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鬼の出る道

※残酷描写があります。

 目覚めてから初めに目にしたのは、見知らぬ天井だった。

 わたしは、何が何だかわからず視線を彷徨わせる。見たことが無い部屋の、見たことが無いベッドに横になっているらしい。すぐ右手に、椅子に腰掛けた夫の姿を見つけて、わたしは思わずまじまじと眺めた。

 ずっと側にひかえていたらしい夫は、わたしの視線に気付くと、「やっと目が覚めたね」といくらかやつれた姿で微笑んだ。


「駄目じゃない、志麻さん。僕以外に毒を盛っては。妬けるじゃないか」


 ――途端に、わたしは全てを思い出した。

 血溜まりとテーブルクロスに沈み込んだ文子。そうだ、文子はどうなったのだろう。

 まだ舌がうまく動かず、眉間にしわを寄せて、言葉を話せない赤子のように問い詰めようとする様をひとしきり眺めた夫は、「志麻さんはまた、かわいいことをするね」と頬を緩ませた。寒気が背中を走って、とっさにひっぱたいてやろうとしたが、どちらの手もうまく動かず、ようやく右手が持ち上がった頃には、笑顔の夫に握りこまれてしまった。

 振り払おうとするが、力が入らずうまくいかない。夫は指を絡めながらのんびりと言う。


「偶々早く帰ったらテーブルにお菓子が乗っていたものだから、悪いと思ってはいたけど、あのソースをつまみ食いしたんだ。ぺろりと一口ね、一寸だけだとも。事前に僕に相談してくれさえすれば、あんな安物をたくさん入れなくたって、かわいい志麻さんのために一品用意したのに……」


 ――あれを、食べたと言うの?


 驚いたわたしに気付き、夫は少し考えてから「ああ、そうか」と口を開いた。


「僕は薬を研究していると言っただろ。薬の研究者なんてものは皆、色んな薬が体に馴染んでいるから、あの程度じゃどうにもならないよ」


 一瞬、「嘘だ」とはっきり思ったが、もっともらしい物言いに真偽がよくわからなくなる。夫はいつになく饒舌で、それらしい口調でおっとりと続けた。


「そもそもあの程度の薬だったら、ソースを全部舐めきって眠って吐いて、ようやく死ねるかどうかなんていういまひとつの確率だ。目覚めた志麻さんのがっかりする姿を見たくなかったから、強烈なやつをちょっと一滴、つい垂らしてしまったよ。驚かせたようでごめんね」

「嘘!」

「誓って嘘じゃないとも」


 夫は優しい手つきでわたしの顔にかかった髪を避け、子どもにするように頭を撫でた。

 わたしは思いつく限りの反駁をぶつけてやろうと口を開いたが、言葉が一つも出てこない。文子を殺したのはわたしだったはずだ。だが、確かにあの苦しみようは予想とかけ離れていた。わたしは慌てて重い舌を動かした。


「らんろ薬で死んらか、けいさつが調べれば、わらしがころしたっれ――」

「ちょっと志麻さん、可愛い舌でおしゃべりしないで。頭に入ってこないから」

「わらしは真面目な話をしてるのよ!」


 必死に話そうとしているわたしを意にも介さず、夫はくすぐるようにわたしの頬をなぞる。

 思わず握られている手に爪を立てるが、ほとんど力が入らず、何の攻撃にもならない。ならば蹴ってやろうと思ったが、足はまだ痺れているようで、ぴくりとも動かない。

 夫はベッドサイドテーブルの上から紙片を摘み上げてちらりと視線をやる。


「そういえば、文子さんは残念だったね。交通事故だって」

「……嘘」

「本当だよ。新聞にも載ってる」


 夫が見せてよこした新聞には、「社交界のおしどり夫婦、妻事故死――海原文子女史死す」の文字がでかでかと躍り、文子の夫の言葉まで載っている。

 まるで本当に交通事故で死んだかのようだが、わたしは知っている。目の前で髪を振り乱し、冷たくなっていた文子の姿を。あの時、彼女は確かに死んでいたのだ。にわかに感覚が戻ってきた舌で叫ぶように問う。


「こんなの嘘だわ! 文子は、応接間で――そうよ、あなただって薬を盛ったと言ったじゃない!」

「疑うのなら、自分で確かめてみることだ。あの応接間に行ってみてもいいし、海原氏に聞いてみてもいい。でも残念なことに、きっときみ一人では難しい」

「何ですって……?」

「見てもらった方がわかりやすいかな」


 夫は微笑んだまま、ゆっくりと布団を捲った。自分で起き上がれないわたしの背を後ろから抱くように支え、体を起こさせる。わたしは息をのむ。呼吸を忘れて、自分の足先を睨み付けた。


