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新渡戸の夜 稲造の朝  作者: 紫水ゆうじ
第5章 夜の訪れ ☯ 夜に逃げる
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前者-茶室の天使と悪魔-

 秋晴れの庭。傍らには、極上の美少年が一人。これを、幸せと呼ばずなんと呼ぶ。


 あまりの幸せに先走った行動に出てしまったが、秋葉も僕のことが好きといっていたし、相思相愛だからなんら間違ってはいなかったはず。邪魔が入らなかったら、この秋景色はもっと輝いているはずなんだ。


 とはいえ、こんな僕の考えも秋葉側からすれば複雑なことに違いない。キスの瞬間こそ赤らめていた顔も思考の猶予が与えられると、すぐにその熱は冷めてしまった。いくら好きになった相手とのキスであっても、いまは身体を交換している。唇を重ねたところで、冷静に見れば自分とのキスだということに気付かされる。秋葉やリン、僕を取り巻く環境の人は口々に内面が重要だといっているが、それが矛盾していることに気付いているのだろうか。


 本当に内面で僕を好きになったのなら、いくら自分の姿をしていたとしても、素直に嬉しいはずだ。しかし、秋葉は自分の外見ということで、萎えてしまった。綺麗ごとをいうのは容易だが、軽い言葉はどうも矛盾を育む土壌のようだ。


 まったく、正直に外見を好きなったといえば楽になれるのに。人間ってやつは、綺麗なお花畑を通りたがる。薔薇の道には棘があるというのにね。


 さて、穿った目線で人間界を眺めていると弁当はすでに空となっていた。まだ昼休みは始まったばかりだし、何をして過ごそうか。第一案は、相席の美少年をひたすら眺め続けるというものだ。僕としては、飽きがこない素晴らしい時間になるだろうけど秋葉は退屈であろう。先程、周りの人間にも気を遣った方がいいと言われたばかりだし。気乗りはしないが、美少年に言われたら無下にするわけにもいかずとりあえず〞気〟というものを初めて遣ってみた。


「なあ、秋葉。午前中ずっと気になっていたんだけど、もしかして、目悪い?」


「そうですね、近視気味です。そんなにひどくはないのですが」


 ただ黙って眺めるのでは芸がないので、会話をしながら舐めるように見ることとした。我ながらの心配り具合に、不言実行の男らしさを感じた。


「やっぱりか。なんか、黒板が見えづらいと思った。まあ、君を傍で眺めるだけの視力があれば問題ないよね」


「恥ずかしいこといいながら、さり気なく学業放棄しないでください。メガネは家に忘れてきたのですか」


「メガネ? かけてたっけ?」


「……結構、落ち込みますよ、それ。日常生活には支障ない程度ですが、一応していました。メガネをいつ外しました? 寝る時でしょうか」


「ちょっと、待って……記憶にないな。というより、この身体になってから、ずっと視界はぼやけていた気がする」


「それってもしや──泉に入った時に」


「ああ、泉の底に落ち込んだかも」


「どうやら私、落ち込むことと縁があるようですね……」


 思い返せばあの時、まだ自分の身体に入っていた僕が秋葉のこめかみ付近に手を伸ばした際にメガネを外してしまったのかもしれない。まあ、立件できないため口に出すつもりはないが。


 隠蔽工作も終わり過ぎ去ったことを女々しくいうのはなんだし、未来の話をしようと思う。この問題が、どれだけ僕に悪影響を及ぼすのかという話を。


 目という器官は、外部情報の取得の際、どんなに少なく見積もっても七〇パーセント、多く見積もれば九〇パーセントもの情報を得ていると言われている。そんな五感の大黒柱が機能不全では、あの美しき美少年の魅力を十分に味わえないではないか。由々しい、あまりにも由々しい! というわけで、僕は思い直し新たなメガネを買う旨を秋葉に伝えた。


「確かに不便ですしね。お金は私の貯金から崩していいので、メガネは清水君の好みで買っていただければ、私も嬉しいです。ネット通販で簡単に買えて、即日届きますから」


「実に便利な世の中になったもんだ」


 そんな年寄りめいた口調でメガネ購入の了承を得た僕は、授業中にでも携帯で購入の手続きをしたいと思う。『女性になったからには、かわいいメガネを買うんだ』と、僕は高い順応性で、入れ替わりを十分に満喫していたのであった。


 昼休みが終わり授業へと重い足取りで向かう。とはいっても、授業中はずっと携帯をいじっていたため、体感時間になおせば実に短かった。お目当てのメガネはというと、数多のかわいらしいメガネたちに、一つには絞りきれず手当たり次第に買うこととした。


 単価が安くない買い物に先立つものが心配になるが、なんとなるだろう。それに秋葉の金だし。そんな醜い打算を心に隠し、僕は放課後という自由の園をともに謳歌しようと、秋葉の下へ向かった。


 秋葉は満開の笑顔をした僕が来るなり手を合わせ、小さい声で申し訳なさそうに謝った。


「すみません、今日は部活に行きたいと思います。部長に言わなければいけないことがありますので」


「その身体で?」


「……そうでしたね。どうしましょう。──あのっ、大変申し上げづらいのですが、清水君に言伝を頼んでもよろしいですか」


「まあ、すぐ済むのなら」


 面倒だが仕方あるまい。美少年の貌が(うれ)んでいたら、手を差し伸べるのが僕の性。


 ご用向きを尋ねるに、秋葉は当分部活には参加しないという旨を、部長に報告したいということらしい。入れ替わりのこともあるし、何より月下神社の例祭が近々催されるため、その準備に集中したいということだ。あらかじめ、部長にはいっているため、すぐに済むという秋葉を信じて、僕は初めて茶道部の部室へと足を運んだ。


