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新渡戸の夜 稲造の朝  作者: 紫水ゆうじ
第7章 造景世界 ☯ 造景破壊
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後者 -委細承知-

「────はふっ! 夢ですか。……夢ですよね、そりゃ」


 三十日金曜日。祭りを明日に控えた今日は最悪の目覚めでした。開きづらいまぶたを擦りながらカレンダーを見ますがそこで納得します。今日は仏滅……悪いに決まっていますよね。


「なんだかまだお肌が痒いです」


 目の次は顔や首周りを掻きますが、これは物理的な痒さというより心因的な痒さです。夢の中で体中に湿疹ができ、皮膚が糜爛(びらん)しているのです。それはそれはおぞましい夢でした。


「清水君の身体になってからいい夢を見ませんね。以前の夢と何か関係があるのでしょうか」


 この夢も怖かったですが以前の大人の人が幻覚に苦しむ夢も怖かったです。あれですかね、前に清水君が星さんに皮膚病の話をしたからこんな夢を見るのでしょうか。これでも私は想像力が豊かですし、あの時は自分ごとのように考えさせられました。


「所詮、夢ですからね。たったひと時のものですから我慢すれば良いのです」


 現実に起こっているわけではないですし、心機一転、私は階段を下ります。そこで見慣れぬ女性の後姿を見つけます。どなたでしょうか。


「あら仙太郎。久しぶりね」


「すわっ、お久しぶりです」


 顔は見たことがあるのですが、記憶はこの方の名前を表示しません。綺麗な長髪の女性はとても疲れているご様子ですが、私の反応に笑みをこぼします。


「一ヶ月近く合ってないからって母さんに他人行儀はいただけないな」


 お母さん──清水君のお母様でしたか! 確か女手一つで清水君を育て上げ、職業は弁護士だとかで、家に中々帰ってこないと聞いていましたが、まさか一ヶ月も帰ってこないとは。


「頭が冴えてないもので……仕事はひと段落済んだの?」


「まさか、離婚の弁護なんて泥沼だから一筋縄ではいかないわ。ほんと離婚なんてする人の気持ちがしれないわよね……」


 清水君のお母様は、ため息をつくように語尾を弱め項垂れます。その意味を知っているだけに私もやるせないです。そんな思いから、私は不思議と手を添えていました。その行動に清水君のお母さんは疲れを忘れたかのように笑顔を見せます。


「仙君は天然の女たらしね。でも心に決める女の子は一人にしなさいよ。いっぱいいたって別れるのがつらくなるだけなんだから……泣かすのは一人の女性だけにしなさいね」


「……心得ておくよ」


 この忠告に私は、自分が未来、最愛の人の胸の中で泣いている姿を想像します。それはとっても嬉しくて悲しいことですね。夢を叶えたとしても私は、いずれ失うことになるのですから──。いえいえ、何を考えているのでしょう私は。それは悲観的観測に過ぎません。確率として無い訳ではないというだけです。第一、夢を叶えることすら私はまだなのですから。


 一人で考え込んで頭を振るっていると、清水君のお母さんは私の手を握り返します。


 そして、もう一言言葉をいただきました。


「仙君のお父さんは世界で一番かっこよかったんだからね。そして、私は世界で一番幸せなんだからね。その二人の子なのだから仙君も何か世界一になるものがあるわ。絶対にね」


 そういい終えると、お母様は忙しげに仕度を整え、家を出て行きました。素敵なお母様ですね。私のお母さんも負けてはいませんが、やはり子どもを育てる女性は総じて強いです。


 ところであのお母様と、私はどこであったのでしょうか。あのような素敵な方と出会ったことを忘れるわけありませんし。私は先程握った手を頭に持って行き脳に検索をかけます。そして、一件の検索結果が検出します。──私は脳を疑いました。


 しかし、考えれば考えるほど腑に落ちるものがあります。私はその疑念を晴らすためある場所へと向かいました。そこはベッドとタンス、姿見以外、何もない誰もいない部屋。私の頭の中で何かが繋がる音がしました。


