前者-パ行四段目の天使-
「待てっ! まだ聞きたい事が──」
「──なにー? 何でも聞いていいよー」
「お前っ、出ていったんじゃなかったのか」
血相を変えて扉を開くと、目の前にはモモが待っていた。入り口が開いているところを見ると、モモは一度扉を開けてから、また個室の前に戻ったのだろう。これはつまり、僕を個室から引きずり出す罠だったということか。
「どしたのー、何でも聞いていいんだよー」
仮の秋葉の身体より目線一つ上の少女は、曇り模様の瞳でそう告げる。セミロングの髪と血色の良い肌色から健全な雰囲気が似合う少女だがなにを履き違えたのか、少女はいびつで陰鬱な雰囲気に包まれていた。まるで、満たされない感情を良しとしているような、報われないことを楽しんでいるような、あまりに倒錯的な幻覚を自ら好んで罹っているかのような。
故に恐い。僕の考えがまったく及ばないこの人間が、僕のことを病的なまでに恋していることが、戦慄を覚えさせるのだ。
だから、モモとの息がかかる距離は、精神衛生上よろしくない。今にも逃げ出したいが、逃げ道などなく、今回は逃げるわけにもいかないのだ。衣服の隙間に汚泥を流し込まれたような不快感のさなか、僕は初めて彼女の目を見ながら会話を交えた。
「どこまで知っている。誰から聞いた」
「何でも聞いてとはいったけど、何でも答えるとはいってないよねー」
──なんだこいつ。
「言葉遊びをしたいなら後で付き合ってやるから、いまは質問に答えろ。……まさか、あの場にいたのか」
「あの場って、どの場? いってること、わっかんないなー」
にやけ面を維持したまま話を進めるモモは、いかにも何かを恍けている様子だ。
「恍けるな! 月下神社裏手の泉のことだ」
「あー、それのこといってたのー。じゃあ、ちゃんといってもらわないと、モモわっかんないよー。モモは、〞桔梗ちゃん〟のママじゃないんだから─」
わざとらしく強調した秋葉の名前。これで確信した。モモは、知っていると。
しかしそれならば、こいつは何が目的なのだろう。僕を脅し、何を求めるのだろう。
まだ脅すと決まったわけじゃないが、味方とも思えない。何より、こいつは僕のストーカーだ。最悪、この秘密を餌に、あんなことやこんなことを要求されるかもしれない。……考えるだけで身の毛がよだつ。
「なあ、このこと秘密にしてもらえないか。……何でもとは言わないけど、できることならできるだけするから」
「秘密って? ちゃんと〞桔梗ちゃん〟の口からいってもらわないと、わっかんないよー」
どこまでも白々しい。苛立ちは積りに積もるが、立場的にこちらは下手に出なければいけない。なんせ、この秘密をばらされることによってこうむる不都合は想像に難くない。周囲への面倒な説明はいうまでもないが、秘密機関によって身体をいじられることすらありえるのだ。
そして何より、ミコトがいっていた言葉が気にかかる。
『他人にしられた暁には、何が起こっても責任は取れんぞ』
これは明らかに、ばれたことによって呪いが掛かるとか、元の身体には戻れないとか、そういう超常現象が起こることを示唆している。もっとも、こんな眉唾な話を信じる変わり者も少ないとは思うが、僕の目の前には、超一流の変わり者が置かれている。こいつなら難なく信じるだろうし、もうすでに飲み込んでいる可能性すら濃厚だ。
僕は一縷の期待を持ち、モモにこのことを黙ってもらえるようお願いすることにした。
「……だから、僕と秋葉が入れ替わったことを誰にも言わないで欲しいんだ」
僕はその言葉の後に頭を下げ誠意を見せる。そんな僕を哀れに思ったか、モモは「頭を上げて」と肩を叩き、満面の笑みでこの言葉を述べた。
「まさかとは思ったけど、入れ替わっていたなんてねー。これで合点がいったよー」
「……えっ? まさかって、入れ替わっていたことをしらなかったのか!」
衝撃的であった。
「そりゃー、普通の頭をしていたら、入れ替わりなんて計算にいれてないよー」
