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乙女の園にも蛇は棲む


 文子は、わたしにとって理想の“お友だち”だった。


 彼女は、教室では目立つ存在でなく、授業中は黙って教科書ばかり見つめていた。

 先生に当てられたときも、答える声は蚊の鳴くような大きさで、しかも気の利いた回答でもなかったから、印象に残っている学友が果たしているか疑わしい。

 休み時間も、文子は変わらずオジギソウのように頭を垂れて、黙って本ばかり読んでいた。

 服装や小物にも洒落たところは微塵もなく、痩せた鶏のような喉もとや骨と皮ばかりの手首が小紋からにゅっと伸びていた。没落しかかっているとはいえ、曲がりなりにも良家の令嬢の癖に、彼女はいつもどこかみすぼらしく見えた。顔立ちも美人とは言えず、ガラス細工のように澄んだ色をした、しかし大きすぎる目が印象的だった。


 文子は、総じて上流階級の息女が話し掛けるには大いに勇気のいる人種だった。

 だからわたしは、彼女を選んだ。


 わたしは、わたしだけのものが欲しかった。

 わたしのことだけを必要とし、独り占めできるようなもの。ずっとそれに憧れていた。それも、何でもいいというわけではない。学校に通う少し前から、同性のお友だちがいいと思っていた。

 わたしは茶道の名家に生まれついたものの、生来体が弱くて、そもそも嫁入りできるかわからなかった。それに、両親や幼い頃に嫁いで行った姉の様子から、嫁ぎ先の旦那様がわたしのことだけを好いてくれるわけがないと知っていた。当然のことだ。結婚は家が決めるものだから相手を選ぶことなどできないし、その相手を独占できる制度でもないのだから、期待するだけ無駄なのだ。

 それでは何か動物でも飼おうかと思ったが、それを思いついた頃に偶々二番目の兄が飼い始めた犬は、ほんのさっき会ったばかりのわたしが手を伸ばしても、嬉々として寄ってきた。こちらを見上げて果敢に尾を振る犬に、わたしはひどく落胆した。これでは駄目だと思った。飼い主以外には顔も向けないほどでなければ、わたしは満足できない。


 流行り病を生き延びて、体が少し丈夫になったわたしは、念願の女学校入学を果たした。

 家庭教師はいたものの、この忌々しい虚弱さのせいで長い間起きて勉強ができず、入学時などは地を這うような成績だった。だが、そんなことはどうでもよかった。早くわたしだけの“お友だち”が欲しかった。

 小柄で線が細く成績も悪いわたしは、年上ぶることに傾倒していた女学生たちの庇護欲を誘ったらしい。良き妹を装うだけで、彼女たちは何だってしてくれた。

 ぬるま湯の中で一週間ほど様子見をしているうち、わたしはクラスの端でひっそりと生きている文子を見つけた。


 ――ああ、あの時の気持ちといったらなかった。


 欠けていた自分の何かが埋まろうとしていた。ついに会えたという期待と、逃したときに味わうだろう絶望が、熱を持ってわたしの胸を押した。

 用心深く観察し、誰も彼女を欲しがらないことを確信したわたしは、病床に渦巻いていた情熱を解き放ち、足しげく文子のもとへ通った。

 わたしの取り柄は愛想だけなので、それをめいっぱい振りまいて、毎日文子に話しかけた。お菓子も好きだったから、甘党の文子のために珍しい洋菓子の作り方を勉強しては実践し、放課後にこっそり贈った。

 読んでいる本のことを聞くと、文子は途端に饒舌になって、作家のことや作品のことをいくつも教えてくれた。正直なところ、わたしは本を読むのは得意ではない。きょうだいたちのように賢く生まれついていなかったのだ。

 二人で話すときは聞き手に回ることが多かったが、第三者が現れたときは、打って変わってわたしの独壇場だった。誰かに話しかけられると、途端に文子はいつものオジギソウに戻って、小柄なわたしの後ろに隠れていた。

 いつしかわたしたちはいつも一緒にいるようになり、周囲からも“とびきり仲の良いお友だち同士”だと囁かれるようになった。



 女学校の卒業が近づいた頃、ようやく文子の縁談がまとまった。

 文子はしきりに不安がっていたが、わたしにはその覚悟ができていた。いつか文子はお嫁に行く。体の弱いわたしとは違う。例え文子に夫ができたところで、友情は別段揺らがないだろう。寧ろ、人付き合いが苦手な文子のことだ。嫁入り先でうまくいかなくて、わたしを頼ってくれないだろうか。

 結婚などというものでは、わたしと文子の関係は変わりようがない。わたしはすっかりそう信じきっていたが、影響は存外すぐに現れた。

 女学校を卒業して、文子がお嫁に行ってから、途端にわたしたちは疎遠になってしまった。


 ――大丈夫、きっと今だけだ。


 わたしはじりじりと待った。暑すぎた夏はわたしの体を蝕んで、幼い頃のように起き上がれない日が続いた。文子から届いた暑中見舞いを眺めては、新居を訪ねてみようとか、お菓子を作ってお茶に誘おうとか、毎日考えては夕暮れを迎えた。

 いくらか体調がよくなったところで冬が来た。病弱な末子に与えられた離れは、動くのも億劫になるほど寒い。暑中見舞いから便りはなく、わたしから手紙を書こうとしたところで、弱気なところは見せたくないので、結局一文も書けずに筆をおいてしまう。


