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新渡戸の夜 稲造の朝  作者: 紫水ゆうじ
第1章 新暦の神無月
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-新暦の朝-

 ――僕は恋をした。

 初めてそのかんばせを拝んだのはいつのことだったのか。ただ付き合いでいえば両親よりも長く、その眉秀で涼やかな眼元が禁足地に降り積もる新雪の如く淡い面貌に鎮座する様子を、丸みを帯びていた頃から一廉の青年になるまで絶え間なく、誰よりも間近で眺めてきた。


 しかし、誰よりも近い距離にいたにも関わらず、それは誰よりも遠くに感じられた日々であった。この矛盾のようで矛盾でない問答は、常識という見地のせいで歪められたものであり、僕の状況を頭に入れればすんなりと腑に落ちるであろう。


 僕が恋をした相手は同い年、言わば幼馴染にあたり詳しくいえば生年月日まで一緒である。激しい片思いは歳を重ねてもなお色あせることなく、むしろ洗練されていくその貌が宇宙の膨張をも凌駕する速度で胸を圧迫し、僕は恋焦がれた。


 僕が恋をした相手は男、その魅力は野性味あふれるような男らしさではなく、むしろ中性的な両性にとっての理想を体現した風貌にあるといえる。


 ……そして、最後の情報、これが歪みの根幹といえよう。

 その神々しいまで細緻に作りこまれた身体に流れる体液、それこそが忌まわしいまでに僕と彼を結びつけ、遠ざける。 


〞血〟


 この液体は僕と彼の体に寸分違わない成分で流動性を保ち続ける。それは同じ種としての類似ということではない、同じ個体としての――一致という意味である。


 僕らが生まれた育った日本の法では、結婚という愛の集大成、生涯を共にする誓いの儀に臨む際、不可解なことに愛以外の条件が設けられている。


 それは「年齢の云無」「同姓婚の禁止」「近親者間の婚姻の禁止」である。このことを中学の半ばで知った僕は、社会の理不尽さに目を疑った。なんと、僕らの結婚にはこれら三つの禁則事項すべてに該当するではないか! ……現実とはなぜこうも人に厳格であるのだろうか。


 しかし、障害がある恋。それはそれで燃えるものでもある。


 こんな大見得きって笑い飛ばしたもの「……本当にそれだけなのか」と夕焼け色の図書室で背中を丸めた日から歳月を跨ぎ、やっと年齢という障害を自然に突破しようとしていた。

 時は、そんな高校二年の秋。異名を用いれば神無月。肌寒く、染まらず仕舞いの葉が舞い散る二〇二〇年十月一日の朝を動き始めた。



「――仙君、お母さん仕事行くからー。朝ごはん居間のテーブルの上にあるからね」


 よく通るその声は肌寒い空気が流れる日本家屋に響き渡り、会話と発展を遂げること待たぬまま、玄関の閉まる音を最後に、消息を絶った。


「……ああ、もうそんな時間か」


 今日は木曜日。一週間の疲れが体に溜まり、あと二日も学校に行かなくてはならないという事実が、僕の機嫌と目覚めを著しく阻害し、布団にとどまるための口実を与えた。


「ええい――あと、10分」


 お決まりの台詞は誰にいったわけではない。ただ大義名分として、やましい自分の気持ちを打ち消すための景気づけのようなものだ。それから時計の長針は約束どおり10分を刻み、僕は約束どおり未練たらたら起き上がり、布団と別れを述べた。寝惚け眼を擦ると採光窓から入る日光がやけに攻撃的に見える。それも僕の部屋だとなおさら凶暴に感じられた。


和洋折衷の家の二階に位置する僕の部屋は、なんの変哲もなくこざっぱりとした洋室。ありきたりで普通なのだ。〞あるもの〟の品揃えが尋常ではないことを除けば――。


「……この『鏡』たちのせいで、光が騒がしいな。まあ、仕方がないことだけど」


 あるものとは〞鏡〟そう人を映すあの〞鏡〟だ。部屋の至る所に陣取る大量の鏡、種類は手鏡から姿見に到るまでさまざまなご要望に応えるべく揃いに揃っている。それらが無数の鏡面反射を起こし、日光を朝から変なテンションにしているというわけだ。


 部屋を埋め尽くす鏡のキャッチボールに巻き込まれた光たちは、さぞ迷惑だろうが部屋主も迷惑を被っているため、お相子というところだろう。僕は自ら引き起こした光害に目をやられながらも一番のお気に入り、全身をくまなく映すことができるこの姿見を前に一日の始まり、少々宗教的な讃辞を言祝いだ。


「今日も見目麗しい。その美貌を前にすれば、この目まぐるしい光さえも霞む」


 ……いっておくが、僕は妖精の類が見えるほどお花畑ではない。この部屋は僕一人、もちろん妖怪の類もいない……ともいい切れないが現状、視界には映らない。


 そう、僕一人なのだ。この部屋には。


「ならば、その恥ずかしくなるような賛辞は誰に向けられたものなのか?」


 そんな質問、聞き飽きた。幼少期に身内から、修学旅行時に学友から。聞かずともわかってほしいものだ。なぜなら、〞鏡〟に向かっていっているのだから〞鏡〟のなかの人物に決まっているではないか!