「あの夢……私の夢じゃなかったんですね」


 私はタンスに向かい一番下から順に開けていきます。最後の引き出しを開けると、そこにはある古い和紙がありました。私は無作法にもその中を覗きます。そして、失語したまま丁寧にもとあった場所へと戻しました。


「……偶然ですよね──偶然ですよ」


 呪文のように繰り返し茫然自失のまま自室へと戻ります。鏡に映る私を見ないようにベッドに横になり目を瞑ります。


「どんな顔で清水君に会えばいいのでしょうか……」


 学校へ行くのを拒める勇気があれば、少しは気持ちも楽になるのですが、そのような勇気もありませんし、清水君に迷惑がかかります。私は茫然自失を癒せぬまま学校を終え、神楽舞の練習へと向かいます。そして、練習終わりの清水君と合流し、ちゃんと会話をできているかわからないほどに麻痺した神経を継続したまま今に至るのです。


「清水君、遅いですね……」


 ウサギを追いかけに行った清水君に、私は内心ほっとしました。今日は、今日だけは片時も離れたくないはずの清水君と、二人だけで過ごすのは気まずいだけでしたから──。私は神楽殿で一人、そのような複雑な気持ちに揺れていると茂みも揺れます。おそらく清水君です。彼の帰りを、私は今できる精一杯の笑顔でお迎えました。


「お帰りなさいませ。随分手間取ったようですね──と、あなたでしたか」


 取り繕った笑顔はすぐに形を崩し、困惑の色を浮かべました。なぜならその方は、想定の外から現れた方だったのです。


「久しいな。と、再会を喜んでいる暇ではなかった。藪から棒で悪いが兎角殿──このくらいの白いウサギの皮を被った爺さんを見なかったか」


「白いウサギさんでしたら清水君が追いかけて森に入っていきましたよ」


「それはまことか! まずいな、とって食われてなければいいが……」


「とって食われる? どういうことですか。清水君は大丈夫なんですか!」


 事態がまったく飲み込めません。私は怪奇現象の重なりから最悪の事態を想像します。


「とって食われることは冗談だが、あの方も興が乗りすぎるとやらかすからな。取り敢えず迎いに参ろうか。……そうそう、そなたにも来てもらうぞ。両人には話しておきたいこともある」


「わかりましたミコトさん。お供します」


 ミコトさんも冗談をいうのですね。それにしてもウサギを追っていることと、ミコトさんがウサギの仮面を被っていることは繋がりがあるのでしょうか。私は疑問を言葉にします。


「──先ほどいった兎角殿は余の上司に当たる方でな。この仮面は兎角殿のそのまた上司に頂いたのだ」


「ウサギさんが上司とは変わっていますね。で、ウサギさんの上司もいるのですか」


 ミコトさんはこの質問にポツリと答えました。


「月読命──三貴子に名を連ねる神妙豊かな夜と農耕の神だ」


 この答えを私は咀嚼し切れません。


「月読命!? ということは、兎角さんはその眷属、ミコトさんも神様ということですか!」


「いいや、兎角殿は歴とした神だが、余は月読様の慈悲深さと気まぐれから存在しているに過ぎない。それに根本的な〞神明の元〟となるものが、高がしれている」


 新井白石曰く「神明はひとの敬を受けて、その神威を増す」です。人の命敬を得られぬ神は死んでしまいますから──。そのことを踏まえるとミコトさんは……私は不器用な眼差しでこの儚い存在に送ります。すると、ミコトさんは影のかかった顔で話題を転じました。


「ときに、そなたは二十地蔵の話を耳に挟んだことはあるか」


「廃仏毀釈の折に、過激派が首を落とした話でしたら存じておりますよ」


「知っているなら話は早い。ではその話を細大漏らさず、清水家の呪いとの関わりを交えて話そうではないか」


「呪い……あの話と清水家の短命に関係があるというのですか!」


「二つは同心円をなしておる。……あれはそう明治三年のことだった──」


 それからミコトさんは明治の初めに起り現代まで続く呪いの委細を私に教えてくださいました。何か地方に伝わる伝承のようなものを感じましたが、私は疑うことを知りません。むしろ、それならあの家系図も清水君の家を取り巻く風聞も辻褄が合うというものです。


