前者-変わらぬ誓い-
「──やれやれ、人様の考えることはわからないな」
そんな皮肉を垂れながら洗面所で冷水を顔に浴びる僕は鏡を眺め、改めて入れ替わっていることを実感する。
「なんだか空腹が一周して身体が麻痺してきた。もう食事はいいや」
空腹も度を越すと食事を受け付けなくなる。その周期に入った僕は気分転換がてら朝日を浴びようと縁側へ出る。いい太陽に、いい風。身体を目覚めさせるのには打ってつけだ。
それにしてもこんないい天気だというのに、視界はなんだかぼやけている。栄養不足からくるめまいなのだろうか。小さく角がない手で目頭を押さえ刺激を送る。よし、少しだけ解消できた。
眼精疲労を気持ち解消した僕は再び外へと目を向ける。さすがは地元を代表する神社だけあって家も庭も立派だ。寺は葬儀関係で儲かると聞くが神社はどうなのであろう。一部の有名神社以外は寂れた雰囲気をかもしているのだが。
そんな余計な考えを巡らせていると、境内に足を踏み入れる人間の姿をおぼろげに捕捉した。
まだ六時半を過ぎたところだというのに迷惑な客人だ。標的はすらりとした風采に、眉にかかる程度の清潔な髪型をした男性……であろうか。うまく視認できないため断定はできないが、おそらくそんなところであろう。なんだかおろおろとぎこちない足取りは万引き学生を彷彿とさせる。神社に来る人間の多くは拝殿に祈りを捧げるものが大半だと思うが、この人はどうやら違うようだ。そのぎこちない足取りは拝殿ではなく、宮司の住まい秋葉家に向けられていた。
面倒極まりないが一応、客人の類。それに泥棒など心に疚しいところがある人間は話しかけられることを一番に嫌う。防犯も兼ね僕は、踏石の横に置かれた草履を履き、用向きを尋ねることとした。
「──どうされました。何か御用でも」
低い声で牽制するつもりが秋葉の声帯では思い通りの声は出ず、それは普通の挨拶であった。
「ああ、よかった。起きていらっしゃいましたか」
玲瓏な声はやわらかな口調で仕立てられ、僕の耳に幸せを届ける。
「あなたは! ──まさか鏡の世界から僕に会いに」
涼やかな目元、肌理の細かい肌、美を凝らした鼻、口、耳──秀でた箇所を上げれば切りがなく、劣る箇所を見つけるには人生を懸けても無駄に帰す。まさに完全無欠の美。彼の美に僕は目を奪われた。
「寝惚けておられるのですか? 私です。桔梗ですよ」
その瀟洒な口元は、僕に幻想的な現実を思い出させた。
「桔梗……そうか、秋葉か。僕たち、入れ替わったんだったな」
「はい、残念ながら──って、私はぜんぜん残念じゃないですよ! 清水君が私の残念な身体になってしまったことが残念なだけで──」
「わかったわかった。で、今日は学校だけどどうする。ズル休みと洒落込もうか?」
「ダメです! 学校を休んでいいのは体調を崩した時か、冠婚葬祭に限られるのです!」
「怒った顔もまた……ごほんっ。そうだな、張り切って行くとしますか」
一挙手一投足が人の心を乱すことに繋がる美少年。自分の元の身体だとわかっていてもこの熱情は隠し切れない。だって、美しすぎるから。
「朝御飯は済ませましたか」
「まだだけどいいよ。御風呂で身だしなみを整えてくるから、二〇分ほど待っててくれるかな」
「いけませんよ、朝御飯はしっかりとらないと──えっ、いけませんよ! お風呂に入るなんてっ!」
お風呂という単語に秋葉は極度の動揺を見せた。まあ、当たり前か。お年頃の女子として異性に裸を見られるなんて、お嫁にいけないほどの辱めだろう。だが、事態が事態。僕は秋葉の口を借り、僕の言葉を用いて説得に試みた。
「しかし、いつ元の身体に戻れるかしれず、それまで風呂に入るな、というのはいくらなんでも不衛生でしょう」
「そうですけど、恥ずかしいですし……そしたら清水君の身体、私が見ちゃいますよ」
「構わないよ。その身体に見られて恥かしい部位など存在しない」
本来の宿主としてあの身体に一切の瑕瑾は持ち合わせた覚えもない。
