ストロボラスト
夕暮れの街。
一面オレンジ色を塗ってから黒い水彩で影を付けたようなこの風景は、なぜだかいつも懐かしさを感じさせてくれる。
ここからだと道を歩く人々はみんな蟻のように小さく見える。風が吹いて、私の髪をなびかせると共に背中を押し出してくる。風に身を任せてそのまま落ちてゆけば、下にいる蟻のようなみんなの仲間に入れるんだ、と少しだけ本気で思えた。だけど現実はそうではなく、きっと、重い頭から着地して、その衝撃によって私は死んでしまうのだ。みんなそのことを知っているから、この柵はあるんだろう。
冬場だから。触ってみると、やっぱり、鉄で造られた柵は冷たかった。柵から手を放さずにいると、私の手を、突然現れた缶コーヒーの熱が襲撃した。
「先輩、買って来ましたよ」
振り返ると、そう言って意気の良い笑顔を見せるスーツ姿の後輩がいた。首からは一眼レフを掛けている。私は笑顔で「ありがとう」と言って、柵を掴んでいた手でコーヒーを受け取った。柵に背中を預けて、缶のプルトップを引き上げる。カスッという軽い音が鳴って、さっきまで浸っていた感傷から抜け出せた気がした。缶を開ける音というのは、不思議と気分がすっきりする。
「いやー、しかし寒いですねー。こういう寒い日には、熱い缶コーヒーが美味しいですよね。……あ、先輩、ありがとうございますねっ。頂きます」
ズズズと音を立てて、後輩は開けられた缶コーヒーをすする。とあることに気が付いたから、そっちから終わらせておくことにする。
「おつりは?」
「え、あ、おつりですか? ん、と……はい。すいません」
ニワトリみたいに調子よく首を下にずらしながら、後輩は釣り銭を私のスーツに付いているポケットの中に落とした。小銭の重量を感じてから、私は缶の口を唇まで運ぶ。濃いコーヒーの香りがした。そのまま缶を少し傾けて、温かいコーヒーを口の中に流し込む。喉を通って落ちていくのを感じてから、私は一息吐いた。寒さの所為か、吐息は白かった。
「あ、先輩。それって、アレですよね、アレ。
何か、写真入れておく……えーっと……なんたらペンダントってやつですよね」
後輩が、私の胸元にあるロケットペンダントを指差して言った。
「あぁ、これ? ロケットペンダントね」
「そうそう、ロケットペンダント」
私は、首から掛けているそのペンダントを、掌の上に乗せた。
「……見たい?」
「え、良いんですか? あ、じゃあ是非」
どうせ減る物じゃないし。
ペンダントのロケットを開いて、後輩に中の写真を見せてあげた。中には、若い男の写真がある筈だ。
「……誰ですか、この人? あ、もしかして先輩の彼氏とか!」
「え、あ、うん……」
そうだけど――――もうこの世にはいないから、多分、「元」彼氏になるんだろうけど。
「へ? いないって……」
「……彼、私と結婚する前に死んじゃったの」
不味いことを訊いてしまった。そんな風な表情をしたまま、固まる後輩。
なんとなく悪い気がしたから、フォローしてあげることにした。
「……話、聞いてくれる?」
「え……。い、良いんですか?」
私は深く頷いて、オレンジ色の街に背中を向けてから、一人、語り始めた。
※ ※ ※
私と彼が出会ったのは、高校生になるとき。入学式のことだった。
まるで少女漫画のような出会い方。
初めての高校で、私は道に迷っていた。方向音痴である私は、式が行われる体育館までの道が分からず、色んなところを行ったり来たりする。
日当たりの良い渡り廊下や、薄暗い教室。何度も同じ場所を通ってる気がしてきた。もう直ぐで式が始まるのに、中々辿り着けないから、そろそろ諦めようと思った丁度その時、ひとりの男子生徒が現れた。
「君、新入生だよね?」
声に反応して、私は顔を上げた。
綺麗な二重まぶたに、ストレートのショートカット。光に照らされた白い肌。ラフに着こなした制服。爽やかな雰囲気の少年だった。
私が軽く頷くと、「じゃあ僕と同じだ」と笑顔で彼は言う。
「もう直ぐ入学式始まるよ。急がなきゃっ」
今初めて知り合ったにも関わらず、彼は私の腕を掴んで、急ぎ足で歩きだした。
彼は笑顔なのに、私の顔はきっと真っ赤なんだろう。
一目惚れしてしまったから。
入学式が終わってから、私は彼の姿を捜した。
私と同じ新入生達の中を掻き分けながら、前へ進む。だけど見つからない。
校門に先回りして、捜してみた。でも、その日はアレ以降、彼を見かけることは無かった。
次の日。式があった日に教室に入ってなかった私は、初めて自分のクラスに誰がいるのか知ることになる。
自分の席に座ってみると、丁度前には、どこかで見たことあるような大きな背中があった。そういえば、彼と初めて会った時、私は殆ど彼の背中しか見てなかった気がする。
そんな彼の背中と、どこかよく似た正面にあるものに見惚れていると、前からプリントが配られてきた。背中の人が振り返りながら、プリントを私に渡してくる。
