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新渡戸の夜 稲造の朝  作者: 紫水ゆうじ
第4章 のぞんだ世界 ☯ のぞんだ未来
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後者-虫の舞う庭にて-

 朝にするには深刻すぎる話題に私は胃もたれを起こしました。清水君の席に座りながら授業を受けますが、胃もたれと慣れぬ風景に落ち着きが保てません。ふと後ろを振り返ると星さんが機嫌悪そうに外を眺めています。羽嶋君が気持ちよさそうに寝ています。


 そして、清水君が困った顔で黒板を眺め、私に気付くと笑顔で手を振ってきます。反射的に振り返しますが、星さんの舌打ちがピンポイントで私の耳を抉ります。すごく居心地悪いです。



 そんな過酷な午前の部を必死で乗り切った私は、昼休みを機に清水君を誘って昼食がてら話の場を設けたいと思い、清水君のもとへ向かいました。


「秋葉、中庭で一緒に昼食でもいかがかな?」


「そうだね。でも僕の食事係は教室に来るから──と、お母さんにお弁当を作ってもらっていたことを忘れていました。では、中庭に参りましょうか」


 お母さんのお弁当以外にも忘れていることがあるみたいですね。地で話す清水君を、目で合図を送り、なんとか軌道修正に成功しました。もっとも、すでに教室は星さんと羽嶋さんしかおらず、あらぬ噂を立てられる心配はないようですが。


 というわけで私たちは学校の中庭に来てみました。清水君と来るのは夢だったので嬉しいかぎりです。これも神様のおかげ、と信心をより深くしますが、いまは清水君と今後のことについて話合わねばいけませんので祝詞は後回しにします。


「お腹が空きましたね。あれ、清水君お弁当ないのですか? よかったら、僕のお弁当を一緒に食べましょう」


「清水君、この場には誰もいないので演技は不要ですよ」


 互いに清水君と呼び合い面倒なことになってしまいました。清水君も意識して演技をしているようですが、一人称だけは急に変えられないようです。私もついつい『私』と自分を呼んでしまうことがありますしね。


「そうだった。なんだか、自分が誰だがこんがらがってきたみたいだ。まあ、僕としてはどうでもいいけど」


「しっかりしてください。元に戻りたくはないのですか」


 この問いに清水君は実にあっさりと、こう答えました。


「別に戻らなくてもいいよ。……君が傍にいてくれるなら」


 清水君はそういうと、上目遣いに目を潤ませました。


 この人──色恋のツボを心得ています。不覚にも自分に惚れてしまうところでした。なんだか、私が魂を受け持っていた時よりも、あの身体はかわいらしくなったような気がします。あんなに嫌いだった自分の風貌も清水君が采配すれば、こうも輝くものなのですね。


 ──って、いけません! 


 自画自賛に自己嫌悪が生まれます。つくづく私の思考回路は自分を嫌いになることへ繋がっているようですね。それにしても、一度振った相手にこのようなお戯れは感心しません。勘違いしてしまうじゃないですか。イジワルをする相手に私は、いささかの反抗を試みました。


「口だけならなんとでもいえますよ。もし、その言葉に嘘偽りがないのなら、行動で示してください」


 我ながら悪女です。背伸びしすぎてアキレス腱を断裂してしまいそうなくらいハッスルしてみました。しかしながら、いった瞬間はあれでも時間が経つと、無性に恥ずかしくなるものですね。清水君は、私が羞恥に喘いでいるのを観察するようにあくまで無言です。その瞳には白き肌を紅潮させる私の姿がありました。


 ……もう消えてしまいたい。羞恥心の許容量はとっくに限界点を越えていました。


「あの、お手洗いの方に──」


 恥ずかしさのあまり逃げ出そうとする私を、清水君はすんでのところ袖を掴み、次のような言葉で引き止めました。


「…………仰せのとおり、行動を示すよ──口で。少し、屈んでくれるかな」


 瞳に映る清水君は真剣そのものでした。その瞳に映る私は動揺そのものでした。


 袖から流れるように小さき手は整った顎へと流れます。一尺に及ぶ身長差を埋めるように私は膝を折り、清水君は背伸びをします。まったくもって不思議な光景です。昨日まで私の意志で動いていた華奢な身体が、憧憬に満ちたあの瀟洒な身体を手玉に取るとは。


