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新渡戸の夜 稲造の朝  作者: 紫水ゆうじ
第7章 造景世界 ☯ 造景破壊
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後者 -祭り前夜-

「……き……桔梗…………よく来てくれたね」


「──清水君、どうしたのです! 顔色がひどく悪いですよ!」


 虚ろに縮こまっていた清水君を、私はあらん限りの力で抱きしめます。ひどく冷たいです。清水君は私の体温に頼るように胸元に頭を埋め、私の腰へまわした手をさらに強めました。私はこれに、何も言わず身体を貸します。しばらく私に身体を預けていた清水君は、やっと体温が戻ったようで埋めた顔を上げ今にも消えそうな顔でこういいました。


「僕は悪い子だね。二回ほど君を裏切りそうになった。……でも、覚悟決めたから」


 話の内容は私にはさっぱりでしたが、その顔は非常に優しいものでした。ですから私はこういい返します。


「裏切りですか。ちょっとうれしいです。だって裏切りは信頼関係がないと出来ませんからね」


 少女の丸い瞳に写る私はとても優しい顔をしていました。これで私たちはおそろいですね。二人だけの世界に酔ってしまいそうな私たちでしたが三者の声で現実へと引き戻らされました。


「ゴホンッ! いい雰囲気のところ悪いがお主らに伝えなければいけないことがある故、守泉まで同行願おう。……入れ替わりについての大切な話だ」


 ミコトさんは空咳で雰囲気を壊しそう告げると、仮面を正し無言で歩き出し始めました。清水君はこの言葉を待っていたかのように後へ続きました。それに私も続きます。とても歩幅を狭めた足取りで……。


 二人の後ろを歩く粛々と私の気持ちを察したのか、清水君はペースを落とし問いかけます。


「あの話のこと聞いたのかな? ──そうか、短命のことを黙っていたのは謝る。だが、呪いのことは今日はじめて聞かされたんだ。信じてくれ」


 清水君は私のことを心配して言葉を掛けてくれました。しかし、私が悄然としている理由はそのことではありません。私の心を悩ませるもの──それは入れ替わりについてなのです。入れ替わって以来ずっと私の中に巣くってきた感情。それは最近になって肥大化してきたようで、私に我欲がある以上消えることはないのです。私は清水君の取り越し苦労を訂正しました。


「信じてくれって、私が清水君を疑うとでも思ったのですか。私は清水君に関しては疑うことを知りません。恋は盲目なのです。だからそんな顔しないでください」


 私はそういい張ると、清水君の前を一歩先んじます。……よくよく考えてみると、私さっきから恥ずかしい台詞を連発しているのではないでしょうか。いまさらになって自覚し、いまさら顔にほてりが上ってきました。その顔を見られぬよう、私はまほろばまでの道のりを、清水君より一歩先を守り続けました。


 短い旅路の一幕はすぐに終わりを告げようやく二十地蔵、まほろばの入り口へと到着しました。清水君は相性の悪い地蔵を見ないように私の後ろへと隠れます。


「さて、お手を拝借──」


 ミコトさんに続く形で三人の拍手がいやに静かな森へと木霊します。目を開けると私には見慣れた情景が、匂いが網膜と嗅細胞へ焼きつき不思議と気持ちが落ち着きました。


「清水君、まほろばに着きましたよ」


「そうみたいだね。ところで、なんで桔梗は守泉のことをまほろばと呼ぶんだ?」


「私は紛いなりのも神職の人間ですから、御神体であるこの泉は異称を用いるのですよ」


「へえ、ところでまほろばって、どういう意味なのかな?」


「住みやすい場所という意味もありますが、ここでは素晴らしく立派な場所という意味ですね。ちなみに守泉の語源は〞森の泉〟であり〞鎮守の泉〟であり〞神の泉〟であるからですね」


「上の二つは分かるけど〞神の泉〟とはどういうこと?」


「守はカミとも読みますから……ほら、昔の役職に何々の守というものがあるではないですか」


「へえ、勉強になったな」


 案外身近な事ほどわからないものなのですよね。外国の方がその国の方より名物や歴史に詳しいことはよくあることで、少し寂しい気持ちにもなります。こんな他愛もない話をしているとミコトさんは桟橋の上を一人で進みます。私たちは慌ててその後を追いかけました。


