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蛇が睨むはあの蛙

※後半に残酷描写があります。

「志麻さん、お人形みたいでとってもかわいいって評判だったね。こんな可憐なご婦人は見た事が無いってさ」


 帰りの車の中で、夫はのんびりと言った。わたしは心穏やかでなかったから、それは褒め言葉ではないと教えてやろうかと思ったが、「ドレスが子どもっぽかったのかしら」ととぼけるだけにしておいた。

 誰もかれも、人形のように微笑んで首を振るだけだったわたしを揶揄しているのだ。ふと文子を思い出して、わたしは思わずうつむいた。


「久しぶりに会った友達同士なんて、あんなものだよ。接し方がわからなくなってしまうのさ」


 さすがにあの空気は、夫も察していたらしい。ますます情けなく、悔しくなって、わたしは瞼を閉じる。

 返答が無いのを気にした風も無く、夫は「ああ」と気の抜けた声を上げた。


「そうだ、志麻さん、今度文子さんをうちに呼んでおいでよ。最近買った洋書で、どうにも難しいところがあってね。文子さんは語学が得意だそうだから、聞いておいてもらえるかい」

「……わかりました」


 おとなしく頷くと、夫は「助かるよ」と心にも無いことを言った。柄にも無く、わたしに気を遣っているのだろう。今のわたしは、利用できるものは何だって使う。

 

 ――わたしからでなく、夫からの誘いであれば、断らないだろうか。


 すっかり弱気になっている自分に気付き、わたしは唇を噛んだ。おかしい。こんなはずではなかった。

 わたしに縋るガラス玉の目を、いつまでも見ていたかっただけなのに。これではまるで、わたしばかりが縋りついている。



 一週間後、家にやってきた文子は、子どもができたのだと言い訳のように告げた。


「ねえ、志麻ちゃん。悪いけれど、またしばらく会えなくなるわね」


 なだめるように言って、文子はおずおずと笑う。

 パーティでの自信にあふれた姿とは打って変わって、学生時代に逆戻りしたかのような彼女の姿に、わたしはなぜか安堵していた。

 腹の上で結ばれた文子の両手は、外の世界から守るようにしっかりと組まれている。まるで子を授かった婦人の鑑のような姿だが、それにしても、だぼついたドレスを纏う姿は、相変わらずちっとも美人でない。

 わたしは、微笑んだまま眉を下げた。悲しげに見えるだろうか。膝の上で握り締めた手に力がこもる。

 

 ――いつの間にあなたに決定権が渡ったの。離れていいだなんて、わたしは一言も言ってないわ。


 文子の痩せた頬を張って叫んでやりたかったが、癇癪を起こした子どものようだとわかっていたから、わたしは「そうね」とだけ言って、ぬるくなってしまった紅茶を一口飲んだ。

 文子はわたしから離れたがっている。今このときだけそうなのか、これから一生そうしたいのかはわからない。だが、わたしが文子に会う理由を探していたように、文子はわたしに会わなくてすむ理由を探していたようだ。

 わたしは顔を伏せて、少しだけ笑った。ついにこの時が来ただけだ。いつか飲み干すはずだった絶望が、今まさに、ティーカップになみなみと注がれている。しかし、わたしは自分が考えていたよりずっと馬鹿だったらしい。


「文子ちゃん、わたし、久しぶりにお菓子を作るわ。忙しくなってしまう前に、もう一度だけ会いに来て」

「志麻ちゃん……」

「文子ちゃんの元気な赤ちゃん、見たいから。元気になれるようなおいしいのを作るわ。ね、お願い」


 少し見上げるようにして言うと、文子は観念したように「楽しみにしているわ」とゆっくり頷いた。

 押しに弱いところは変わっていない。段々とわたしが知っている文子に戻っていくようだ。妊娠してから食べ物の好みが変わったらしい彼女は、本当はきっと、甘いものなんて食べたくないのだろう。文子がお茶菓子に手を付けないなんて、今までになかったことだ。


 そろそろ夫が帰ってくるからと、そそくさと帰り支度をする文子を見て、わたしはついに悲しくなった。

 わたしだって、もう子どもではない。わかりきったことを、自分に言い聞かせるように考える。人間が誰か一人だけを必要とするわけがない。一人だけと頼りあって生きてゆけるはずがない。

 普通は、心の中に大切な人を入れる箱がいくつもあって、その時々で箱を並べ替え、中身を入れ替えながら生きている。もしもわたしが器量も頭も良くて、体が丈夫であったとしても、文子はこうやって、夫を出迎えるために帰り支度をするはずだ。文子の今の一番は、彼女の夫とお腹の子なのだから。


 ――でも、わたしはそれじゃ、満足できない。


 わたしが持っている箱は一つだけ。

 子どもではないわたしは、他の箱を全て捨てろとは言わない。しかし、大切なものを入れる箱の中の一つにしまわれて、時々思い出してもらうだけでは物足りない。

 わたしはずっと我慢してきた。これが欲しいと駄々をこねたり、癇癪を起こして喚いたりもせず、一人きりで、与えられた場所でおとなしく待っていたのだ。


 だから、ここで箱を蹴り上げてひっくり返してしまっても、きっと罰は当たらないはずだ。


 逃げるように去って行った文子と入れ違いに帰ってきた夫は、お菓子の材料を書きとめているわたしを見て、「今日の志麻さんはご機嫌だね」と屈託無く笑った。



 人払いをしたキッチンで、女中に用意させた材料で出来上がった焼き菓子を眺めて、わたしは考える。

 わたしが焦がれた女学校での生活は、あの楽園のような日々は、文子にとってはそうではなかったのかもしれない。文子は自由になりたがっている。過去のオジギソウだった自分を、わたしという“お友だち”と一緒に捨てて、自信に満ち溢れた生き方を続けたいと思っている。

