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新渡戸の夜 稲造の朝  作者: 紫水ゆうじ
第5章 夜の訪れ ☯ 夜に逃げる
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前者-悪魔の足音-

「あらら、確かフミ先生のお孫さん。なんのようですか?」


「はい、部室の前を偶然通りかかったら、モモさんに誘われて──」


「そだよー。モモが誘ったんだー」


 …………モモ。できれば聞きたくもない、見たくもない字面だ。青ざめる僕をよそに、宮村部長は来客を喜ぶように話を進める。


「よう来てくださいました。では、お孫さんにお点前の方をさせていただきます。フミ先生のお孫さんですし、作法の方は大丈夫ですよね」


「はい、嗜む程度ですが。でも今日は、そういう用件ではなくて──」


「主客はお孫さん、次客はモモさん、末客は秋葉さんでよろしゅうな」


 宮村部長は、人の話を聞かないらしい。すでに準備に移った部長を止められないと悟った秋葉は一つの条件をつけ、僕に目配せを送った。


「部長さん、次客と末客を交換していただけませんか」


「いいですけど、何でですか? 秋葉さんは茶道に精通していますから、モモさんよりも適役だと思うんですけど」


「モモもスイセン様の隣がいいー。譲れないよー」


 部長もモモも不服を申し立てるが、結局席順は秋葉の提案順になった。後から聞いた話だが、末客は仕事量が多く、素人に務まるものではないそうだ。


「(いいですか。今回は濃茶だけをいただきますので、私の見様見真似で乗り切ってください。例の計画の一環ですので、部長や私の挙措を覚えるつもりで頑張ってくださいね)」


 今回は略儀らしく、小難しい動きはないそうだ。位置についた僕に、秋葉は正しい座り方、足の痺れない座り方、茶道の簡単な説明を小声で伝授してくれた。


「(では、お茶を取ってまいりますので、いったとおりにお願いしますね)」


 秋葉そういって立ち上がると、茶碗を取り戻ってきた。そして、右手で僕との間付近にお茶を置く。これは、僕に飲めといっているのか。手伸ばそうとすると、秋葉は涼やかな目元を使い僕の動きをいさめた。


 そういえば、さっきいっていたな。まず、みんなでお辞儀してからいただくと。教えを思い出し、僕は三人揃って礼をした。ようやく飲める、と僕はお茶に手をのばすが、その前にお茶は秋葉にさらわれてしまった。なんのために、そんな中途半端なところに置いたんだよ。


 秋葉に遊ばれているようで釈然としないが、これも茶道の作法なのだと我慢し、秋葉の作法を眺めた。秋葉は左手でお茶を受け、感謝を示すように両手で押しいただくと、手前、手前へと茶碗を回し、一口含む。秋葉がお茶を飲み込むと、部長が「ご服加減は」と問うた。


 ……これは、あの言葉が出るか。おそらくだが、次の言葉は僕でもわかる。僕は、秋葉が口を開けると同時に、予測される言葉をいい放った。


「「結構でございます」」


 決まった。素晴らしい調相に思わず気持ちが高ぶった。こちらをちらりと見てきた秋葉にしたり顔で「やってやったぜ」と親指を立てるのだが、どうも様子がおかしい。あれか、教えていない作法をやってのけた僕に、底しれぬ何かを感じたのだろうか。


 しかし、そんな憶測は的外れなのだと、数秒もしないうちに気付かされた。部長が呆れ顔で、僕にこんな言葉をかけたからだ。


「秋葉さん。あなたにはまだ聞いてませんよ」


(なん…………だと)


 どうやら、フライングだったようだ。確かに飲んでもいないのに「結構でございます」というのはおかしい話だった。飲まずにいったら〞いりません〟という意味の〞結構です〟になってしまうし。まあ、失敗は人生に付き物。一度した失敗を二度目はしなければいい話だ。


 と、気を取り直す僕とは裏腹に秋葉は自分ごとのように赤くなっていた。いや、自分ごとか。


「──茶巾がないので、ハンカチで代用させていただきますっ!」


 自分の分を飲み終えた秋葉は話の流れを切るように大きな声を上げ、ハンカチで飲み口を拭くと、僕に目配せを送ってきた。左目の目配せ。これは、先程の打ち合わせの時に決めた合図で、これをしたら末客の方を向いて「お先に」と一礼するように言われていた。


 秋葉がハンカチを仕舞い、茶碗をまた二人の間付近に置く。このタイミングだ。

 一礼と挨拶など、子どもの使いじゃあるまいし、やろうと思えば簡単だ。問題は、隣の奴の顔を見たくない、この一点のみ。なんせ、隣はあのモモなのだから。

 有り体にいえば、この知的生命体、僕のストーカーである。


 いつだか忘れたが告白を断って以来、僕の背中をつけまわす黒い影。何が恐いって、このストーカー、僕が捨てたゴミから抜けた髪の毛まで、手当たり次第に集める蒐集家(しゅうしゅうか)。僕が歩く道、振り返れば月の如くそこにあり、自分の所有物には基本、僕の名前をつけているという。いまは収まったが、一時期はラブレターだかポエム集だか判別しづらいものを、郵便局を経由せず、自らの手でじかに家のポストへ投函する始末。家族からは素敵な彼女さんね、などとからかわれていたがその異常な頻度に、次第に家族の顔が青ざめっていったことは記憶に新しい。