「だとしても、だとしても…………身体を見られるのですよ。心の準備が──」
僕とは違い、羞恥心を拭い去れない秋葉は煮え切らない。
「じゃあ、わかった。心の準備ができるまでそこで待ってて、二〇分ほどで戻るから」
僕はそういい残し家に戻った。それから二〇分が経過し僕は約束どおり秋葉のもとへ戻った。
「お待たせ。で、腹は決まった」
「二〇分きっかり考えましたが、やはり湯浴みについては……あれ、清水君。やけに髪が艶やかですね、それに肌も──湯気も立っていますし」
「ああ、わかる。今、上がったばかりだからね」
「へっ……ええええええっ! 冗談ですよね、悪い冗談ですよね?」
「──いいお湯だったよ」
事後報告。秋葉は頭の中で『トッカータとフーガ ニ短調』でも流れたかのように頭を揺らし、乱した足並みで数歩悶えると、蒼然とした面持ちで事態を理解しようと努めた。
「……その本気でいっていますか?」
「なんか身体を洗わないと気持ち悪かったし。もし、秋葉から変な匂いがするなんて噂がたったら僕としても嫌だからね」
「御心遣い感謝します。ですが……いまは一人にしてください」
よほどのことだったらしく秋葉は膝を抱え、境内の玉砂利をいじり始めた。
僕は秋葉の注文通り、少しの暇を与えることとした。その合間に制服に着替え、玄関にて靴に履き替える。少し汚れがついた靴は、昨日起こったでき事の唯一の物的証拠でもあった。
「あら、朝御飯も食べずに行ってしまうの?」
「はい──今日は日直で早めに家を出たいと思います」
「そうなのですか。でもお弁当は忘れたら大変ですよ。今、取ってきますから」
秋葉さんに気付かれ適当ないい訳でお茶をにごす。秋葉さんは、台所に置かれた弁当を取りにいくこと一分。お弁当のほかに小さな包みを持って戻ってきた。
「おにぎりを握りましたから学校についてから食べてくださいね。それと……」
そういうと僕のおでこに手を当て、その後側面へとずらした。
「熱はないようですね。──脇の辺りが乱れていますよ」
「髪を洗ったのですが、どうもうまくいかないので学校にて直します。では、行ってきます」
気がかりを含んだ瞳に別れを告げ、秋葉の元へ小走りで駆け寄る。秋葉はまだ膝を抱えたままであった。
「いつまでしょげてんのさ。時間は戻らないのだから、水に流そうよ」
「その件については善処します。ですので……あの、お一つよろしいですか?」
秋葉の傷は、数分の間になんとか癒えつつあった。心の余裕が出てきた彼女は何か質したいことがあるらしく、僕に赤らめた貌で質疑応答の承諾を求めた。
「……その清水君が、湯浴みする時……そのですね──緊張しました?」
「なんで?」
「へっ? その一応、異性の身体ですし──もしかしたら緊張したかなあっ、と。はい」
質問の意味がわからない。緊張……してないよな。僕は美しい身体を見慣れているし、異性であっても同性であっても僕の身体の美を越える存在にでも会わない限り、緊張をすることなどはありえない。というわけでそのままの通り秋葉にいい返すと、秋葉は残念そうな面持ちを浮かべた後、恥かしがるような面持ちで前言を打ち消した。
「そうですか。あっ、気にしないでください。ただの知的好奇心ですから、では参りますか」
そういい歩き出した秋葉に追随する形で僕は歩き出した。緩やかな傾斜の石段を下り鳥居を潜ると、秋葉は足を止めて一礼をした。そしてまた歩き始めた。
「なにしてるの?」
「これは〞揖〟といいます。鳥居をくぐる際の礼儀ですね」
「へえ。それ僕も一応やった方がいいのかな」
「別に構いませんよ。これは慇懃な作法の一つですし。あっ、でもそれ私の身体ですからね。父のこともありますし、できればお願いします」
秋葉は穏やかな表情を一転、父親のことを思い出し揖を行うことを求めた。厳しい父親なのだろうか。まあ宮司であるし、秋葉さんも鷹揚な顔の側面に厳しい顔を持っていたのでそれなりに覚悟をしておいた方が懸命だな。
