前者 -運命-
「もしかして僕の純情な本能を弄んでるな。そっちがその気ならこっちにも考えがある。あと三歩歩いて触らせてくれなかったら僕はもう戻るからな。いいか──いーち、にーい」
ウサギの大きな耳へ聞こえよがしに僕は呟いた。これを聞き取ったのか、ウサギは耳をぴくんと動かし歩みを止める。チャンスとばかりに、僕は最後の一歩で飛び跳ねた。
「さーん!」
着地地点はウサギの少し手前。滞空時間は二秒というところだろうがウサギに逃げる気配はない。捕らえたっ! 僕の手がウサギの毛並みに触れる。そして、僕の足が地面を捉えた時、僕の視界は乱れた。落ち葉が積まれた地面は僕の体重を支えきれず、万有引力の理どおりに地の底へと落とされてしまった。……これが運命の悪戯の二段階である。
「…………いてて、ひどいなもう。──と、メガネメガネ」
ジャンプの滞空時間より落ちる時の滞空時間の方が長かった。外れたメガネを拾い装着して上を見上げる。案の定、木々の合間から見える空は高く、それどころか地面すら手が届かない距離にあった。
「三メートル弱というところかな。……はあ、どうしてくれるんだ」
僕は目測で地面との距離を測り、膝の上の温もりに責任の所在を問う。しかし、当然のように返事はない。
「落ち葉があったから助かったもの、結構危なかったんだからな」
幸い身体に別状はなかった。僕は力任せに膝の上のものを撫でる。すると、ウサギは不満を垂れた。
「手荒いぞ。もっと優しくできんのか」
「……うん? ウサギの鳴き声って聞いたことないけど、こんなんなのか」
穴に響くのはやけに渋く、初老の威厳に満ちた鳴き声であった。
「ウサギに声帯はないわ、馬鹿者! まったく、そんなこともしらんのか」
「へっ──うわあー、化け物っ!」
僕は膝の上からウサギを跳ね除け臨戦態勢に入った。いわゆる完全防御体勢だ。
「この兎角を化け物のような下賎の輩と一緒にするとは……命しらずだの。──我輩は神だぞ」
「──神だと! じゃあなんだあんたが月読か?」
「だから兎角だといっておろうに! 分からぬ奴だな。我輩は月読命より永遠の命を授かった不老不死の兎。日本の兎は全て我輩の血筋だ。どうだ、その命さを理解したか」
「不老不死といっておいて、なんだか老けた口調だな。そのうち死ぬんじゃねえの」
「ほほう、神を侮辱するか。その意気は良し。だが自惚れるなよ。お主の命など我輩の前では塵も同じよ」
不老不死を得た者は総じて老人の姿をしているのはなぜであろうか。不死は嬉しくても不老に関しては意味を成さないだろうに──。僕の冷ややかな目線に兎角は赤い瞳がきらりと光らせた。脅しのつもりだろうが僕には無意味だ。なんせ僕は神を信じていないのだから。
「神様ならこの状況を打開してくれよ。埃っぽい光も乏しい場所に長居はしたくない」
「それもそうだな。我輩もこのような場所、ねぐらとして以外に長居しとうない──」
兎角はそういうと軽やかに跳躍した。その跳躍たるや重力を無視するかのように、数秒のうちに地上へと出てしまった。そして、見下ろしざまに兎角はいった。
「──どうだ、これで信じたか」
「ああ、凄いな。じゃあ、僕もこの場所から──」
正直喋った時の衝撃の方が強かったため、三メートルの跳躍をしたところで評価は変わらない。凄いウサギといったところだ。だが、この場所から出ることができるのならウサギの手でも借りたい。
「出してやるのは吝かではない。しかし、このような舞台を用意した我輩の苦労も考えて欲しいものだ。……少し話をしようではないか」
「なんだお爺ちゃん。話し相手が欲しかったのならいってくれれば良かったのに。わざわざこんなたいそうなことをしなくても──」
「我輩の心配りが分からんとは、だからお前の一族は早死にするんだ」
兎角の一言で空気が変わった。兎角の一言は僕の全てを引き締める。
「……おい、もう一度いってみろ。ウサギ風情が……その目障りな耳へし折るぞ」
