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98.暇乞い

 故大納言の北の方は、今夜お帰りになるつもりです。お別れの挨拶をしようと四の君が出て来ると、母北の方は言い尽くしようがないほどお泣きになります。四の君はこの方にとって最愛の娘なのです。


「私は七十になりますが、何としてでもあと、六、七年は生きていたい。再びあなたに会わずに死ねるものですか」と言って泣くので、四の君もとても悲しくなり、


「だからこそ今度の結婚は『どうなのだろう』とお聞きいたしましたのに。私は母上が生きていらっしゃる間は母上のお傍にいて、後に尼になろうと思っていたのですが、母上が強いて言う事を聞くようにと私を三条の邸に行かせたので、こういう事になってしまったのです。帥殿の妻となってしまった今となっては、都にとどまるべきではないでしょう。そのように心をすり減らさないでください。母上がいくらお歳を召そうとも、再び会わないなどと言う事はありませんから」と、母上を慰めようとします。けれど北の方は悲しみのあまり、


「ええい、これは私のした事ではない。左大臣殿がした事だ。あの方が私を悲しい目に遭わせようとして腹汚い事をなさったのだ。どうしてこの結婚を嬉しいなどと思ってしまったのだろう」

 

 と嘆かれるので四の君は、


「今となってはそのような事を言っても仕方がないではありませんか。しばらくの間とはいえ、母上の御手もとを離れなければならない、わたくしの宿命だったのでしょう」


 と言ってお慰めします。二人ともいつまでも互いに嘆き、慰め合っている物ですから、息子の少将は、


「世に親子の別れは良くあることですが、こんなことを言い続けて泣いてばかりいる物ではありませんよ。聞いていられません」と、言い聞かせていました。


 帥は左大臣の三条の邸に、赴任のための暇乞いに参上しました。左大臣は帥と対面して色々なお話をします。


「身内でなかった頃も御心を気にかけていましたが、まして縁続きとなった今では余計に親しく思っております。そちらにいる四の君について筑紫に下られる小さな女の子を可愛がって上げて下さい。故大納言殿が大変愛おしみ、可愛がっていた子なので、私の手元で御育てしようと思っておりましたが、四の君の母上の北の方が一人御自分の御手もとにおいていたその子を、四の君がお一人で筑紫に向かわれるのを心苦しく思われて、付き添わせたいとおっしゃるものですから、とどめる事が出来なかったのです」


 と、左大臣がおっしゃるので、帥も、


「そのような大切なお子様なのですね。私も自分の心の堪える限りを尽くすつもりでお世話いたしましょう」とおっしゃいました。


 日暮れ時に帥が御帰りになるので、左大臣は装束を一揃えを被き物に、賢い御馬を二頭与えられました。それは大変細やかな贈り物でした。


 ****


 いよいよ四の君が都を離れる時が近づいてきました。覚悟していた事とはいえ、娘たちの中で最も可愛がっていて、それゆえに北の方の運命に翻弄されてしまい、その哀れさから余計に愛おしく思っていたであろう四の君を手放さなければならないのは、娘と孫の幸せのためとはいえ北の方にとっては身を斬られるような思いを味わっているようです。四の君の方でも帥との結婚には、『さればこそ(だから)『いかが』とは(『どうでしょう』と)聞こえ侍りしか(お聞きしたのに)』と、老いた母親と遠く離れることだけは後悔があるようです。


 普通、大宰府への任期は五年と定められていたそうです。けれどここで北の方は『六、七年生けらむとする』と望んでいます。これは舟泊まりや潮待ちの日にちも考慮した、筑紫への往復の月日を加え、確実に四の君に再び会える時間を指しています。ここで、帥や四の君がどんな旅をしたか考えてみましょう。


 筑紫と朝廷の関係は古代より深くかかわりがあり、瀬戸内海を使ったルートによる旅はこの頃でさえ古い歴史があっただろうと思われます。外海の日本海や、太平洋を航海する事に比べたら、格段に安全な旅と言ってよかったでしょう。

 京の都には桂川や鴨川が流れています。けれど下向のために使う舟はもっと大きな流れになった川でなければ使う事ができなかったようです。そこでさらに木津川、宇治川も合流する淀川から舟の旅は始まりました。