お前は普通の頭をしてないだろ、とつっこみたいところを我慢し、僕は先程の意味ありげな会話のことを問いただした。
「だって、〞本物〟の桔梗ちゃんなら──とか、僕にいってきたじゃないか。そんなの本人に向かっていう言葉じゃないだろう」
「なんか今日、二人の様子がおかしかったからさー。スイセン様が中庭でお弁当を食べる時、いつもならおかずから手をつけるのに、今日はご飯から。歩く時に、いつもなら左足に比重をかけているのに、今日は両足というか腰を使って安定した歩き方をしていた。これは、桔梗ちゃん特有の歩き方をだからねー。後、スイセン様が脇の髪をいじる回数が多かった。それも桔梗ちゃんのクセ。いつもは取らないノートを今日は取っていたし、ノートを取る際、先生が全体を書き終わってから一気に写していた。この消しゴムをあんまり使わないやりかたも、桔梗ちゃんらしいよねー」
「ちょっと待て、昼休みの話はわかるが、授業中のことをお前がなぜわかるんだ。お前は、隣の二年D組だろ」
「羽嶋君にお願いしているからねー。観察とたまに撮影も」
「……あの、何でも屋め!」
頼仁の一日は寝ているか、人の頼みを実行しているかの二つに一つ。僕もたまに頼みごとをしているため強くはいえないが、なぜ無償であそこまで人の頼みを聞けるかは謎だ。
「それと、両手を腰の前に持ってくる『叉手』をスイセン様がやっていて、桔梗ちゃんがやっていなかったのもおかしいし、二人で歩いてる時、いつも一歩後ろを歩く桔梗ちゃんがスイセン様の前を歩いているのがおかしかった。あと、スイセン様がトイレの時、いつもなら紙を縦に二回折ってから──」
「──ストップっ! お前の洞察力は認めよう。しかし、最後の方はおかしいんじゃないか。てか、お前はどこまで知っているんだ」
「好きな人のことは、なんでも知りたいものなんだよー」
おそろしい、この洞察力。おそろしい、この倒錯愛。
何より、こんな奴に入れ替わりのことを漏らしてしまったことがおそろしい。
「つまり、怪しいと思っていたが、その正体がわからないから鎌をかけ、まんまと聞き出したということか」
「とんでもない。勝手にスイセン様が告白しただけだよー」
虫も殺さぬような顔してこの手練手管。いろんな意味で嫌や奴をこの奇怪なでき事の内側に引き入れてしまったことを心底後悔しながら、僕はモモと再度交渉を始めた。
「モモは僕のことが好きなんだよな。──取引をしないか。この秘密を誰にも公言しないなら、秋葉に僕の身体を使って頬にキスをさせてやる。どうだ、これ以上ない褒美だろう」
正直にいえばそんなこと、断じて許容できる範囲ではない。僕でさえ、まだあの見目麗しい唇とキスをしていないというのに。だが、背に腹は変えられない。なんとかして、僕がファーストキスの舞台に上り、挨拶程度のキスをあいつに不本意の極みながら恵んでやる。
秋葉の思惑抜きでそんな苦肉の策が始動するが、そんな不誠実をモモは潔しとしなかった。
「それはモモ、好きじゃないなー。心がないキスなんて、無価値だよー」
「いってくれるな。だが、どうせお前も僕の顔に惚れたんだろう。心なんて添え物に過ぎない」
「違うよー。モモは、肉体と精神、この二つに恋をするんだー。片方が欠けてしまったら、千年の恋でも冷めちゃうよー」
彼女は抜けぬけと、リンや秋葉のように心が大事だとほざく。いや、それとも違うか。
モモは、肉体と精神、この二つ揃って一つとする新説だ。なるほど、わからんでもない。だが、それは贅沢というものだ。どんなに整った顔であっても、どんなにできた人間であって、もう片方が欠けていてはいけないとは。
それはエゴであるし、真理と呼ぶには拠り所が曖昧で、決定的なものがない。
僕はこのような半端ものが一番嫌いだ。よって、リンにしたように、論破を許さない議題でモモのあやふやな真理を完膚なきまでに潰すこととした。
「なるほど、とても勉強になったよ。お礼に僕からもいいことを教えてやろう。『メラビアンの法則』って知ってるか」
「しらないよー」
──かかった。
