-昔話ととばっちりの鏡-
起こりは、まだ自分が好きで堪らなくナルシストが抜け切れない中学の清水仙太郎。稚いあまり鏡をただの反射材だと思い込んでいた童顔に大器晩成の気配を忍ばせた美少年だ。
【――これより仙太郎少年を説明の都合上、美少年とする】
結婚の件で肩を落としていた美少年は赤みを帯びた図書室で項垂れており、最悪のタイミングで最悪の人物が音を殺して歩み寄っていたことに気付くのが遅れた。
「――珍しいな、太郎が鏡以外を見てるなんて。なに見てんの?」
まだ『スターリン』に脱皮前の『暴君』は、血を好むその両の手で美少年の前にあった本を取り上げ、つりあがったその両の目でページをなぞった。
すると数秒後、くぐもった声でこう漏らした。
「……はっ? へっ? 同性婚に近親結婚?」
そしてまた数十秒の空白の時間を経て、やけに動揺気味の顔で少女は呟いた。
「あんた……もしかして、自分と結婚しようとか考えてないよな」
少女のあんな顔を拝んだのは生まれて初めてだった。その顔に気後れし、美少年は返事を返すことはできなかった。
表向きには動揺が強いが、その一枚皮のしたに潜む真意がおぞましく読み取れたからだ。
「……まさか、ありえないよな。結婚は性別、近親、年齢とかの障害以前に〞二人〟でするものだし。いくらナルシストをこじらせても自分と結婚しようなんて、常識的にありえないからな――」
返事を返さない美少年の逃げ道を断つように、もしくは自説の信憑性を消し去るように少女は言葉を紡いだ。これによりまた空白の時間が支配した。
項垂れた美少年はこの重くのしかかる時間をただ無為に過ごしてはいなかった。
しかし、弁解を考えるなどつまらないものに割いているわけではない、美少年の心を湛える感情はむしろ怒りにあったからだ。
……なぜ、そこまで「ありえない」といわれなくてはならない? 常識? そんなものしるか! 恋は美しいものにするものだ。愛は護りたいものに芽生えるものだ。それが、僕にはたまたま自分であっただけのこと――それなのになんでそこまで言われなくてはならないのだ!
怒りに呑まれた美少年を止められるものはいない。顔をあげた美少年は怒り心頭に発した。
「そうだよ、僕は僕が好きだ! 僕は僕を性的な対象としてみている! 僕が僕と結婚しようとして何がおかしい! それの何が悪いというんだっ!」
ここまで感情のこもった宣言を受けては口をつぐむしかなくなるだろう。そう高をくくっていた美少年に、少女は予想を反す大声で否定の言葉を述べた。
「――頭がおかしいし、なにより気持ちが悪いよっ!」
これには美少年の方が口をつぐむしかなかった。その後、口は閉じたというのに目からは計りしれない力が水と伴って溢れ出る。父親の葬儀でも泣かなかった芯の強い子だと自負していた美少年のその矜持は、秀麗な貌と共に無残なまで崩れてしまった。
なにかいい返そうとするが、鼻口からは言葉は生まれず水のみが醜悪に支配する。そんな美少年の脆弱な精神は、いい負かすことはおろか、いい訳も残さずまま逃走を余儀なくされた。図書室の扉を白魚に似た手でこじ開け、少女からの不可侵領域『男子トイレ』へと逃げ込んだ。
「……ぐすっ、なんなんだよ。ぐずっ…………」
すっかり容貌を乱した美少年は、芳香剤の匂いすらも認識できないほどに、曲線美を保った鼻をやられていた。
「こんなはずでは……僕はもっと強いはず――そう、男たるもの涙を見せず、栄えある者は常に気品を見せ付けなくてはならない。それが女子の言葉如きに変調をきたすなど、美しくない!」
反省とは錯誤の後にするもの。美少年はまさかそのような醜態を晒す破目になるとは露ほどにも思ってはいなかった。なんとも弱い……あれほどに精悍な様を見せ付けた若君の正体は、一言で取り乱す卑俗な若輩ものだというのか。――申し訳がたたない、ご先祖様に、亡き父に、なにより昔の、これからの自分にっ!
――もう自分が好きだと大声でいえないっ!