その時だった。
振り返ってきた背中の人と目があう。
「あ……」
お互いの呟きが、口から出てきた。
綺麗な二重まぶたに、ストレートのショートカット。光に照らされた白い肌。爽やかなな雰囲気。
そこにいたのは、紛れもなく、昨日の彼だった。
「あ、ありがとっ……」
何か言わないと気まずいと思って、そう言ってプリントを受け取った。恥ずかしさに顔を伏せる。
彼は今もこっちを見たままなのだろうか。もし見たままだったらどうしよう。私に、恥ずかしさで真っ赤になった顔を、晒せる程の勇気はなかった。
目線だけ動かして確認してみると、彼はもう前に向き直っていた。少し名残惜しさを感じながら、私は顔を上げて、彼の背中を見つめている。号令が掛けられても、彼が立つまでは気付かず、少し遅れて私は起立した。
結局、私のHRは彼の背中を見ているだけで終わった。
号令が終わった直後、目の前の彼が、座ったまま身体ごとこっちに向き直る。
「君、昨日の新入生の子だよね。同じクラスだったんだ。よろしく」
驚く暇も与えずに喋り掛けてきた。
おかげで困惑する私。
「え、あ……は、はい。昨日はどうもありがとうございました……」
彼は変わらない笑顔だ。こっちが困惑してることに気付いてないみたい。
「いいよいいよ、全然。気にしないで。
あ、それよりさ……君、名前なんていうの? 僕は双葉宗司。ふたつの葉っぱに、宗教の宗を司るって書くんだ」
「え、えっと私は……日下部まや……って言います。まやはひらがなで」
「ふぅーん」といった感じで、彼――――双葉君は、頬杖を付いてこっちを見てくる。
「まや、かぁ……可愛らしい名前だね。なんとなくだけど
ねぇ、名前で呼んでもいいかな? まやちゃん、みたいな」
笑顔がとても眩しい。
「べ、別に良いですけど……」
そう言うと、彼はなぜかくすくす笑った。
どうしよう。私、何か恥ずかしいことでも言ってしまっただろうか。
「あのさー、まやちゃん。何で敬語なの?」
まだ半笑いしている。
あれ、敬語は駄目だったかな……?
「いやさ、僕達まだ同級生だよ?」
そしてまだ半笑い。
「あっ……。で、でも、まだ出会ったばっかりだから……敬語の方が良いって思ったんですけど……」
彼が言うには「そうでもない」らしい。「じゃあ……」というわけで、私は双葉君にタメ口でしゃべることにした。
「へ、変じゃないかな?」
少し間を置いてから、また彼は半笑いし始める。
「変なわけないじゃん。それが普通なのっ」
「う、うん……」
その休み時間は、双葉君とずっとそんな感じで話し通して、気付くと直ぐに終わっていた。
幸せな時間が直ぐに過ぎていくっていうけど……これが、そういうことなのかな。
HR終わりにあった休み時間のことを機に、私と双葉君は段々と仲良くなっていった。
春には私の幼馴染と、彼の幼馴染と、そして私と双葉君の仲良し四人組で花見をしに行った。夜の月明かりに照らされた桜吹雪は、それはそれはとても綺麗で、この春一番の思い出になったと思う。夏は、みんなで文化祭を回ったり、旅行に行ったり、特に部活もしてなかった私達は、炎天下に晒されながら青春を謳歌した。秋は、焼き芋を焼いたり、写真を撮るのが好きだと言う双葉君の趣味に付き合わされて、みんなで神社巡りをした。特に印象に残ったのは、建物の方じゃなくて、絵馬に描かれた色んな絵だったけど、楽しかった。何より私は、双葉君が楽しそうにしているのが嬉しかったんだと思う。
そして冬。
クリスマスという一台イベントがあるこの季節は、一番勝負の時期だと思ってた。
みんなでパーティーをしようという企画も立てられていたけど、幼馴染が気を利かせて廃止にしてくれた。「これでまやは、気兼ねなく双葉君とデートできるわよね」って。
クリスマス・イヴの前日。幼馴染が背中を押してくれたこともあってか、私はやっと、双葉君をデートに誘うことができた。
勝負は次の日、クリスマス・イヴ。
張り切って、寝る前に勝負下着を穿いたのを、今でも覚えている。
当日の夕方になって、私は待ち合わせ通り商店街の噴水前にいた。遅れて双葉君が駆けつける。
息を切らしながら、「いやぁ、ごめんごめん。遅刻は減点だよね」と、頭を掻きながら笑う。私も、笑いながら「お疲れ様」って、言ってあげた。
まずはデパートで買い物をして、その後にレストランへ向かう。会話は弾んでいて、何かこそばゆい感じだった。
今日の、このデートのレストランは双葉君が決めてくれたところ。結構豪華なところでビックリした。
でも、何よりビックリしたのは――――
「ね、ねぇ……双葉君。私ね、実はその……」
恥ずかしさを隠せない。だけど、今が一番の勝負時だから、今じゃないといけない。
言うなら今だ。頑張れまや。
「……ねぇ、まやちゃん。ちょっとさ……良いかな?」
そう言うと彼は、部屋の隅にいる店員さんに何故か目配せした。
え……? どういうこと?