「じゃあ、概要だけ。この法則はコミュニケーションにおいて、なにが相手の態度や感情に影響するかの実験から導かれた法則で、他にも『3Vの法則』『7―38―55のルール』とも言われ、3Vとは〞言語・聴覚・視覚情報〟の頭文字を取って付けられた。もう一つの数字の羅列は、その外部取得情報の優位性を割合で示したものだ。これを適用すると人同士のコミュニケーションでは話しの内容、つまり人間としての中身は7パーセント。大げさだが人の九割は見た目に重きを置くということが研究によって分かっている。……わかっただろ。外見を本能的に気にする生き物なんだよ。心なんて、たったの7パーセントの添え物なんだ」
モモがこの法則をしらないといった時点で、僕の勝利は確定されていた。心が大事なんてそんな感情論、権威的な法則を前にすればいとも簡単に無に帰すものだ。だいたい恋なんて、一目惚れなんて、外見でもよくない限り成立するはずないだろう。それがわからぬ年でもなかろうに。
さて、勝利が確定したところでモモの次の言葉の予測でもしようか。
朝に討論したリンは、感情むき出しに答えを出すことから逃げた。まあ、議題が議題だけに、朝の低血圧で挑むにはかわいそうだったが。それを踏まえ僕が思うにモモは、「そんな難しいこと、わっかんないよー」または「それでもモモは、心が大事だと思うなー」という二つの逃げ道を用いると推測する。実際はこうであった。
「スイセン様、それはミスリードだよー。この実験は『好意・反感などの態度や感情のコミュニケーション』において『メッセージの送り手がどちらとも取れるメッセージを送った』場合、『メッセージの受け手が声の調子や身体言語といったものを重視する』という事をいっているに過ぎないんだよー。だから、この法則は人の見た目が重要といってるわけではないんだよー」
それは完璧な、あまりに完璧な反論であった。メラビアンの法則は、正確にはモモがいうとおりのことを示している。僕の場合は、自分の都合のいいように解釈し、ハッタリとして作り変えた、まったく別物の歪めた理論体系だ。このことを討論の世界では──。
「そういう専門用語で相手の無知に付け込むことを〞ジャーゴン〟っていうんだよねー」
……先に言われてしまったが、そのとおり。これは詭弁の一種、専門用語。相手がしらない法則を用いて自分を有利に進める常勝戦法だ。しかし、ご覧の通り失敗に終わってしまった。だが僕のミスではない、これはモモの受け答えに不備があったからだ。
「メラビアンの法則をしらないんじゃなかったのか」
「そんなこともいいったかもねー。でも、人は成長する生き物なんだよー」
(こいつ、戦いの中で成長してやがるっ!)
などと、モモのペースにのるつもりはない。こいつは、端から知っていたのだ。だが、会話を有利にするために、あえて手札を秘匿して、僕のイカサマと同時に開示した。
僕は自分を美しい捻くれ者と自覚しているが、こいつも相当の捻くれ者だ。
「なるほど、結構嘘つきだったんだな、お前って」
「とんでもない。でも、モモに面と向かって嘘つきっていったの、二人目だねー」
「別に一番乗りを逃しても悔しくはないが、一応一人目を聞いておこうか」
「聞きたいかー。それはねー、なんと、あの秋葉桔梗ちゃんだよー!」
意外なようで納得もできる人間の登場に複雑だが、なんとなく気になり話を聞いてみた。
「ほらー、モモって、どことなく人とは違う感じでしょー」
「ああ、確かにホラーだな」
「でねー、お友達もなかなかよりつかなくて、大変だったんだー。そこに颯爽と現れたのが桔梗ちゃんー」
「日常にスリルが欲しかったんだな」
「桔梗ちゃんは、モモが一人ぼっちで教室に居るところを見て話しかけてきたんだー」
「そいつはー、すごいなー」
「それでねー、モモの教科書に書かれた苗字を見て『なんと読むんですか?』って、聞いてきたのねー。モモの苗字は珍しくて『四月一日』と書くんだけど、これは四文字でなんと読むでしょうって、逆に聞き返してみたの。そしたら、なんといったと思うー」