身の程を知り、自惚れた自分への百年の恋に寒冷期が訪れる。雄大な自分像は偽りだと、幻想だと、高慢に構えていた自分に恥じらいが止め処なく湧き上がり、もう自信というものを自身では生成できなくなっていた。
「……ははっ、きっとすごい貌してるんだろうな、僕」
トイレに入ってからというもの反省ばかりに時間を費やし、美少年は鏡を見ることはなかった。これは美少年の行動理念から鑑みれば実にありえない話だったが、一連の流れからすれば合点がいく。美少年は恐れていた。崩れたその気高き貌を、自信を失った落剥の自身を見ることを過度に恐れていたのだ。
そんな葛藤は自嘲を増長させ諦めという形で美少年に鏡と向かい合わせた。その曇りなき鏡に映る自分と向き合うことで過去の自分と決別しようと考えたのだ。
「……さらば、美しい自分。自分が好きなんて、自分と結婚しようなんて二度と言わないよ」
美少年は覚悟を決め、面を上げる。
その覚悟とは裏腹に、美少年はやけに力の抜けた驚嘆の声を上げた。
「――どういうことだ?」
感想はシンプルに、驚きは率直にただ事実だけを奇怪に告げる。それもそのはず、曇りなき鏡を臨む曇りなき瞳に映るは、恋に焦がれたあの清水仙太郎の瑕疵なき御姿だった。
「…………嘘だ」
という懐疑にはホントのことだと返すしかない。あそこまで泣きじゃくった美少年の顔には腫れの影すら見受けられない。涙の後もなく、精練された彫刻のような造形美は黄金比の力を借り、美を体現する。そこには弱い自分など清水仙太郎の姿などはなかった。
――行き届いていたのだ、悔しいまでにどこまでも。
この時、美少年は悟った。
鏡とは自分を映す反射材など、ちんけなものではない。異世界を映し出し、繋ぐ無色透明な扉なのだと。この考えはけして突拍子でも異端なものではない。通文化的に世界各地に存在するものである。異世界とは、天国、地獄、バルハラ、シャンバラ、シャンデリア。この際説明がつくならなんでもいい、これは論点ではないのだ。美少年が――僕が言わんとすることは、鏡に映るのは、自分の似姿であり自分ではない。この一点のみだ。
そもそも鏡には左右逆転、詳しくいえば前後が逆転して映るという欠陥を持っている。これはただの摂理という言葉で片付けていいのだろうか、否! 断じて否!
自分が映っているというより鏡の向こう側からこちらをみているといった方が説明として優秀なのではないだろうか。中学生の脳では光の反射などロマンの欠片もない科学的説明よりもこの方が飲み込みやすかった。
現に涙を流した弱い自分は鏡には映っていない、砂を拒まぬ大山のように、川を拒まぬ大海のように、あまりに大きな存在が包み込むようにこちらを微笑んでいる。
そこには自分が求めた理想の美少年が息をしているのだ。
――そして、僕は恋をした。僕にではない。鏡に映る美少年を静かに、されど熱く。いつかその御姿をこちらの世界で見つけるまで、永久の愛を鏡越しで育むと決めたのだ。
たとえ、一方的な片思いだとしても、だ。
決意新たに鏡を臨んでいると、不可侵領域の扉は呆気なく破られ敵の侵入を許した。
「死んでないよな太郎っ! ……よかった水洗トイレなんかで入水自殺してたら、泣いていいのか笑っていいのか、わからないよ!」
心配……していたのか、あの暴君が? いまいち心配が伝わらない第一声を受けこちらも反応に困るが、あの暴君の目に微量ながら水滴が見えるので一応心配していたのだと受け取った。そんな暴君の人間味を垣間見ると、先程生じた軋轢も水に流そうとも思えてくる。そこでこの少女に、誰よりも先に僕が悟った真理を授けることとした。これで気持ち悪いなど二度といえないようになるだろう。
「心配に及ばす、僕は相も変わらずイケメンだよ」
「……よかった。相変わらず日本語が通じないし、ナルシストだけど……生きてる」
少女の口からは心配と悪意が発せられるが、比率でいえばだいぶ悪意が幅を利かせていた。
「もうやめてくれ、ナルシスト呼ばわりは……だいたいナルシストの定義は自分自身を性的な対象とみなす状態だろう。僕はもう自分のことを性的な目ではみていないからな」
「へっ……ついに、ついにまっとうな道を歩き出したのか? ウチの言葉がそんなにも響いたのか? ショック療法が功を奏したのか?」
少女は信じられないと疑問を疑問で繋ぐ。その表情は心なしか喜ばしげに見えた。
「ああ、自分が美しいのというのは揺るがないが、自惚れるのはもう終わりだ」
「…………そうか、そうか、ついにか。遅すぎるぐらいだぞ」