「そんなことが……では、清水君は二十には死んでしまうということですか」

「この場合は清水家の血肉でできたそなたに呪いは牙を向くであろう。最近、恐ろしい夢を見るであろう?」


「はい。綺麗な人が死に怯えて幻想を見る夢と自分が醜い姿で死んでいく夢を」


「うむ? 後者はこの呪い特有のものだが、前者はあずかりしらぬな」


「おそらく清水君が父親の存命中に見てしまった光景なのではないでしょうか」


 私の説にミコトさんは納得したようで、顎を撫でながら申し訳なさそうに仮面を揺らします。


「……それにしても、そなたも災難だな。我々の厄介ごとに巻き込まれてしまい」


「厄介ごとなんてそんな──この呪いを解く方法はないのですか?」


「無理だな。余は月読様にお慈悲をもらい、善行を積むことで地蔵に取り消しを願っておるのだが、我が子孫は儚く散るばかりでその種を残すことが精一杯だ。そして、余が奪い、余が与えた十年も、もはや消え失せた。手の施しようはないであろう」


 諦めは段階を経て諦観に変わってしまったようです。呪いの根源であるミコトさんいえ、仙さんは、少なくとも百年単位で身体を失いながらも意識を保ち、足掻いてきたのでしょう。自分のせいで先祖に迷惑をかけた、と。ですが、私にはいいたいことがあります。


 ミコトさんが死んでから何年生きたかは知りません。その数だけ足掻いたことも知りません。ただあなたの蒔いた種が儚くも咲き繋いだ結果、私が見初めた事実。安い言葉でいえばこの〞奇跡〟、たとえ実を結ぶことなく散ることが決まっていたとしても、まだ足掻いてもいない私の前で決定付けないでもらいたいのです。──私はまだ足掻かせてもらいます。


 そう紡いだ私の固い意志は口を通じて言葉に変わることはありません。そんな口下手な私の舌に代わり、私の目は雄弁にミコトさんへ抗議します──少なくとも私はそのつもりでした。


「おいおい、そんな怖い目でこちらを見ないでくれ。それよりも仙太郎を向かいに行こう。おそらくこちらだろう……」


 仮面に穴が開くほど見つめましたが、どうやら以心伝心に失敗したようですね。しょんぼりと下を向きながらミコトさんに追随する私は少し距離を開けたまま足跡をなぞりました。


「……やれやれ、不幸中の幸い。我が一族は女だけには恵まれるな」


 なにやらミコトさんが呟いたようですが、足元の落ち葉が声を上げ、この声を私の耳には届けません。秋の悪戯ですね。


 ミコトさんの足跡をなぞること数分というところでしょうか。ミコトさんは歩みを止めると穴を覗くように首を伸ばします。そして、「おった」という声を上げると、森は異様な静けさに包まれます。何事かと驚くのもつかの間、今度は寒気が身体を舐めました。思わず腕組で身体を守ると、私は青い光が前方から発せられていることに気づきます。ミコトさんでした。ミコトさんの身体を覆う澄み切った水のような気は、力と姿を変えて穴から何かを救い出しました。


 ──少女、少女です。冷え切ったかのように縮こまった小柄の少女です。いえ、私、私でした……正しくは私の身体の清水君というべきでしょうか。


 突然の神がかった力を前に、突然現れた清水君に、私は大きく思考を乱してしまいました。


 しかし、本当にミコトさんは神様に近しい存在だったのですね。私の乱視の入った目ではなく、この涼やかで良好な目を通して見たのですからその信憑性もひとしおです。驚きもつかの間、私は救出された清水君の様子に大変な危機感を覚えました。それは雨ざらしの箱の中で震える子猫のような儚い命の灯火、とでもいうのでしょうか。――私は清水君の元に駆け寄りました。


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