「……くたばれ、とか」
「ブッブー! 桔梗ちゃんは『うそつき、ですか?』っていったのー。エイプリーフールからイメージしたと思うだけど、モモ笑っちゃったー。それ以来、親友なんだー」
途中から興味がなくなって適当な相槌を打っていたが、モモはご機嫌なようで話を最後まで続けた。秋葉らしいといえば秋葉らしいエピソードだが、正直どうでもいい。
閑話休題、そろそろ本筋に戻ろうと思う。
「お前は嘘つきというより、パ行四段目の天使の方が近く思えてきた」
「天使とは光栄ですねー。ですが、スイセン様も議題が甘かったですねー。朝のように皮膚病の話でしたら、モモもだんまりでしたのにー。……それはあんな厳しい話、モモにするには信頼も、過ごした時間も足らないということですかー」
「さあ、どうかな」
「いいですねー、リンちゃんはー。スイセン様と対等な位置関係でー」
朝のことも知っていたのか。僕はリンのこと好きでもないが、他の人間よりは信頼している。どうでもいい相手にあんな惨い話、腹を据えて交える気にすらならないものだ。しかし、朝のことから、リンと僕との関係も推し量るとは……やはり、ただのストーカーじゃない。
なんとしても敵に回したくない人間だが、こいつは僕に惚れていて、秋葉の親友、大事な二人が悪くなるようなことをいうとは思えない。
「モモ、お前を見込んで話がある。取引抜きに、このことは秘密にしてくれないか」
キスのご褒美がなくても、うまくいくのではないかと思い始めた甘い考えの僕だったが、このペテン師はその甘えを許しはしなかった。
「それとこれとは別だよねー。だって桔梗ちゃん、モモに黙ってスイセン様に告白したんだもん。モモが好きなことを知っててだよー。それなりの報いは受けないとー」
「報いって、どこの原理主義だ。お前ら親友だろ」
「親友だからってなんでも許されたら警察は要らないよー。……それなりの報いがないとねー」
そういうと舌で上唇を舐めるモモ。嫌な予感が過ぎるが恐る恐る要求を聞いてみた。
「今回はおまけして、キスだけで許してあげるよー」
やっぱり、そうきたか。自分で提案しておいてなんだが、あちらから言われると内心穏やかではない。だが、断った場合、何を仕出かすかわからない相手だけに無下にはできない。気が重いが、呑むしかないのか。
「わかった。秋葉には僕から伝えておく」
「──それは、不要だよー」
「んっ!?」
一瞬だった。気を抜いていた。故に頭が真っ白となった。
「口元がお留守だねー」
モモの唇が離れると、名残も惜しまずにこの言葉を述べた。僕は真っ白になった頭を捨て置き、驚きの定型句を口のみで放った。
「何をするんだっ!」
「いやー、口止めには口付けが一番有効なんだよー。これでモモは、このこと誰にも言わない。というより、誰にもいうつもりなんか、元々なかったけどねー。もうけ、もうけー」
「よくわからんことで人のファーストキスを、だいたいこれは桔梗の身体なんだぞ」
「だけど、スイセン様の心だよねー。だからモモは、二分の一の願いを叶えたんだー」
「二分の一?」
「うん、でもこれからスイセン様の身体に入った桔梗ちゃんとキスしても二分の二にはならないよー。本来の肉体に、本来の精神が宿って初めて二分の二になるんだー。……だから、早く戻ってねー。待ってるよー」
両手で二本の指を立てながらこの言葉をいい終えると、モモはこの場から立ち去った。漂白剤につけられた僕はというと、驚きの白さを維持しながら、今起こったことを振り返っていた。
「……肉体と精神が一つで一つの価値か。口だけではないようだ」
モモは口だけではなく身体で証明して見せた。これは僕の大前提、外見が一番大事という真理を壊されるかもしれない大事件だった。少なくとも揺るぎつつあった。たった一つのでき事如きで。この後、意識を取り戻した僕は秋葉と合流し帰路についた。足元もおぼつかない不安定な帰路であった。
次話掲載
4/22 19:00頃