次々とテーブルから運ばれていく空いたお皿。
そして、入れ替わりで現れたのは、大きなケーキ。
気付けば、店のBGMもさっきまでも違う気がする。
まさかとは思うけど、これって……。
「これは僕からのクリスマス・プレゼント。そして、もうひとつ……」
彼は深呼吸をした。
周りから伝わる筈の雑音が、今はもう聞こえない。この先が予想できたから。
この瞬間はもう、これだけでいい気がした。
「好きだ。僕と付き合って欲しい、まや」
そして二年という年月は、直ぐに過ぎていった。
付き合ってからの私達は、なんら昔と変わっていない気もする。
宗司がいつも撮ってくれた写真を見れば、簡単に比較することができる。変わったのは私と宗司のツーショットだけ。
腕を組んだりとか。昔は無かったそういう写真がいっぱい。
あ、でも決定的に変わったものがある。
宗司と私の会話の内容とか。デートの頻度とか。
今では「将来結婚しよう」とか、「子供は何人欲しい?」とか、デート中に、笑いながらよく話す。
その時の私達は、ずっとそんな日々が続いていくと、信じて疑わなかった。
また一年という年月は、あっという間に過ぎてしまい、私達は高校を卒業することになる。
卒業式の打ち上げは、四人でやろうかやらないかみんなで話し合ったけど、「いや、二人の時間は貴重でしょ?」なんて、宗司の幼馴染と仲良く腕を組ませて言う私の幼馴染が、私と宗司だけの時間を作ってくれた。
何処に向かうか二人で話し合って、レストランに行くことになった。私と宗司が付き合うことになった、思い出のレストラン。
また他愛もない会話をしながら食事を終わらして、レストランの中で記念撮影をさせてもらった。
高校生最後の写真。私と宗司の、生きた証。
それは、宗司のカメラの中に、私達四人組の思い出と共に残された。
帰りのこと。
私がふざけて、宗司より前に行って、信号を渡っていた時。
「ふふっ、宗司おっそーい」
彼は急がず、私に向かってきた。
「もー待ってよ、まや。君は元気だなぁ」
相変わらず、笑顔が眩しかった。
でも、人の表情なんて容易く変わってしまう。次の瞬間には、彼の表情が歪んでいたように。
「あれ?」も「どうしたの?」も無かった。
彼は駆け出して、私に向かってくる。
「え……」
左から、黄色い光が接近しているのに、今更気付いた。
大きな影に、光が二つ。
宗司が私を押し出した。
そして、こっちを向いて、最後に笑いかけてきた。
鈍い音を立てて。ビックリするぐらい勢いよく、紅い液体が道路一面に飛び散った。
※ ※ ※
「で、この写真は、そのレストランで撮った写真。彼の、最後の写真」
言いながら私は、ロケットの中にある宗司の写真を後輩に見せた。
「……な、何かすいませんでした。悪いこと訊いちゃったみたいで……」
それでも後輩は悪い気がしてならない雰囲気だった。
別に気にしなくてもいいのに。
「あ、でも先輩。写真が好きだったその先輩の彼氏さん、もう写真が取れなくて残念そう……って言ってましたよね?
だったら、こうすれば良いんじゃないですか」
フラッシュがたかれた。後輩が、首から掛けた一眼レフを使ったみたいだ。
「こうしたら、先輩の彼氏さんが写ってる写真、それが最後じゃなくなりますよっ」
見せたままの宗司の写真を、私は少し見つめてから、ロケットを閉じた。
「……ありがとう」
「写真には人の魂が宿るって言いますから、思い出作り、まだまだ間に合うと思いますよ」
綺麗な二重まぶたに、ストレートのショートカット。夕日に照らされた、眩しい笑顔。爽やかな雰囲気。
首から掛けられた一眼レフは、宗司が使っていたものと同じ機種だ。今もあの中に、思い出がある気がしてしまう。
後輩・双葉宗谷は、私の婚約相手だ。