腕を組ながらかみしめるように言葉を紡ぐ少女は、男子トイレだということも忘れすっかり長居をしている。なぜ喜んでいるのかは不明だが、紛いなりにも幼馴染が常道を歩き始めたことは喜ばしいのであろう。
いつも目を吊り上げている少女がご機嫌なところをみるとこちらも悪い気はしなかった。そんな感情がつい口を滑らす潤滑剤と作用し、要らぬことまで話してしまう。
「リンのそんな顔をみるのは久しぶりだな。その激レアな顔の拝観料に僕の好きな人を教えてあげるようかな。……特別だぜ」
この言葉に体の芯からびくっと反応した少女は、ただ一言を述べて静寂へと移行した。
「……自分では――ないんだよな?」
美少年は無言の首肯で答え、詳細は口で答えた。
「紹介するよ、僕が恋したのは――こちらの御方だ」
美少年の観賞用に作りこまれた左手は外旋運動を経て鏡へと向けられた。
手の先に佇む鏡は、同等の背丈を持った少女と閑雅な少年のみを映していた。
「うそ、でしょ――そんな……」
思いがけない美少年の挙措に、少女は前髪へ手櫛を入れた。
「……ほんとだよ、やっと見つけた真実だ」
改めていうと面映い、しかし、どこか心地よさも否めない。
少女は美少年を鏡越しに見ると、持ち前の目力を両目に込め、口を開いた。
「後悔は、しない?」
試すような言葉を吐くと少女は思いつめたような視線を鏡に送った。これにはもちろん、その覚悟に見合う言霊を込めて鏡越しに宣言した。
「ああ、絶対に、確実に――たとえ、触れられないとしても僕は鏡の向こうのあの美少年を恋に焦がれて、愛に愛すよ」
「そう…………えっ、はっ?」
少女は受け入れるような顔を見せた後、辻褄が天文学単位で食い違う声を上げた。折角いい雰囲気だというのに、少女に理解力が乏しいせいで台無しになってしまった。興を削がれた美少年は重ねて説明する気力もなく、最低限の言葉を残しその場を去った。
「なんども言わせないでくれ恥ずかしい。僕は鏡の世界にいるあの美少年が好きだ。──そうそう、結婚式には呼んであげるから心配はしなくていいよ。じゃあ、また明日」
――これが、僕が真理にたどり着いた全過程だ。
余談だが、その後日あの男子トイレの鏡が割られるという事件が起こった。真相は闇の中だが、あの日からリンの気難しい性格が加速したように今となって思う。
まあ、こんな詮無きことを蒸し返すほど僕は酔狂ではない。そんな遠い日の思い出はさておき今度は最近の記憶、今朝に時計を戻しそのひと時の説明に時間を割こう。
周知の通り今朝は別段変哲もない、ただ時間が少しばかりか余裕がない程度の始まりだった。学校への往路の途中、僕は楽器屋の前で足を止めた。――ここで参考までにいっておくと僕は楽器の類を一切嗜んでいない。それにこれから嗜むとしても管楽器だけは御免こうむる。
なぜ、頑なに管楽器を拒むのかというと理由は実に明快で、息を吹き込む楽器はどうしても音を出す際に顔を歪めてしまう。それが堪らなく嫌なのだ。先例を探せば古代ギリシャきっての政治家、軍人でもあった、かの美少年アルキビアデスも詩歌管弦に長けていたがこの理由から管楽器には口をつけていない。
ではなぜ、楽器に疎いものが楽器屋の前に立ち止まったのかというと、これも単純明快であり説明することもバカにするようで憚れるが一応、念を押すこととしよう。
僕が貴重な時間を割いてまでも楽器屋に立ち止まった理由は楽器などのためではない――それは、ショーウィンドウに映る美少年のために他ならないのだ! 別に楽器屋だから立ち止まったわけではない。ただ鏡の役割を果たすものがあれば、どんなに時間が切迫していても立ち止まることが僕の流儀というもの。さて、このことを踏まえ今朝の僕がした発言に移ろう。
「……やっぱりいいな」
これも、
「はあー、悩ましい」
これも、
「……美とは、常に新鮮な発見を魅せ続けるものに与えられる称号だよ。リン」
これも楽器に向けられたものではない。そう鏡の奥ではなく、鏡に映るそのものに向けられた讃辞であった。だからリンに「ナ・ル・シ・ス・ト」と謗られてしまったのだ。
しかし、仕方がない。他人からすればそのように見えてしまうことは、僕の短い人生経験からすでに答えがでている。──だが、リンには説明したのだから、不本意ながら幼馴染なのだから理解しても良さそうなものなのだが、スターリン相手にそう上手くいかないことも短い人生経験から答えが出ている。容姿に恵まれた僕の数奇な人生は、このような過去を取り込みながら高校二年の十月一日を再び回り始めた。
次話掲載
4/13 18:00頃




