-月へと渡る橋-
「──なんだっていうんだ?」
うまく言葉にできないが暗闇に浸っていた身体は光に飢えていた。一歩また一歩と、軽い足取りで光に導かれるように僕は歩んだ。そこに待ち受けていたのは月明かりを飲み込み、また反射する大きな水溜り。いや、この規模は泉であろう。鬱蒼とした森にぽっかりと開いた土地を大きく支配し、まだ背足らずなススキが囲む陸地は有限の如く広がる。
ススキの群生を抜け土気色の地面に出た僕は泉に目を向ける。そこには桟橋が泉のへそに届かないくらいの長さで横たわっていた。そして泉のへそには満点の月が浮かんでいた。その情景を形容するならば、
「月に渡る橋といったところか」
こんな形容が似つかわしい。
渡月橋と勝手に名づけた橋の入り口には鳥居が構えており、その先端には簡易に作られた祭壇のようなものが見える。そして、心なしか小さな人影がおぼろに、おぼろに見受けられた。
「……秋葉、あれは秋葉じゃないか?」
この世の場所とは思えない異空間で見つけたその姿は、あまりにもおぼろげで疲れから来る幻覚ではないのかとも考えたが、目を眇めるほどに秋葉の特徴がその人影から生まれ出でる。近づくか躊躇われたが、この瞬間を逃したら一生後悔するような気が原動力となり、足は自然と桟橋を叩く。
静まり返ったこの領域では足音は唯一の音として存在を月夜に木霊す。当然、それに気付かないわけもなく秋葉はおもむろに、肩越しに、こちらへ光を失った眼を向けた。
「清水君? ……ふふっ、幻覚も気が利いていますね。〞最期〟に素敵なものを見せていただきました。とっておきの『手向けの花』ですね」
夢でも見ているのだろうか。秋葉は蕩((とろ)けた口調でそう述べると、足を桟橋の縁へとかけた。そして、一陣の強い風が吹いた。
「危ない──ッ!」
僕の注意は水飛沫に消えた。
「秋葉っ! 今助けるぞっ! うっぷ、ぐはっ──」
あまりのでき事に僕は目測八メートルの距離を疾走し、祭壇をなぎ倒し、祭壇とともに水と交えた。そこで思い出す──自分が泳げないことに。
僕は水泳が得意ではなかった。炎天下に身を晒すことは肌に良くないことであり、陸上生物としての意地が水と戯れることを良しとしなかった。それに加えていまは着衣水泳だ。生存率など計算する気にもなれない。
生命の危機に身体はもがくと思われたが僕の身体は潔いらしく、ただ水に任せ沈むだけ。目を開きながら沈む景色は絶景で、透き通った水に空から差し込む月明かりの光景は死にも値するものだった。僕と同時に沈んだ祭壇はわずかに上を、先に沈んだ秋葉はわずかに下で酸素を地上へと球体で送り返す。……せめて、彼女だけでも。
そんな気持ちで手を伸ばし、秋葉の側頭部に右手を添える。だが、なんの解決にもならない。
──力……不足だった。漠然とした意識の中で『組曲【動物の謝肉祭】より水族館』が鮮明に流れる。その幻想的な調べは、僕と秋葉の周りに月明かりとは違う〞なにか〟結晶のようなものを生み出した。そこで思考は途絶えた。
「──まったく、二人はちとキツイ」
その声はどこか温かい。虚ろな意識の中で僕は無理やりに頭を起こした。
「……どこだ、ここ。無事なのか、死んだのか」
この虚ろな問いは先程の時代掛かった声が答えをくれた。
「命は拾った。まあ、少なからずの命。大して変わらんのが悲しいがの」
ここは見覚えがある。あの大きな泉が傍らで月明かりと戯れている。ここはその縁側の陸地だ。
「そうだ、秋葉っ! 秋葉は──」
「その子も事なきを得た。ほれっ、お主の左に寝ておるだろう」
またもや回答を与えるその声に従い僕は左に目を移す。そこで僕は言を失った。
「……なんとういうことだ」
小さな両手で傍らに横たわるその身体に指紋をつける。何度も何度も。
そして、興奮あらわに呟いた。
「──美しい」
普段より高い声で呟いた言葉は、まさしく嘆美であった。
「その麗しき貌は宇宙……その麗しき毛髪は蒼空の星々を、その麗しき貌を彩る端正な鼻、耳、目、口、延べ七つの穴は北斗七星を見るようだ。また左の目は日、右の目は月であり、両眼の閉塞は昼夜・明暗・生死・陰陽の離合。鼻は山岳渓谷を、鼻の気息は渓間の風を、口は天地間の虚空であり、その気息は虚空の風だ──あまりにも美しすぎる」
流れるような感想が漏れるのは僕の及ぶところではない。一目見た瞬間にふと漏らしてしまう彼の貌の造形にある。美しさを、宇宙を具現しているのだ。
僕の求めていたのはこれだ。それも幻ではない。この手でしっかりと触れるのだ。
「ここは天国か?」
僕の素直な感想は幼い頃よりも高い声で再生される。
あまりに叫びすぎたようで僕の声を疎ましげに、その御仁は重い瞼を持ち上げた。
次話掲載
4/15 10:00頃