 桟橋を包むように広がる泉はおだやかな波風がその澄んだ水面を揺らします。その澄んだ水質を物語る話にこのようなものがあります。桟橋ができる前まではこの泉の上を小船で渡り、中心部まで行って祭事を行ったらしいのですが、その際、泉の透明度があまりにも高いため、孤舟は何もないところに浮いているかのように見えたそうです。


 遠い昔とかわらずここにある泉に感慨を覚えながら陸地と泉を繋ぐ桟橋へと足をかけました。陸地を覆うススキが風に撫でられる音もだんだん遠くなり、ススキの大群生に囲まれ守られる泉の中心部へと誘われます。いち早くその場に陣取っていた方は、月明かりに照らされその白さがいやに目立っていました。そして、雄大な自然と祭壇を背景に、私へ問いかけました。


「そなたは好きな人のために死ねるか?」


 それは問いと呼ぶにはあまりにも剣呑なもので、私は答えに詰まってしまいました。答えなど二つ返事で出せるものだというのに…………これに私より早く噛み付いたのは清水君です。


「あんたは何をいっているのだ! そんなこと僕が許すわけ──」


「お主は黙っておれ! 答えを求めているのはその方ではない……」


 いままで安穏として生きてきた私は、本物の殺気というものに初めて出会いました。それは冷たく切実なものなのですね。言葉をつぐむ最愛の人に代わって私が口を開きます。


「そんなもの答えるまでもありません」


 あえて曖昧と多様性に満ちた返答をしたのは、私の目顔が雄弁に語ってくれると信じているからにほかありません。案の定、この場にいる全員に正しい意図が伝播しました。


「──素晴らしい。それが本当の愛というものであるな。見込みどおりだ」


 私の返事にミコトさんは、仰々しく両手を広げ、その歓喜に今にも踊りだしそうです。


「何が見込みどおりだ! 僕は認めないぞ。だいたい、その質問はなんのために問うたんだ。ただの愛情の確認や遊び心じゃないんだろう!」


 それとは対照的に、肩を並べる最愛の方は、感情あらわに口を開きました。


「まったく余の先祖はものわかりが悪いようだな。いや、口に出したくないだけで本当はわかっておるのだろう? まあ、いいだろう教えてやろう。余がもしやのために、と暖めてきた奥の手を。……仙太郎お前には生きてもらう。たとえ血肉が違えどその()情意(じょうい)だけは──」


「…………あんたはいったい、何をいっているんだ」


 唐突な宣言に清水君は思考が追いつかぬまま、話は核心へと移行しました。


「その入れ替わったまま仙太郎には生きてもらうといっておるのだ。そして悪いが、月下の巫女よ、そなたには仙太郎の身体と呪いを背負って死んでもらう」


 言葉が空気にとけ、世界の言葉は消滅しました。その後は一定期間、静寂と水面のさざ波の攻防戦が熾烈を極め、前者に軍配が上がるとともに音の完全消滅を確認しました。


 さて、音が消えて幾時が経たのでしょう。忘れた頃に風が水面を優しく撫でさざ波を無音の世界に解き放ちました。それに続くように今度は言葉が生まれます。それは短く途切れた吐息のようなものでした。


「何を、いっているんだ…………」


 かろうじて言語と思われるその言葉は、ミコトさんにさらなる説明と自らの絶望を引き出します。


「……余は、いやこの清水仙は最悪の戸口からこの道を歩き出し、善行を積み重ねいつかは最高とまではいかなくとも、常人が歩く道を先祖が歩けるようにと、ただそれだけを求めてこの世にしがみついて来た。しかし、無常にもそれは無駄であった。次々に倒れる最愛の先祖は、ついに弱冠すら到達できんのだ。もはや子を残すことはかなわない。ならばせめて、最後の先祖には、最愛の先祖には人並みの人生を送ってほしいのだ」


「そんな独りよがりの願いのために、桔梗を犠牲にしろというのか!」


「犠牲、か……もし、その犠牲となる命が、因果律の狂いから保たれた命だとしても同じことがいえるだろうか? なあ、月下の巫女よ!」


 干天で現れた中州に取り残されていた私は、急遽大雨が降り注いだように当事者へと変わります。いったい、私が何をしたというのでしょう。


「知らぬ存じぬとは言わせんぞ。この場所、そなたは不思議な経験をしたであろう。あれはそう、今日のような月がよく映える夜に、だ」


 ミコトさんの問いに伴い私は記憶を辿ります。うーん、と口を結びながら考え込み一年、また一年と遡ります。しかし、それらしい事案は浮かびません。その作業を繰り返すこと八つとなりました。そこで私は結んでいた口を広げ、納得と言わんばかりに手を叩きます。なぜあんなに印象的なことが、すぐに出てこなかったのでしょう。失念していたとある幻想的なでき事を普段なら憚られますが、事態が事態なだけに早急に証言しました。