 そう思うと瞼は自然な動きでとばりを落とします。


 あれほど叶わぬと思った最上の夢は、鼻息を感じられる距離にまで近づいていたのです。


「スイセン様ー! 探しましたよ。中庭で食べるのでしたら、行ってくだされば……って、何をしてらっしゃいましなさるかしら」


 私は、心臓がひとしお送り出した血圧に驚き、清水君から残像ができるような速さで離れてしまいました。


「なんのことでっしゃろ。──ゴホンっ! なんのことをいっているのか、私にはさっぱりわからないな」


 突然の日本語が乱れに乱れた人との遭遇に私は必死で言葉を、演技を取り繕いますが、実に不可解なエセ関西人口調で応対してしまいました。その後、何事もなかったかのように清水君特有のさわやかな笑顔で誤魔化しを試みました。


「ひえっ…………わたくしめは、何も『みざる・きかざる・いわざる』でしたよ。どうやら、最近疲れているようです」


「そうか。疲れているなら戻って結構だよ。今日はお弁当も持ってきてるし」


「……そういうわけには」


「──邪魔だといってることに気付かないのですか? 随分と立派な神経をお持ちのようで」


(清水君──ッ! 止めてください。私の評価が、世間体が──)


 お名前は存じ上げませんが、この動揺に日本語を乱している方、清水君にいつも食事を作ってくる親衛隊で一番位が高い方です。その方に清水君は、私の身体ということを忘れ──いえ、おそらくそのことを利用して、物凄いいいようで煙たがります。


「なんですか、あなたは! 会員番号は……って、親衛隊ではないですね。親衛隊でもないのに、スイセン様とお話しするとは──五体満足で帰れると、お考えですか?」


 ひえええー! なぜ、こうも私ばかり命の危険に晒されるのですか。一度は棄てた命といえど、痛いのは勘弁してください。なんとも紛らわしいですが、実害を受けるのは私の身体、清水君の魂です。しかし、最終的に被害をこうむるのは私なのです。最悪の事態が起これば、私の身体と愛する人の魂という、代え難いものを二つも同時に失くしてしまいます。


 なんとしても最悪の事態を阻止しよう、と私はほつれ合った関係を得意の裁縫の要領で、なんとか繕ってみます。


「ははっ、秋葉さんは最近の政治家の体たらくに慨嘆しており、荒れているんだ。普段は人畜無害の冴えない人間。歯牙にかけるほどのものではないよ。ええと──」


 名前がわからねば、呼びかけようがありません。私は、清水君の耳にこそこそと彼女の名前を尋ねました。


「(ははっ、やめろ──くすぐったいって)」


「(──我慢してください。もう一度尋ねますが、彼女の名前は、なんとおっしゃるのですか)」


「(僕はいつも『虫A』と呼んでいたけど)」


「(いくらなんでもあんまりですよ!)」


「(といっても、本名を知っているほど、深い仲でもないしな)」


 なんと、あれほどまで誠意を込めて午餐(ごさん)を作り続けてきたというの

に……報われません。一方的な想いは所詮、自己満足ということなのでしょうか。今にも同情と同調から涙が込み上げてくるのをこらえながら、私は方策を思案します。親衛隊隊長、なのでしょうか。そもそも、隊長という役職があの団体にあるのかすら謎です。へたなことは口走れませんし──。


 思案に明け暮れたところで、自分の見聞から導き出せる答えには限度というものがあります。


 それにともない時間を、糖分を必死に消費して出なかった答えが、ほんのした拍子で現れることも人生ではしばしばです。その法則は、幸いながらこの場にも顔を見せてくださいました。星回りとは、ほんとによくできたものですね。