「だって、きみもまたその不幸な事故に巻き込まれて、両足を失ってしまったんだから」


 膝から下が無くなっている。寝間着がぺたりと潰れて、いつも見えるはずのつま先が消えていた。

 夫の手が太腿に置かれる。じわりと温かくなるが、その先の感覚は無い。喉が震える。恐怖ではない。身を突き抜けるほどの怒りだ。もし体が動くのであれば、後先考えずに夫の目を抉り取ってやりたい。わたしは、激情をそのままに、夫を鋭く睨み付けた。


「あなたがやったのね、全部」


 毒を盛って文子を殺したのも、わたしの足を奪ったのも、全てを交通事故に仕立て上げたのも、全て。


「どうして? わたしはあなたにそんなに悪いことをした? わたしはただ、文子と離れたくなくて、だから、一緒に死にたかっただけなのに! どうして邪魔をしたの!」


 目の前がぼやける。鼻の奥が苦しくなって、頬を何かが滑り落ちる。泣いていた。寂しくて泣いていた幼少期とは違う。目の前の相手が、今この瞬間、痛みも感じず生きていることが、悔しくて仕方が無い。


「わたしみたいな妻が死んだって、どうってことないでしょう? 社交界にも出せない、子どもも作れない、こんな役立たずなんていらないでしょう? どうして黙って見ていてくれなかったの? わたしが一人だけ欲しかった人を奪ったの? あなただったら何だって手に入れられるはずなのに!」


 わたしは今、生まれて初めて癇癪を起こしている。頭に上った熱をそのままに、この男にどうにかしてぶつけてやりたい気持ちでいっぱいだ。

 夫は微笑みを消して、わたしの瞳を覗き込んだ。何事か考えるように少し目を細めてから、静かに口を開く。


「僕がこんなことをした理由なら、志麻さんと同じだよ。僕がたった一人だけ欲しいと思った、可愛い可愛い志麻さんを、きみは奪おうとしたんだ」

「……え?」

「きみは死のうとしたね。僕から離れようとした。それが許せなかったのさ」


 ――わたしの夫は、本当にこの人だっただろうか。


 わたしは目を逸らさずに考えた。

 いつもの穏やかな雰囲気は鳴りを潜め、底知れない冷たさが満ち満ちている。この人は、一体誰だろう。


「僕は志麻さんが誰より可愛いから、きみが望むことは全部叶えてあげたい。だから、お友だちがいるパーティに連れて行ったし、その後も全部うまくいくように手配した。志麻さんが誰かを殺すのは、別に悪いことじゃないんだよ。思い悩むより一思いにやってしまった方が、きみの精神衛生上は良いでしょう? 唯、きみが死んでしまうことだけは許さない」

「あなた、おかしいんじゃない……?」

「志麻さんだっておかしいだろ。似た者夫婦だね」

「わたしはあなたとは違うわ!」


 けらけらと笑う姿にかっとなって、わたしは思わず夫の頬を張る。

 動かないと思っていた腕はよくしなり、ぱん、良い音がして夫の体が傾いだ。背を支えていた腕が緩む。


 ――落ちる。


 咄嗟に手を伸べて夫の胸元を掴む。と、背に再び腕が触れた。

 わたしは思わず唇を噛んだ。自分で叩いておきながら、夫に縋ったことが悔しくて仕方が無い。背中からベッドに倒れたところで、大したことはないはずだったのに。

 夫は、僅かに赤くなった頬を押さえながら、くつくつと笑っていた。


「僕はね、志麻さん、きみがずっと僕の側にいるだけでいいんだ。誰を好きでもいいし、僕のことが嫌いでもいい。でも、何をするにも僕を必要として欲しい。こんな風にね」


 夫は、どこか恍惚とした眼差しで胸元を掴んでいるわたしの手を撫でる。わたしはぞっとして、乱暴に手を放した。この男はおかしい。相手から必要とされるために足を奪って閉じ込めるなんて、まともじゃない。

 顔を見ていたくなくて窓に目を走らせると、ちらちらと木の枝が見えて、少なくとも一階でないことはわかった。このままでは、自力でここから出ることはできないだろう。だが、と、木の枝にすずめが飛んできたのを見て、ふと思った。


 ――どこにしたって、この世にこの男しかないなんてことはあり得ない。


 わたしは、文子にとってかけがえのないお友だちになりたかった。心をずっと向けていてほしかった。それは、わたしの代わりを見つけられたくなかったからだ。この男の望みは違う。わたしが側にさえいれば、わたしの感情はどうだっていいのだ。だったら、わたしにも考えがある。わたしの夢を砕いたように、夫の夢を粉々に砕く方法があるのだ。

 だって、本当に必要なのはわたしを助けてくれる存在で、この男でなくともいいのだから。



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