「あれは私がまだ九つの時です。その年の十月三十一日も満月でした。私は神楽舞が嫌でこの場所へと逃げ隠れたのです。幼心に逃亡の罪悪感を覚えた私は桟橋を渡り水面へと目を落としうなだれていたのです。そんな私の目に飛び込んできたのは泉に映る満月でした。それはあまりも、あまりも美しかったのです。『名月を取ってくれろとなく子かな』。……恥ずかしながら私は一茶の句にも詠われるように、月を取ってくれと親に懇願したことがありました。それは当たり前のようにあしらわれましたが、納得はいかずその思いは募る一方でした。


 そんな私は水面に精一杯手を伸ばしました。どこか浮世ばなれした空気にあてられ理性が酔っていたのでしょう。まだ幼い私は今よりもずっと体躯も小さく思うように掴めません。欲に眩んだ私は、ついに身体を乗り出し月の捕獲に走ったのです。そして、掴んだのです。確かに、確実に──しかし、それは形状を崩し手から漏れ出し、あの愛おしい球体ではなくなっていました。…………その後の記憶はありません。暖かい父の背中に背負われ森を抜け、家で養生をした後、文字通り〞死ぬほど〟両親に怒られるまでの空白の期間を──」


 そうです。私はあの時に泉へと落ちてしまったのです。でも生きている。誰かが救助してくれたということですよね。でもだれが…………って、これだけの情報があれば考えるまでもありませんね。私はミコトさんに向き直ります。


「……そういうことだ。そなたは余が利用するために生かした。余の計画のために……だいたい入れ替わり自体私が目論見、実行したのだ。神のいない隙を見計らってな。――これで理解したか。カルネアデスの舟板は我が祖先が握るに相応しいことに」


 この証言に私は不思議と驚きません。これが腑に落ちるというものなのですね。


「ふざけるなっ! そんな身勝手が許されるか。人を何だと思っているんだ!」


 納得の表情を浮かべる私をよそに、清水君は私の小さい身体でミコトさんに飛び掛りました。


「お主は生きたくないのか? ならば今すぐ泉に落ちて果てるがいい、目障りだ」


「生きたいよ、生きたいさ! でも、そこまでして生きたくはないっ!」


「そんなのは一時の気の迷いだ。後悔なら後でもできる。生きていればの話だがな……だが、死んでしまったらそこで終わりなのだ! 幸い、その娘はお前のために死んでくれるといってくれている。強制ではないのに、だ!」


「だとしても……だとしても…………」


 清水君は力なく膝を落としました。


「いずれ、わかる時がくる。──そうと、もしその未来を拒むというならば明日三十一日、戌の刻〞宵五つ〟にこの場所に来て、共々泉に入水するがよい。身体は元に戻してやる。しかし、そうなるとしたらひどく興ざめだがな。……余をあまり落胆させてくれるなよ」


 膝を落とした清水君を尻目にミコトさんは消えました。ちょうど出てきた夜霧に解けるように。


 私は清水君の手を取り神社へと戻ります。八時に約束がありますから。先頭を歩く私の後ろの清水君は後ろ髪を引かれるように足が非常に重たかったです。進まぬ一行でしたが、あの牛歩を誘う森はすんなりと私たちを通し、時間通りにつくことができました。皆さんもあつまっているようです。


 そこでは祭りの準備に携わった大人たちがお酒をあおっており、私たち未青年はジュースで時を過ごしました。私は慣れていましたが皆さんはさぞかし退屈だったでしょう。しかし帰り際、神楽舞を踊る皆さんに神社から心ばかりの〞包み〟を手渡されると晴れやかな表情で帰途につかれたようでよかったです。ですが、清水君だけは包みを持ってしても叢雲が風に流れることはなかったようです。


 明日は祭り当日です。最悪の時期に不安の種を植え付けられたものですね。


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