我が家は片親で母の弁護士という仕事柄、案件が難航すると一か月くらい顔を合わせないことも少なくない。そのうえ、祖母にも甘やかされて育ったため大人に口出しされることは慣れていないうえに嫌いだ。もし口うるさいことを言われたら、我慢できるであろうか。
「秋葉、もし親に勘当されても恨まないでな」
「いきなりどうしたのですか!? そんな最悪の事態、想像したくもないですよ!」
「ほら、僕。作法とか礼儀とか、とやかく言われるのが嫌いだからさ」
「我慢してくださいよ。私が教えますから」
「……そんなことを言われても」
美少年に手取り足取り教えてもらえるのは嬉しいことだが、果たして僕に我慢はできるであろうか。一抹の不安を抱えながら、僕は包みからおにぎりを取り出し頬張った。
「ああ! そういうところですよ。歩きながら食べ物を食べないでください。もし私の両親に見つかったら折檻ですよ」
「堪忍しといておくれやす。お腹が減って力がでないどす」
「古都をバカにしないでください。私が怒られるのですよ」
その通り、僕がどう振舞っても迷惑をこうむるのは僕ではない。秋葉には悪いが入れ替わっている間は、普段美を維持するための制約でできなかったことをやらせてもらう。僕は自由の身になったのだ。美しき美貌を被っていた自己中心の魂は、新たな身体なら何の体面も気にすることなく振舞えることに気付いた。しめしめと悪い顔を浮かべながら握り飯を食べ終えると傍らの美少年は僕の顔になにかを発見した。
「清水君、ほっぺに米粒さんがついていますよ。そういう油断が変なあだ名をつけられることに繋がるんですからね──よしっと。これで大丈夫です。はあ、いつになったら元に戻れるのでしょうか」
美少年のたわやかな指先は僕の口角をなぞるとそのまま自らの口へ運んだ。あまりの流麗さは言葉を詰まらせる。美少年はその様子を不思議に思ったのか、言葉を連ねた。
「どうしました? 何か戻る方法でも思いつきましたか」
「いえ──何でもありません」
夢心地に瞳を丸める僕はなぜか敬語で話していた。
「変な清水君ですね」
どこか釈然としない秋葉は首を傾げるが、すぐに前を向き直し今後の方策を考える。僕はというと歩きを遅め、その秀麗な背中を見続けたままある考えが浮かんでいた。
──僕は元の身体に戻りたいのか? この問いに僕は首を縦に振ることはなく、むしろ横に振っていた。今までは突然のことのため、元の美しい身体に戻ることを自然に最善手だと疑わなかったが、ここに至りそれは本意などではないのでないか、という新説が浮上した。
つまり、僕は自分自身が美しくあることよりも、傍らに美しいものがいることの方が幸せではないのか、ということである。僕は幼少期より自分より美しい者を見たことはなく、初恋も自分にした。自分を性的な目で見ており、そのことによって苦しんでいた。愛する者と手を繋ぐことも語らうこともできず、キスをすることも叶わない。だれよりも傍にいるため誰よりも遠かった。
いつしかそのことを払拭するため鏡の世界に思いを馳せ、鏡の世界に自分の似姿である美少年が住んでいるのだと信じてきた。──いや、信じ込んでいただけなのかもしれない。子供じみた現実逃避だと、心の奥底で悟っていたのかもしれない。そして今、確信した。自分の悪あがきを認めた。
鏡の世界などないのだと。自分自身とは一生足掻いた所で結婚はおろか、笑い合うことさえ叶わないのだと。──しかし救いがないわけではない。僕は秋葉と入れ替わった。今の僕は、僕の姿を鏡越しではなく第三者として眺めることが、正当な恋ができるのだ。
そう僕は改めて恋をしたのだ。秋葉の心を核とした僕の身体に。その麗しきかんばせを狂おしいほど純粋に、時間が許すかぎり永遠に。
「どうしました、清水君」
「──なんでもないよ、なんでも」
なんどでも言おう。僕は君に恋をした。
次話掲載
4/17 23:00頃




