少ない。
「じゃあ、どうするんですか!?」
「こうする」
分かりやすいよう魔力を体から迸らせる。
さらに両手を掴むように前へ突き出すと黒いワイバーンを潰すように握り締めると動きが止まる。
「上手くいった」
使用しているのは【虚空の手】。
魔力から作り出された手で押さえ付ける。物理的な干渉を可能にしてくれるスキルなら触れることもなく動きを止めることができる。魔法は分解されてしまうが、純粋なエネルギーによる干渉なら可能だ。
ギチギチ、と音が聞こえてきそうなほど【虚空の手】から逃れようと力を込めている。だが、純粋な魔力による攻防なら負ける気がしない。
「そうやって形を得たのが失敗だったな」
睨み付けてくるがどこ吹く風だ。
「行こう」
エルマーに先導されて4人が駆ける。
「あれは!」
先にある通路を曲がって馬頭の魔物が姿を現す。
ただし、先ほどとは違って黒いワイバーンと同様に真っ黒な体をしていて表情を判別することができない。
黒いワイバーンと同じ体をしている、ということは触れることができない。
「任せて!」
前に出たアイラが剣を鋭く振り下ろす。
――斬!
魔力による、ただの斬撃が黒い魔物を斬り飛ばす。
「これなら倒せるんだけど、手加減ができないのが問題かな」
魔物の奥にあった壁がズタズタに斬り裂かれている。
「アイラが戦うのは禁止」
「え~……なら、ノエルならできるの?」
「もちろん」
再び現れた馬頭の魔物に向かって錫杖を一瞬だけ叩き付ける。同時に送られた神気が黒い体を吹き飛ばしてしまう。
「ノエルだって手加減できていないじゃない」
「そんなことはない。わたしは周囲に被害を出していない」
「いや、そんな威力で転移結晶に使ったら粉々に砕けるからね」
競うようにして二人が最下層への道を切り拓いていく。
その後をエルマーたち4人はついて行くことしかできなかった。
「さて、このまま最下層まで行くなら試験も続行しようか」
「マルスさん!? 大丈夫なんですか?」
「ああ、今も押さえ付けている」
地下34階に相当する場所で押さえ付けられて動けない状態にして先へ進んでいたエルマーに合流する。
進路の確保は二人に任せておけばいい。
「正直言って想定してものとは違うので手に負えなくなってきたんですけど」
「お前は、あの黒いものを何だと思う?」
様々な知識を得ているエルマーなら近くで観察して理解できたはずだ。
「――呪いですね。それも人を……人の感情を喰らうことを目的にして動き回ることのできる代物ですね」
「正解だ」
もう、お分かりですね。
異状の原因は、魔剣の元となっていた呪いでした。