前者-舞-
人生八十年が当たり前になった現代で、時間の価値は薄れているような気がする。現にこの一ヶ月は濃すぎる密度で展開されていたのに、数えるところあと一日で終わりなのだから。濃すぎる密度といえば、その濃さは桔梗と過ごした時間ともいえる。家族以外とこれだけ一緒に過ごしたのは生まれて初めてだ。というより交友関係自体を軽んじていた。
そんな僕であったが思えば交友関係は数こそ少ないが種類には満ちていた。リンは幼少期からの腐れ縁で暴力的だが、自分を偽らないで接することができる。頼仁は都合のいい人間としてだけではなく、命敬の念に似た何かを覚える。
このことを思うと僕は交友関係が少ないというより、僕に合う人間がこの狭い世界ではこいつらしかいなかったのではないか、なんて仮定すら生まれてくるのだ。
……残り少ない人生。このことに今気づけたのは僥倖だったのかな。
──十九日から始まった神楽舞の練習。神楽舞自体はそこまで難しいものではなく、振り付けも派手な動きのところはない。しかし、練習は難航した。
指導は秋葉さんが受け持った。練習ともあって装飾のない巫女装束で手本を見せてもらったのだが、その荘厳な美しさたるや言葉さえ憚られ、演技後の拍手でその美を僕らは賞賛した。もう僕ら素人より、秋葉さんが本番も踊ればいいのじゃないのか、といったら秋葉さんは「この年で乙女はちょっとね……」と笑って見せた。
月下神社の神楽舞は八乙女と呼ばれる八人組の巫女が出雲の地により帰参した月読命を迎えることを目的とし、月下祭最大の見所だ。この時、境内に出揃った出店の店主たちすら、商売を忘れ店もなおざり神楽舞に酔いしれる。
それだけに月下祭の成否はこれに掛かっているといっても過言ではない。過去最高の祭りにすると息巻いた僕は、わき目も振らず燃え尽きる覚悟で望まねばならないのだ。
「では経験者の方と初めての方に分かれてください。経験者の皆さんは思い出しながら自主練習をしていてください。初めての方から手ほどきしますので──」
秋葉さんの右側にモモ、宮村部長が移動する。左側には僕、リン、頼仁、虫A・B・Cが移動する。そこで秋葉さんが一言。
「あら、経験者が五人も。頼もしいわね」
「いえ、左側が未経験者です」
「……桔梗さんは未経験だったかしら?」
「この前、頭を強く打って神楽舞のことはすっかり忘れてしまいました。……あれ、ここはどこですか? 僕は誰ですか?」
「……ほんとのようですね。では練習を始めましょう。ビシビシいきますからね」
頭をくらくらと不安定に振るうと、秋葉さんはそれ以上追及せずに練習へと移った。僕の演技力の勝利なのか、秋葉さんが桔梗と同様に天然なのか、優しさなのかは分からないがやってみるものだな。
そんな僕の小芝居からは始まった練習は先ほど述べたとおり、予想に反して難航となった。簡単そうに見えた踊りは、自分が踊ってみるとうまいようにいかない。元来、神楽舞とは格神社で微細な違いがあり、口伝のため教科書となるのは先人の動きと指導のみ。四拍子の聴きなれた和楽器の調べに合わせながら、上流から下流へと流れる水のように自然な動きを追求していく。自分ではうまくできていると思っても指導官は首を横にしか振らない。
「まだ踊らされています……」
この言葉に桔梗の父を思い出す。あの礼儀作法の話だ。あの金言はここにも繋がっていたのだ。そう思うと不思議と力とやる気が湧いてくる。それから二日をかけて舞の形を整えると、何とか見れるほどにはなってきた、と指導官から最低限のお褒めの言葉を頂いた。しかし同時に、新しい宿題も出された。