 ――文子の旦那様は貿易商で、外国からのお客様も多いと聞く。文子は海外の文学作品も好きだったから、単に今、色々なものが珍しく感じられるだけだ。


 言い訳を盾に、ずっと文子からの便りを待っていたはずなのに、届いたのは縁談話だった。

 文子の縁談が持ち上がった頃、わたしも何度かお見合いの席に呼ばれていたが、どの相手へもわたしへは勿体無いと返答をしていたから忘れていた。見栄を張りたがる父が選ぶ相手は、いずれも上流階級の男性ばかりで、わたしのような飾り物を正妻として娶ろうとはしない。華やかな舞台で生きていくには、美貌も学も足りていないのだ。無理に輿入れされた姉は、性格がますます歪んでしまった。

 断ろうと思ったが、離れで凍え死ぬよりはましかもしれないと思った。何より、文子へ声をかけるきっかけができる。嫁入り先で不遇であれば、会いに行く口実だってできる。


 夫となった男は、華族の血を引くだけあって、学歴は天ほど高い。容姿は、華やかさこそ欠けるものの、美男子といって申し分ない優しげな風貌だった。見た目の通り野心は驚くほど無く、物腰も柔らかで、わたしに望むものなど何も無いようだった。

 お見合いでは「志麻さんも末っ子なのですね。似た者同士ですね」と笑っていたのを覚えている。わたしは文子以外には興味が無いので、夫に何を求めるつもりもなかったから、気楽だと思われたのかもしれない。

 彼は、薬学の研究をしているとかで毎日研究室に通っているようだが、詳しい話を聞いたことはない。外に別の恋人がいても、あの離れに戻されない限りは文句を言うつもりも無い。

 なにせわたしは、初夜の後は三日寝込んでしまったのだ。虚弱にも程がある。

最中に上がった熱が、そのまま下がらなかった。仰向けに寝ているはずなのにぐるぐると回り続けた視界を今でも覚えている。水面に映したように夫の輪郭がぶよぶよと歪んでいたことも、その手が大きく膨らんでわたしの額を撫でたことも覚えている。

 それからも夜の営みは頑として進まなかった。たまに調子が良くても、わたしの記憶は最後までもった例がない。いつもぐるぐると視界が回り始め、輪郭がぼやけて、真っ暗になる。

 夫も「無理をしなくていい」と口では言うものの、おそらく気付いているはずだ。わたしは明らかに、子どもを産める体ではない。

 口さがない人々に何か言われるのが嫌なのか、夫はわたしを滅多に外に連れ出さなかったし、自然とわたしも外出を控えるようになった。だが、幸いわたしは一人で時間を潰すことに慣れていたし、夫も物事に頓着しない性格だったので、時折思い出したように夫婦らしいことをしてはみるものの、良くも悪くもお互いに干渉しない生活が続いた。



 退屈な毎日を過ごしていたある日、夫に初めて連れられて行ったパーティで、わたしはついに文子と再会した。


 慣れないドレスを着て向かった先は、目も眩むほど煌びやかだった。はじめのうちは夫が挨拶をする相手に愛想よく会釈をしていたが、すぐに難しい話になるので、時間が経つにつれて微笑みながら頷くしかできなくなる。明らかにわたしは場違いだった。

 逃げるように視線を彷徨わせた先に、深緑色のドレスを着た少し猫背気味の姿を認めて、わたしは息をのんだ。間違いない、文子だ。

 彼女は、がっちりとして背の低い男――文子の旦那様だろう――に寄り添って、外国人と異国の言葉で話していた。見違えるように堂々として、明るい表情で微笑んでいる。但し、なんだか化粧の色が合っておらず、ちっとも美人でない。

 わたしの視線に気付いたらしい夫は、あの二人は敏腕貿易商のご夫婦だと朗らかに言った。「年の差はあるが、話題のおしどり夫婦だよ」と続けたのを聞かなかったことにして、奥方がわたしの友人だからと、夫をせかして挨拶に向かう。

 久々に正面きって見つめた文子は、僅かに戸惑いの色を浮かべていた。

 わたしは、文子にそんな顔をされる意味がわからない。元気にしていた、久しぶりね、なんて微笑みあうものだと思っていたのに。わたしたちのぎこちなさをよそに、夫同士は屈託無く、振舞われる料理の出来やお酒の話を続けている。


 わたしが口を開こうとしたとき、異国語が頭の上から降ってきた。

 背の高い外国人夫婦が文子の夫に話しかけている。彼は豪快に笑って一言二言返すと、わたしたちを紹介するような手振りをした。

 途端に、文子はわたしの知らない言葉ですらすらと話し始めた。金の髪の夫妻は、文子の話に僅かに頷いたり、くすくすと笑ったりしている。わたしは、あんな文子を見た事がない。相手の視線を避けるようにわたしの陰に隠れて、ひっそりと息を殺していた彼女しか知らない。

 かろうじて笑みを貼り付けているわたしをよそに、夫は相変わらず暢気な笑みを浮かべ、何事か言ってから流れるように握手をした。何を言っているのかわからない。わからないが、わたしも微笑んだまま、異国の夫婦から差し出された手を握った。


 文子は結局、一度もわたしに話しかけることは無かった。


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