「怖い怖い。さっきまでかわいいと追いかけてきたというのにどういう心変わりだ。呪われた一族は野蛮で困る」
「──おいっ、降りて来い! ふざけたこといってんじゃねえぞ!」
兎角の挑発するような口ぶりに僕は全力でその喧嘩を買った。自然に語気も荒くなる。
「人間風情が、怒る相手を間違っているであろう。別に我輩がかけた呪いでもないというのに」
「──お前、なんか知っているな……知っていること全部話せっ!」
「頼む態度ではないな。そのような礼儀しらずに話す義理もなし」
兎角は僕を見限るように穴から遠ざかる。当然だ、兎角のいうことは正しい。だが、僕が知りたかった清水家の奇妙で不可解な早世の謎。口々に囁かれる呪われた血筋という汚名。食習慣でもなければ見当たる節もなく、医者いわく「遺伝的な何かだろう。しかし、理由はとんと分からない」。現代医療ですらお手上げの奇怪な呪いじみたこの謎の手がかりが初めて尻尾を出したのだ。激情を抑えろというのが無理な話だ。
我が家ではこのことは禁忌中の禁忌で口に出されることはまずない。だがやんわりと親から、僕は早死にするかもしれない、と聞かされている。父も死期を悟っていたかのように身辺の整理を終え、僕に言葉を残して逝った。
「最愛の人を見つけなさい。一人じゃ死ぬ時、寂しいだろ」
と、最期の父は弱った様子もないというのに死んでしまった。ただ夜を除いては──。
この時、父は三十歳。僕は十歳であった。慌しい葬式の中、僕は父の書斎のタンス奥に仕舞われた古い和紙を見つけた。明治より書き記されたその書物。形式から家計図と見受けられる。好奇心から手に取ったその家系図は、実に恐ろしい清水家の法則を如実に表していた。
なんと……六代前の先祖から父を含めて合計七代、全員三十歳の若さで死んでいるのだ。
遺伝としてこの件を処理するにはあまりにできすぎていた。
これが呪われた血筋と言われる所以である。だから僕は、この件から遠ざかりながらも原因の究明を求めていた。死ぬのが怖いとかではなく、喉が激しく渇くような飢えの感情がそうさせるのだ。僕は兎角がいなくなったことを承知の上で言葉を発した。
「──お願いします。全てとはいいません。僕に、知っていることを教えてください……」
空を仰ぎ天界に向けられたこの願いに神はこう答えた。
「今宵は月が映える。遠い故郷に思いを馳せ聴き手のいない昔話をしよう。──あれは明治三年のこと。倒幕から日を跨がず日本は気勢に満ち溢れておった。その中で出された『大教宣布』は二年も前に出された『神仏判然令』と結びつき、神道が日本唯一の宗教であると日本人は激しく異教を弾圧することとなる。……それは日本に根付いて久しい仏教も例外ではなかった。
神仏習合、本地垂迹説と二つを一つとする政策が永きに渡って受け継がれてきた日本に起こったこの青天の霹靂は、昨日まで手を繋いできたことを忘れたかのように両者を引き裂いた。寺院を廃し、仏像は壊され、坊主は髪を黒々と……日本の地から仏を追い出したのだ。──後の世に廃仏毀釈と呼ばれるこの一件、一年後には終息に向かうが、それでも数年は余波が仏にはつらい生活を余儀なくさせた。
その動乱の時代に生き、その動乱とともに死んだ人間を一人、我輩は忘れられない。名は仙と申した。色白の目鼻が整った心優しい人間であった。そやつは日本古来の神を信じ、神の導きにより最愛の人間と最愛の子を宿し、至極普通で至高の時間を送っていた。齢はこの時、弱冠。この罪なき若者を神仏判然令および大教宣布は鬼に変えてしまった。日本古来の神の加護で自分がこの幸せを賜っていると強く信じていた仙は、異教をことごとく壊し焼き払った。この町には寺がないだろう? それは仙の爪あとだ。……もちろんこのような大それた行為、神々が見逃すわけもない。仙が廃仏毀釈の最後に手をつけたこの森の二十地蔵は仏の中でも霊力の強いものであった。その二十地蔵の首を全て落とした暁に仙は恐ろしい呪いをかけられたのだ」