「これが『豊栄の舞』。この他に月下祭りでは『悠久の舞』『浦安の舞』この三つを披露します。それら三つの舞を、扇を使ったものと鈴を使ったもの二種類を覚えてもらいます。豊栄の舞で手間取っている暇はありませんよ」
笑顔でこのことを告げる、やわらかな仮面を被った鬼教官。
僕たちは自然な笑顔で笑えなかった。
──一週間と数日。この二週間弱の修行の成果は、僕たちに五百年の歴史を植え付けた。先人から代々受け継がれた伝統がまた新しい世代に渡ったのだ。
「二週間ご苦労さまでした。まだ完成には至りませんが恥ずかしいできではないでしょう。本番では舞ごとにお色直しもありますから楽しみにしてくださいね」
もはやこの言葉を聞いている者はいなかった。音楽の停止とともに身体は休憩を求め、音楽の開始とともに身体は動き出す。ちょうど交感神経と副交感神経の関係だ。
「祭りを明日に控えましたので今日はこれで休みとします。しっかり身体を休めてくださいね。ああ、そうそう夜中の八時から前夜祭がありますからご家族と相談の上、参加してくださいね」
「「「お疲れ様でした」」」
今日は金曜日。学生にとって、この日の六時間目のチャイムが鳴り終わることは、自由への招待状。しかし、僕たちはチャイムが鳴り終わると、一週間の疲労が居座る身体を引きずり月下神社にて神楽舞と勤しんでいた。祭り前夜ともあり練習自体はおさらいだけであったが、困憊した身体にはそれでも厳しいもの。お疲れ様でした、これは本音中の本音であった。
僕は疲れた身体に鞭を打ち、練習場の入り口へと向かった。待っている人がいるからだ。
「待たせたな桔梗」
入り口で待っていたのは見慣れた美少年。僕の存在に気づくと笑みを返してきた。
「あ、ご苦労様です」
どこか上の空で憂いを含む美少年。今日は学校の時からおかしかったがどうしたのだろうか。確かに憂いを含んだその横顔もまた素晴らしいものであるが、元気がないのは僕としても気になるところだ。
「なにかあった?」
「いえ、ただの寝不足で……すいません。ですが清水君の舞はちゃんと見ていましたよ。九才の頃より舞っていた私よりずっと存在感がありますし、何より綺麗です」
「なんせ僕だからな。あふれ出るものがあるんだろう」
賞賛には謙遜でなく自賛で返すのが僕の流儀。桔梗の身体になったところでそれは変わらない。二人で笑いあったところで僕たちは目的もなく境内を歩き出した。
「明日が祭りって早いものだね。まだ青かった木々も祭りに合わせたかのように真っ赤だ」
「いつもこの時期に紅葉は最盛期を迎えるのですよね。ですが私には長すぎるくらいの一ヶ月でしたよ。夜は眠れませんし朝は起きられませんし……」
「僕の身体は寝起き悪いからな。それに比べて桔梗の身体は、夜はすぐ眠くなるし、朝は鶏の鳴き声でおもしろいくらい起きられるからね。──ははは、なんとかならないかな鶏の鳴き声」
もう少し眠りたくても身体が条件反射で起きてしまう。僕は乾いた声で語尾を沈めた。
「ふふふ、鶏さんの鳴き声は勘弁してあげてください。鶏さんは進化の過程で夜に目が見えなくなってしまったのです。朝鳴くのは天敵からの恐怖に開放された喜びの声なのですよ」
「天敵ってキツネとか? 現代なら人間の方がよっぽど天敵でしょ。勝手に卵とっていくし」
「では鶏が朝鳴くのは人間の襲来を嘆いているということですか。なるほど辻褄が合いますね」
素直な桔梗はすぐに人の話を信じる。それがおもしろくてついついからかってしまう。
目的もなく紅葉に染まる広い境内を歩いていると、境内で一番華やかな場所へと着いていた。
「明日はここで舞うのか。見物客ちゃんと来るかな……」
「清水君らしいですね。緊張よりもお客の入りを心配するなんて」