「隊長ー! 斯波隊長―ッ! スイセン様見つけましたか?」


「あっ、虫B、虫C……その他もろもろだ」


 声を上げ近寄ってきたのは親衛隊の皆さんです。清水君はそれを見ると、(うごめ)いている虫でも観察するように呟きました。その表情を見るに、おそらく悪気はありません。それが一番の問題なのですが。ともかく、人が増えることは状況の悪化にしか結びつかず、こちらの望むところではありません。できるだけ穏便に済むよう、私は適当に話をでっち上げました。


「ごめんね、斯波さん。今日は、秋葉と食事をいただこうと思っているんだ。うちのお祖母さんが、お世話になっているからね」


 ──すみません、フミ先生。お世話になっているのはこっちです。


 罪悪感は止め処なく湧き出でますが、これで防げるのなら、といってみたもの、やはり決定力に欠けるような気がします。大人しく退いてもらえるでしょうか。


 しかし、そんな心配をあざ笑うように親衛隊の斯波さんはこのような言葉を紡ぎました。


「ス、スイセン様が、わたくしめの名前を覚えてくださったていた……感激です」

 ──感動の沸点が低すぎます。名前を覚えるなど、人間関係の初歩の初歩でしょうに。


「いいなー、隊長だけ。わたしも呼ばれてみたーい」


「それはさすがに高望みでしょう。わたしは目が合うだけでも……」


 親衛隊の皆さんは、口々にこのささやか過ぎる快挙を喜び合います。そして、これに満足したのか、皆さんは嬉々として学校へ撤退を始めました。この光景を見ていた清水君は、弁当を広げ一言。


「隊長とか、あいつらに役職あったんだな」


 同情します。この無頓着過ぎる御方の親衛隊になった方々、好きになった方々一同に。


 本当に清水君は自分以外の人間に、興味が一片たりともないようです。そんな清水君の傍らに自分が居られることは、奇跡中の奇跡なのだと、またもや思いしらされます。


「清水君は、もう少し周りの人間に興味を持っても良いのではないでしょうか」

「そだなー、来世まで覚えていて、魔が差したらね」


 遠まわしに拒絶されました。可能性はゼロに限りなく近いどころか、マイナスへと振り切っております。──それにしても、先程はあんなにも近くに顔が……思い出すだけで身体が熱に侵されます。人間は摂氏四十二度を越えると、たんぱく質が変形してしまい死に至るそうですが、もしあれが未遂でなければ、私の死因はそれであったでしょう。


 ……ですが、悔やんでいないといえば偽りになります。


 命を賭してでも、その至福を味わえるというならば、きっと私はいい顔で死ねるのでしょう。


 身体の熱は引いても、奥底の熱は冷めあらいません。瞼を閉じれば、あの光景が鮮明に………………そうでした。私は、重大な考え違いをしておりました。網膜であの映像を再生したところ、私の視線の先には、私の顔が待っていました。──そうです。私たちは入れ替わっていたのでした。


 もし、あれが決行されていたとしても、結果として残るのは自分との接吻……あまり、嬉しいものではありません。


 一気に熱は大気へと逃げ出しました。一人で何を舞い上がっていたのでしょうか。


 臨時で催された反省会で私の脳に済む小さい私たちは、まるで鬼の首でも取ったかのように、野党が与党の不手際を責め立てるかのように、反省会史上、空前の盛り上がりを見せました。(開催地は、まことに勝手ながら清水君の脳内をお借りしました)


「もう常識なんて捨ててしまえれば、楽なのですがね」


 入れ替わりという状況は、想像以上にややこしいものでした。


 私はそう託つと、清水君の方を向き直します。


 そこで、まことにささいなことですので恐縮なのですが、清水君に違和感を覚えました。


「あのっ! …………いえ、なんでもありません」


 口に出そうかとも考えましたが、あまり小さいことを指摘するのはご飯が美味しくなくなるので止めることにしました。しかし、清水君は気になるようで箸を止め、私に聞き返しました。