 しかしこれは、まだ序章に過ぎない。僕が学校を休めば、果物や見舞金を匿名で玄関先に置く。見に覚えのない結婚式場のパンフレットが机の上に置いてある。学校の七夕企画の時に、学校中に設置された笹の葉を覆うように『スイセン様と結ばれますように』など、的確に恐怖を覚える邪な願いを匿名で書き連ねる(筆跡から同一人物だと思われる)。誕生日……思い出したくもない。クリスマス…………もう嫌だ。


 もはや、思い出すことさえも拷問だ。あの不純物に支配された蒼玉の瞳、ハーフアップと呼ばれる整った後ろ髪……モモを表す記号は、どれをとっても本能的な恐怖に結びつく。


 そんな歩くトラウマが僕の横に座している。意識の外に置いていたとはいえ、よく今まで耐えられたものだ。これを見ながら挨拶をするなど、正気の沙汰ではない。開いた毛穴から逃げ出す体温。それに連動するように震える小さな身体。限界だ。


「あの、お手洗いの方に行かせていただきます」


 身体はその言葉を待っていたかのように、すぐに行動へと移る。秋葉に教えてもらった座り方のおかげで足に痺れはない。僕の行動に茶室はざわめくが気にするものか、これは逃避ではない〞戦略的撤退〟だ。襖を無作法に開け、最寄りのトイレへ逃げ込んだ。


 なんの迷いもなく入ったトイレは、やけに馴染んだ光景で個室に入った瞬間に気付いたが、ここは男子トイレだ。そして、僕は今女子の姿。また面倒なことになってしまったが気を取り直し、使用された気配の少ないトイレで、気を落ち着ける意味を兼ねた反省会を催した。


「はあー、あいつも茶道部だったのかよ……」


「そだよー。しらなかったのー?」


「うわあああーッ!?」


 返事が絶対返るはずのない空間に、あの嫌悪を誘うしまりのない声音が響き渡る。それに驚き、思わず絹を裂くような声を、目を見開きながら叫んでしまった。


「なんで、お前が男子トイレに──」


「だって、開いてたしー。それをいうなら桔梗ちゃんもここにいるのはおかしいよねー」


 不覚だった。急ぎのあまり扉を開けたまま篭ってしまった。モモは扉を閉めると、個室の扉越しに会話を振ってくる。


「どしたのー。具合悪いのー。桔梗ちゃんが点前の最中に席を立つなんて、そんなマナー違反、普通ならするわけないよねー」


 うるさい、軽犯罪法違反。とはいえ、なんか……こいつ嫌な匂いがする。


 生理的嫌悪の臭いに混じって鼻を突くのは、目ざといというか、耳ざといというか、こう感が野生的なまでにするどいフシがある。この問答さえも僕たちの秘密を知っている上で、裏づけを取っているかのようだ。


「そうなの具合が悪いの、だから出てって」


「こわーい。桔梗ちゃんが怒ったー。これはレアだよ、超常現象だよー」


(俺にとって、お前の方がよっぽど恐いよ)


 感情を揺さぶることで誘導的に馬脚を表そうとしているのか。考えれば考えるほど、モモは何かを知っているように感じる。


「とりあえず、早く出てって!」


「つれないなー。もっと、いつものようにおしゃべりしようよー。──よいしょっと」


「…………あのー、なにをしてらっしゃるのですか?」


「見ればわかるでしょー。おしゃべりは、お顔を見ないと味気ないもん」


 出ていけ、と申したはずがこの生命体は出て行くことはおろか個室の扉を上り、顔を出した。そして、器用に肘を付きながらその体勢を維持すると、足をバタつかせながら会話を続行した。


「この体勢疲れるー。肘が痛くなるしねー」


「止めればいいのでは? だれが強制しているわけでもないし」


「そんなー、つれないなー、桔梗ちゃん。いつもみたいに恋バナを咲かせよう─」


 この体勢で恋バナって……無理があるだろう。


 そんな僕の心中をよそに、モモは一方的に話を始めた。


「知ってのとおり、モモはスイセン様のこと好きでしょうー」


(身を持って体験しているからな)


「ここで問題ー。モモは、スイセン様のどこを好きになったのでしょうー。〞本物〟の桔梗ちゃんなら簡単だよねー。シンキンギタイムはー、なんと太っ腹の五秒ー! いっくよー」


 そんなの、どうせ顔…………待て、今──〞本物〟の桔梗ならと言わなかったか。

「サンク! よーん! トロア! ツヴァイ! ウノ──」


「ちょっ、待て」


「──ゼロ。残念、時間切れー」


 多国籍な数字のカウントにあっけに取られていると、シンキングタイムは終わりを告げた。


 その声を最後にモモは仕切りから降りると、入り口の引き戸を開いた。モモは、間違いなく僕らの秘密を握っている。そんな核弾頭を放っておけるはずもなく、僕は彼女が誰かにこのことを告げる前に、捕らえねばならなくなった。まだ入り口の扉が開かれてから時間が経っていないことを考慮し、僕は個室の引き戸を開き彼女を追った。


次話掲載

4/21 18:00頃


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