僕は見えぬ兎角の語りにごくりと生唾を飲み込んだ。
「──それは仙の子孫が代々、二十までしか生きられない〞薄命の呪い〟だ」
「二十歳までしか生きられない!? 馬鹿な家系図によれば七代全員三十までは生きている!」
「話は最後まで聞け……仙はこの呪いの取り消しを懇願した。『やるなら自分に呪いをかけろ』とな。しかし、その願いは聞き遂げられず呪いは仙ではなく、後の子孫に永続的な短命の呪いとして成立してしまったのだ。悲しみに暮れる仙に地蔵らは一つの救いを提示した。『残りのお前の寿命を先祖に割り振ることぐらいなら許してやろう』と。その案に飛びついた仙は己の残りの寿命を地蔵に尋ねた。地蔵はこれに『残り七十年』と答えた。この残りの寿命を、仙は七代先の先祖に十年ずつ分け振り、自らはその三日後に死に絶えた。一歳になる息子と愛する妻を残してな。……気づいていると思うがこれはお前の祖先だ。どういうことかお前に分かるか」
「二十では子を、祖先を残せない可能性があるから、十年を割り振って血を繋ごうとした?」
「我輩が言わんとするところそこではない。お前が仙から八代目だという事実だ……」
「えーと。つまり残りの七十年が切れたということだから……僕は二十までしか生きられない」
「そういうことだ」
「僕は今、十七だから──あと三年しか生きられないというのか……」
「ご名答。我輩がお前をここに呼んだのはそういうことだ。残りの短い人生を謳歌してくれ」
突然知りえた真相に僕の思考を停止させる。覚悟はしていた。早世の清水家に生まれたんだ。だが二十は、あと三年はあまりに短すぎる。嘘なら嘘といってくれ……僕はまだ死にたくはないんだ。──死の淵に立たされた僕は恐怖に身を震わせた。そんな僕を知ってかしらずでか、兎角はこんなことをいい出した。
「だがお主は幸運だ。このままいけば死なずで済むかもしれん」
「それは本当なのか! どうすればいい。つらいことでも何でもするから教えてくれ!」
突然足場が崩したと思えば、神は救いの道も用意していたのだ。僕は神から垂らされた糸に必死の形相で掴まった。それを見計らったように兎角は言葉を落とした。
「なあに、簡単なことだ。このまま何もしなければいい」
「何もしなければいい……どういうことだ。──まさか、すでに地蔵の呪いは解けているのか!」
「いや違う。なぜならお主はもう……清水家の血は流れておらんだろう」
「……おい、それってまさか」
「ご名答。呪いは清水家男児の血に流れるもの。今の継承者は、秋葉のところの娘であろう」
神は救いの糸をこの暗く埃に満ちた穴へと垂らした。いや違う、もうすでに掴ましていたのだ。僕の大切なものを代償に。
「ふざけるなっ! 入れ替わったままでは桔梗がかわりに死ぬというのか!」
「死にたくないといっておったくせに、生き残れるとなると威勢が良くなるの。それに何度も申すが呪いは我輩がかけたわけではない。知っているから話してやっているだけだ」
「何が知っているからだ。ウサギが何を知っているというんだ! ──そうだ、これは夢。ただの悪夢だ。今までのことは全て嘘偽り。ウサギが喋れるはずもない。三メートルも垂直に跳べるはずもない……神なんかいるはすがないっ!」
思えば今起こっていることはどれも現実味を帯びていない。あの呪いの話も鵜呑みにするほど有り得る話しではないのだ。
「……時間は三年もあるんだ。その間で考えるのだな。それにじっと何もしなければ生き残れるのだ。こんなうまい話はない」
声の主は気配を消した。ほっぺたを強くつねる僕は赤くなる肌をよそにその力を強めた。
「…………現実だ、現実なんだ。僕はどうすれば──助けてよ、父さん」
僕は膝に顔を埋め考えることを止めた。答えなど出そうになかったのだ。
次話掲載
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