 我が校の茶道部は伝統があり、週に一回、外来の先生を招きお稽古をしているほどの本格的な部活で、贅沢にも特別の日本家屋が校内に設けられている。余談だが、うちの祖母は茶名をいただくほどの実力者らしく、先生として顔を出しているらしい。つまり、外来の先生とはうちの祖母だ。家にも茶室があるが、僕は足を踏み入れたことはない。理由は多くあるが、茶道は女性のイメージが強く、詫びさびの美は華やかな僕の美学とは一線を画すものということが大きい。


 そういうわけで、茶道に興味のない僕は、さっさと話をつけてランデブーと洒落込みたいわけで小走りに玄関を通り、部室の襖を引き開けた。


「部長いますか?」


「……まだ来とらんよ」


 無愛想な返事が一拍を置いて返ってくる。座敷には女子生徒が数人、お菓子片手にくつろいでいた。秋葉の話によれば部長は、はんなりとしていて、目じりがゆるやかに下がっている方、といっていた。ここにはその情報どおりの人間は存在しない。


 それにしても……なんか、想像していたのと違う。


 茶人といえば正座に着物で、鷹揚な言葉遣いでお茶を嗜んでいるものだと思っていた。しかし、ここにいる連中は、家でくつろいでいる普通の女子高生であった。


 現実を垣間見た僕は適当に座り、部長が来るのを待った。女子の園こと茶道部部室は、動物園と見紛う姦しさに包まれており、何ともいえない疎外感から部屋の端の方で体育座りをしていた僕であったが、数分後その苦労が実り、やっとそれらしい人物が襖を引き開けた。


「……失礼します。あらら、皆さんお揃いで」


 標準語から少しイントネーションがずれた鷹揚(おうよう)な語り口。語尾の特徴的な上げ方から、京都方面の出身だと推測する。いかにも茶人の雰囲気をまとった女性は、膝立ちのまま襖を開け、作法に則ったと思われる手順で襖を閉める。その姿は熟れており、作法どおりに動いているというより身体が勝手に動く類のものだ。この部長の登場に、部室は急に空気を変えた。


「「「今日もよろしくお願いします」」」


 先程までだらしなくくっちゃべっていた女子生徒たちは、急に凛と姿勢を正し、口を揃えて挨拶を述べた。まさに、見違えるほどの豹変だ。これに優しい笑顔で返す部長は、僕の方に向き直し怪訝な顔を浮かべた。


「どうしました、秋葉さん? 具合でも、よろしゅうないのですか。髪形もいつもと違うように見えますし」


「いえ、すいません。ぼーっとしていました」


「晩御飯の献立でも考えてはったのですか。わたしも、ようそれでぼーっとしてしまいますよ」


 京言葉と丈にも余る長髪がよく似合うこの方は、話していると心が安らぐような気がする。おそらく先輩にあたると思うが、この年でここまでの(ろう)()けた風格を出せる人間がいるとは、世界の広さを感じた。と、和んでいる暇ではなかったんだな。さっさと、しばらく部活を休むことを伝えねば。


「あの部長お話が――」


「部長! この前のお泊り会に来ていただきありがとうございました」


 僕の言葉を打ち消す大きさで会話に割り込む部員。その強引さに会話の主導権を奪われてしまった。


「いえいえ、わたしも水崎さんのお宅にお呼ばれしてもらってうれしかったですよ。そうそう、水崎さんのお宅の歯磨き粉、洗顔フォームのような味がしますね。あれどこで売ってらしゃるのですか?」


「……部長、それはたぶん洗顔フォームそのものだと思います」


「えー、そうなんですか? どおりで弱酸性だと思いましたわ」


 僕の言葉を遮ってまでもする話だったのか。部長の抜けたエピソードを聞き終えた僕は再び休みの報告をした。


「あの部長お話が。以前からいっていたと思うのですが、しばらく部活の方を休みたいと」


「月下神社の例祭の準備ですね。でも、今日はやっていきますでしょう」


 茶道などとんでもない。僕はさっさと帰りたいのだ。


「いえ、今日は──」


 まいった。作法をしらない僕が、適当にお茶会に参加したら大恥をかくに決まっている。まあ、秋葉の身体だし、恥をかいたところで僕になんの不利益もないが、それを差し引いても恥をかくのは好ましくない。逃げ出す算段を考えるが、先程から周りに合わせて始めた正座が思うよりきているらしく、のっぴきならない。動けば何万ボルトかの電流が僕の身体を駆け巡り、古典的に白骨を晒す破目になるであろう。……もうだめだ、なんとでもなれ。


 諦めから天命に身を委ねた僕だったが、襖が開いたと同時に救いの道が開くこととなった。襖の向こうから、美少年の衣を被った少女が救いの手を差しのばすべく登場したのだ。そう、僕には心強い運命共同がいるのだ。しかしその登場の代償とばかりに、僕の人生上、もっとも会いたくなく、もっとも苦手な人種が、その華麗な背中に張り付いていることに気付いた。


 悪魔と天使って奴は、同時に人の前に現れるものだ。


次話掲載

4/20 21:00頃

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