「何かな? 気になってご飯に手がつけづらいのだけど」


 やってしまいました。こうなった以上、話すしかありません。小姑のようで気が引けますが、私は清水君に物申すこととなりました。


「いえ、箸を持ち上げる際の手順が、少々改善の余地があるなあ、と思ってですね」


「箸を持ち上げる際の手順? そんなのにまで手順があるのか」


「はい、箸を持つ際の手順は、まず箸の真ん中を、右手で上からつまむように持ち上げます。次に箸の先に左手を下から添え、右手に箸伝いに右端へとずらします。さらに右手を回すように箸の下に添えてから、正しく持ちます。ちなみに、置く際はこの逆の順番ですよ」


「…………こう、か。回りくどいな。もっと早く持てる手順はいくらでもあるだろう」


「不満があるのはもっともですが、作法とは共通の文化を持った人間との無言の挨拶ですから、効率を求めてられても。しかし、まだぎこちないですが綺麗ですよ。やはり、箸はその持ち方が見栄えがよろしいです」


 箸の持ち方は案外皆さん達者なのですが、持ち上げる際の作法までは行き届いていないものなのですよね。もっとも、教える人も、実践する人も、気にする人も、今となっては化石になってしまいましたから無理もありません。…………って、気にする人──私の近くには現存していましたね。──嫌な悪寒が走りました。


「……あの清水君、今日の朝、私のお母さんに変わったところがありませんでした?」


「変わったところと言われても、普段の秋葉のお母さんをしらないからな。ああ、そういえば食事の時、なんか顔つきが厳しかったような」


 大当たりのようです。これは、最悪の事態を起こりかねません。


 しかし、まだ確定した訳ではないので、清水君に状況をもっと委細に語ってもらう必要があります。私は、清水君の食事の手を制止、仔細な状況説明を求めました。


「別に、普通に食事していただけだよ。まず、お味噌汁に手を付けて──」


「──もう結構です。まずいことになりました」


 仔細な説明など不要でした。どうやら、状況は予断を許さないようです。


「なんだよ。そっちが説明しろといったのに、早々に打ち切って」


 この対応に不満があるように、清水君は頬を膨らませます。その不満を打ち消すように、私は言葉の限り説明しました。


「清水君は、汁物に手をつけた時、母に何か言われませんでしたか」


「顔を洗って来いって」


「そうですよね。母は、私が寝惚けているとでも思ったのでしょう。そう思ったきかっけは、私が最初に汁物を手に取ったからです。料理をいただく際の作法では、いただく順番も決まっているのです。ご飯、汁物、ご飯、おかず……のように。作法としても、私としても、汁物に、最初に手をつけることはありえないのです」


「私としても?」


「はい、私……猫舌ですので」


「……なるほど」


 こうなると食事だけではなく、他の作法の失態も見られている可能性があります。このままでは最悪、入れ替わりを見抜かれることになるやもしれません。どうしましょう。入れ替わりなんて前代未聞。両親は卒倒してしまうかもしれません。他にも露見することによって、不都合は天井しらずに増大するでしょう。なんとしても、それだけは阻止せねば。


「清水君、緊急事態ゆえ気乗りしないでしょうが、作法の方を早急に一通り覚えていただきたいと思います」


 この申し出に『気乗りしねえー』と言わんばかりに清水君は嫌な顔でこちらを覗きます。


「内面こそ、人の真価です。私が微力ながら〞手取り〟〞足取り〟教えますから」


「よしっ! 頑張ろうな」


 変わり身の早いこと早いこと。清水君の習性は短い間に知り尽くしております。このいまは私の手中に収められた美の結晶を使って頼み込めば、清水君は必ず良い返事を返してくれます。


 悪女です。紛うことなき悪女です。


 ここに『清水君礼儀作法改造計画』という返り点がついてもおかしくない作戦が始動しました。清水君には外見だけではなく、内面の美も磨いてもらいます。外見と内面、両方の美を会得した清水君は、おそらく今よりももっと人間として素敵になるでしょうね。


 それこそ、元の身体に戻ったら、私が近づくことさえも畏れ多いほどに。


 私は清水君と一緒にいられる奇跡と結びつきの脆弱さを再認識しながら、秋晴れの中庭でつかの間のひと時、好き人とともに満喫しました。──今宵は、名月が見られそうです。


次話掲載

4/19 19:00頃


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