「緊張なんかするものか。二週間とはいえ半端な練習はしていない。それにこの僕が舞うんだ」
神楽殿は拝殿の古色蒼然とした雰囲気とは異なり、歴史がある中にも古さを感じさせない。ライブ会場のような芸者を際立たせる光さえ感じさせるのだ。
「歩いてばかりは疲れるので少し腰掛けませんか」
練習の疲れに足が重い僕を労わったのか、桔梗は自然な流れで座ることを促した。言葉に甘え僕は神楽殿の縁に腰掛ける。そこで思わぬ発見をした。
「なあ桔梗、屋根に八つの穴が開いているぞ。ネズミにでも食われたのか」
桔梗は僕の指先を見ると静かに笑い、含みを持った言葉で答えた。
「さすがのネズミも器用にあのような穴は開けられませんよ。天気予報で今日はお天気といっていたので外したのでしょう」
「外すって何を?」
「あそこには月型の細工が施されていて外せるようになっているのです。なぜそうなっているのかは明日のお楽しみですね」
よく分からなかったが明日のお楽しみと言われてはこれ以上聞くのは野暮というもの。僕は神楽殿の周りに配置された篝火を見ながら、祭りの気運が昂っていることを肌で感じた。
「──あれ、あの白く動いてるのって……ウサギ、か」
ゆっくりと流れる時間に気持ちを落ち着かせていると、僕の視界に白いウサギのようなものが映った。そういえば僕が森に入った時にもウサギを見たな。
「そうですね。裏の森には野ウサギさんが住み着いていますから。ウサギさんといえばうちの神社の入り口を護る眷族も月読命から取ってウサギさんなのですよね」
「あの鳥居の横にあるウサギの像のこと? 月読とウサギは何の関係があるんだ」
「月ではウサギさんが餅をついていますからね」
「そんな理由なのか! もっと高尚な逸話とかは──」
「ありませんよ。いいじゃないですか、かわいいですし」
かわいいってだけで納得ができるか。それなら女性の横顔とか、カニを狛犬代わりにしてもいいってことになるだろう。しかし、今さら僕が何をいったところで悠久の歴史の流れを止めることはできない。そんな無駄なことに時間を割くより僕にはやるべきことがあった。
「ちょっと待ってて桔梗。僕は本能の赴くままあのウサギをもふもふしてくるから……」
「本能なら仕方ありませんね。頑張って来てください」
桔梗は話が早くて助かった。僕の手がさっきからあの毛並みの艶やかなウサギを求めてうずうずしていたのだ。ほんとに小動物とは罪作りな生き物だ。
「──よーしいい子だ。そのまま動かないでくれよ」
忍び足で近寄る僕に小ぶりな尻を向けるウサギは警戒心が皆無だ。なんとか間合いに入った僕は静かに手をのばす。……しかし、これは空振りに終わった。僕をあざ笑うかのように後ろ足をバネに跳ねるウサギは、赤い瞳を流しながら森へと入っていった。
「ははっ、僕から逃げられると思っているのか」
この程度で諦めるはずもなく僕は森へ足を踏み入れた。それが運命の悪戯だともしらないで。
森へ足を踏み入れたのはあの日以来で、正直良い印象を持ってはいない。森というよりあの奇妙な二十の地蔵に対してが、正しい心境だが……しかし、僕が今回森へと入った経路は前回とは違う。神楽殿真横の森からだから間違ってもあの場所にはたどり着かないだろう。
それにしてもあのウサギ、中々間合いを縮ませないな。
よく見るとあの時のウサギと同じように見える。ウサギは僕との距離をぎりぎりに保ちながら森を進む。これは逃げているというより誘っているといった方が正しいのかもしれない。なぜなら僕が何度か諦め踵を返すとウサギも足を止め僕に近づいてくる。そして僕がウサギに向きを変えると、再び絶妙な距離を保ちながら森を歩き始めるのだ。
次話掲載
4/28 13:00頃