 僕の讃辞を一身に受け、鏡面に佇む朝影の名は清水仙太郎。その気高き面容は人の心を奪う性を生まれ持った。無論、人である僕も、清水仙太郎も例外ではない。誰よりも近くでその魔力を浴びてきたのだ、誰よりも深く清水仙太郎に心を奪われているに違いないだろう。


「はあー、美しい。触れてみたい、その肌理の細かき柔肌に」

 恍惚とした表情を浮かべると鏡の中の瀟洒な紳士も顔を歪めた。その欲に眩んだかんばせさえも極上の一品、調度品として飾ればそれ一つで美術館ができる代物だ。


 僕は鏡の前にいる時、幸せの手本となる顔をすることができる。幸せの意味をかみしめることができるのだ。しかし、そんな幸せな僕も、欲が出ることがある。この瞬間、眺めているだけでも十分幸せだというのについ手が出てしまう。その一つ一つが主張し合い整合する端整な貌に――手を、伸ばしてしまう。

そして、気付く。触れられないのだと。鏡越しの世界なのだと……。手垢がついた鏡面に映るあの眉目秀麗な御仁は、この時いつも寂しげで、それが心を締め付けるのだ。


「……美しい貌が台無しですよ」


 僕はクロスで鏡面を拭き部屋から出た。自室の扉を開くといつも家が暗く感じる。目が光になれてしまったからだ。小腹に急かされ二階から居間へと向かう途中、家の設計上、祖母の部屋を横切る。そこからはいつものように不気味な――いや、不思議な呪詛が垂れ流されていた。


「――富普加普 恵多目 祓ひ給え 清め給え。富普加普 恵多目 祓ひ給え 清め給ふ…………おや、おはよう仙ちゃん。今日も今日とて、きまっとるね」


「おはよう、お祖母ちゃん。今日も今日とて、きまっとるでしょ」


 清潔な白装束で神棚に向かう祖母をみていると、よくまあ飽きないな、という感想が漏れる。周りの婆さん世代の中では一回り若い祖母は、神道こと古来よりの八百万の神々を信仰している。その敬虔な信仰心が朝の祝詞を続ける動力となっているのだろう。


「それにしてもその面貌、お祖父ちゃんに、仙作さんにそっくりだ。思い出すねえ、仙作さんと逢引きした神社裏、あの時は…………」


 過去を偲ぶ祖母のやわらかな顔は今日も今日とて変わらず、お祖父ちゃんのこととなると饒舌になることも今日も今日とて変わらない。一頻り喋り終わった祖母は続いて、


「そうだ、仙ちゃんもお爺ちゃんとお父さんに言葉を掛けてあげて二人とも喜ぶから」


 と、右端の空き座布団をポンポンと叩き、お祈りを促した。


「……そうだね、でも、今日は時間がないから」


 祖父と父、うちの男性陣は家柄短命らしく、父は僕が十歳を過ぎて間もなく長逝した。といっても父に幼い頃からそのことは匂わされていたため、父の葬儀はそこまで取り乱さなかったと記憶している。写真嫌いなうちの家系柄、祖霊舎には形見の品しか置かれていない。それは、血筋というか家風というか、奇しくも愛用の〞手鏡〟であった。祖母や母の話を聞くところ、うちの男性陣はなによりも鏡を好むらしい。


 かくいう僕も部屋の惨状をみてもわかる通り、毎年サンタクロースにお願いする程度には好きだ。いや、言葉が足りなかった。『大好きだ』。――しかし、冷静に考えてみるとこれも正解ではないのかもしれない。清水仙太郎の美貌の如く完璧にいうとなると……。


「――仙ちゃん、朝ごはん冷めてしまうよ」


 ついつい変な完璧主義が顔を見せ、佇立したまま考え込んでしまった。


 今日は平日、学生には逃れられぬ苦行が待っている。それにいつもより起床が遅れたこの身には、悠長に思索へ耽る暇はないのであった。


 そうとなれば、まず足を動かさなくてはならない。目標は居間。目標地点へすばやく、そして優雅に移動した僕は、次に口を動かした。少し空気にあたり過ぎたトーストを口に含みながらミルクで流し込む。食事を終えた僕が次に向かう先は自室。髪を風になびかせながら鏡の間に舞い降りた僕は、着なれた学生服に袖を通した。我ながらの迅速で円舞を思わせる秀麗な挙措に、興奮から鼻血が出そうになるのを抑えながらも僕は家を出た。


「いってきます」


「気をつけていってらっしゃい。十月は神様がいなくなりますからね」


「……そもそも神様がいる月なんかないけどね」


 祖母の忠告に似合わぬ反抗を残して――。



次話掲載

4/12 20:00頃

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