 わたしはそれを祝福するべきだし、そうすることだってできた。わたしは文子を束縛しようだなんて思わない。ただ、“とびきり仲の良いお友だち同士”でいられたら、それでよかったのだ。

 文子に会ってからつけていた洋菓子のレシピ帳を無感情に流し見て、二番目の姉が愛用していた睡眠薬を、仕上げのソースにさらさらと流し入れる。数回かき混ぜてから二つの皿にたっぷりと垂らすと、素人の焼き菓子は、宝石のようにつやつやと輝いた。姉の部屋からあるだけ持ってきたのだ。これだけあれば、きっと死ねるはずだ。

 わたしは、ティーポットを用意して、文子の到着を待った。きっとまた、あのおびえた顔で来るのだろう。わたしは小さく笑った。文子は大袈裟だ。わたしだって、何も大それたことをしようとは思っていないし、それができる器ではない。


 ただ、無かったことにされるくらいなら、そうなる前にわたしが全部終わらせてしまおうと思っているだけなのだ。



 やって来た文子は、前回より幾分落ち着いていた。

 わたしのしおらしい態度がきいたのだろうか。女学校の“お姉さん”たちにしていたように文子の変わりようを褒めると、徐々に表情が柔らかくなっていき、女中が焼き菓子と紅茶を持ってくる頃には、すっかりパーティの時の文子に戻っていた。


「ああ、そうだ。私、子どもが産まれたら、しばらく外国に行くかもしれないの。それまでに会えたら、お菓子のお礼に、志麻ちゃんに英語を教えてあげるわ」

「本当? わたし、英語がずっと苦手だったの。文子ちゃんが先生になってくれるなんて心強いわ」


 わたしは、薄っぺらい笑みを貼り付けたまま、自信に満ちたガラスの瞳を見つめて考えた。

 結局のところ文子は、女学校にいたたくさんの学友たちと変わらなかったのだろう。誰かに認められ、頼られ、褒められていたかったお嬢さんたち。わたしだってそうだ。わたしは彼女たちの“誰か”として振る舞い、文子に“誰か”になって欲しかった。結局わたしは、文子の求める“誰か”になれなかったし、文子もわたしを選ばなかった。


 だが、それももう終わりだ。わたしは、文子を殺すたった一人になるのだから。


 不自然に見えないよう、わたしはさりげなく紅茶を飲みながら、向かいの文子に視線をやる。緊張のせいか、舌先がぴりぴりと痺れるように感じた。

 文子はたっぷりとソースを絡めて、フォークを口元へ運んだ。赤すぎる口紅が目立つ唇の端が上がって、ゆっくりと笑みを描く。味わうように何度か噛んで、飲み込んだ――瞬間。

 

 目の前を覆うほど大輪の赤い花が、ぱっと咲いた。


 一瞬遅れて、びちゃびちゃと音を立てて、テーブルに花が崩れ落ちる。膝にじっとりと染み込んだそれに、ようやくそれが液体だと気付いた。血だ。友が噴いた、おびただしい量の血。鉄のにおいが鼻を塞ぐ。

 文子は、咳き込みながら、ごぼごぼと言っている。おぼれているかのように、テーブルクロスをかきむしる。引きずられて、食器が絨毯の上に落ち鈍い音を立てた。髪を振り乱し、喉をばりばりと引っ掻いて、文子は体をくねらせた。まるで大きな百足を飲み込んでしまったかのように全身で悶えていたが、しばらくすると文子は、テーブルに髪を散らして動かなくなった。


「あ、文子……?」


 わたしは、椅子の肘掛を支えに、やっとのことで立ち上がる。

 足が震えている。何か言おうとして、うまく息ができず、吐き気に咽ぶ。文子は動かない。恐る恐る肩をゆする。体は酷くこわばっていた。死んでいる。

 わたしは思わず頭を抱えた。頭痛がする。違う、こんなはずではなかった。こんなに苦しめるつもりはなかった。こんなに酷い死に方をさせるつもりは無かったのに、どうして。


「志麻さん?」


 後ろから暢気な声がして、振り返る。驚いたような顔をした夫が、扉を開けたまま固まっていた。


「どうしたの、志麻さん」


 怪訝そうに眉をひそめて問う男に、口を開こうとするが、うまくいかない。たすけて、文子を助けてと言おうとした舌が、痺れて持ち上がらない。

 目の前がぐらりと回った。いつもこうだ。この男を見るときは、いつもこう。ぐらぐらと揺れて、歪んで、今だってまるで、笑っているように見える。

 わたしは耐え切れず、膝をついた。体がテーブルに当たるが、痛みは無い。音も酷く遠い。夫がわたしの体を支える。


「志麻さん、僕だけだよ」


 まるで水の中のように、くぐもった声がする。文子が吐き出した血が、仕上げのソースのように、きらきらと目の前に揺れる。これで窒息できるのなら、同じところへ行けるのなら、それだって構わないのに。


「志麻さんを助けられるのは、この世で僕だけだ」


 聞き分けの無い子どもに言い聞かせるような声色が、わたしの耳をそっと撫でる。


「だから、志麻さんは、僕のことだけをずっと頼りにしていてね」


 いつか幼いわたしが願ったことを、誰かが真剣に言った気がして、愚かなことだとぼんやり笑った。



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