 まずは都から車で行列を作り、淀川の始まりとなるあたり、山崎の地に向かいます。見送りの人々もここまで共に行列を作りました。今の地図で見ると京都線山崎駅がありますし、そこから少し南下したあたりで川が合流しているようです。ここで見送りの人々と別れ船に乗り換えたのでしょう。

 大きな流れになってから乗る舟とはいえ、それでも小型の木造船による船旅です。高貴な人を乗せて無理など出来ません。風と潮の流れを読みながら、人の手によって漕いで海を渡るのです。時間も労力も大変かかりました。当時は住吉大社へのお参りも盛んだったようなので、いきなり海に出るようなことはせず、大阪あたりでまずは宿泊したのではないでしょうか?


 手元に「官公西下かんこうせいげの舟」と言う舟の絵の写真があるのですが、これはかの菅原道真すがわらみちざねが左遷され、筑紫に向かう様子が描かれています。書かれたのは平安時代ではなく三世紀後の鎌倉初期で、舟もその頃の船とのことです。片側側面に四人の漕ぎ手が舟を漕いでいて、当然もう一方にも同じ漕ぎ手がいると思われます。形状は今の手漕ぎボートをとても大きくしたような形の船に、大小二つの屋形が乗せられています。その中に高貴な人が乗っているのでしょう。


 この船には帆がありません。なんでも帆を使って本格的に舟が走行したのは、帆布とする木綿が普及する、十五世紀以降の事だったそうです。遣唐使などに使われていた大型船は本当に特殊で、僅かに使われていた帆も、帆柱を船に中央に立てて、たまたま吹いてきた追い風を利用する程度の技術しか無かったそうです。

 帆もなく、八人の人の手で漕いでいく舟です。一日に進める距離など知れています。内海とはいえ天候にも左右されたでしょう。そんな旅を「高貴な方に難が降りかからない様に」と気を使いながらするのです。現代では考えられないほどの時間を費やす旅だったことでしょう。


 四の君の弟の少将が、播磨の国にいる兄に帥の一行が寄った時の接待の準備を頼んでいますが、そうやって知人への挨拶や、他の国の国守達との親睦も図ったことでしょう。行く先々で宴なども催されたでしょうし、余計に時間がかかったことでしょう。平安時代の船旅の詳細は「土佐日記」に書かれているのですが、土佐とは現代の高知県で、筑紫に比べると都からそれほど遠くは思えません。けれど土佐日記によると紀貫之きのつらゆきが土佐から帰京するのに五十四日もかかっています。


 航海技術が稚拙で沿岸海域しか走行できなかったことに加え、航海する何倍もの時間を逗留にあてられているからです。これは貴族の交流術として必要だった他に、海賊の襲撃を逃れるための手段でもあったようです。当時の旅は今のようなスピード重視の移動とは違い、安全と、貴族としての交流が重要視されたようです。旅と言うのは地方に散った貴族たちとの交流や情報交換のためのものでもあったのでしょう。これでは筑紫まで半年近い時間がかかっても不思議はありません。


 こんな旅路に娘がもうすぐ向かおうとしているんです。しかも北の方は七十近い老婆となっていました。ひょっとしたらこれが永久の別れになるかもしれないと言う思いは当然あったでしょう。まるで我儘な幼子のように、泣いて四の君や孫姫との別れを悲しんでいます。娘たちの幸せを祈りつつも目の前の悲しみはどうしようもないんですね。


 挨拶にやってきた帥に左大臣は、四の君に付き添う少女は四の君の母が大変に可愛がっていて、本来なら自分が引き取って育てようと考えていたほど目にかけていたのだから、くれぐれも可愛がってほしいと頼みました。これは姫君が前夫の子であることを隠しているため、いかにも姫が故大納言の娘であるような口ぶりで、姫君に偏見を持たない様に気を使ったようです。

 それでなくても時の権力者である左大臣が、自分で育てようとまでしていた子を疎略になど扱う訳には行かないでしょう。帥もこの娘には特に目をかける必要があると思ったようです。


 ****


 帥は邸に帰ると四の君に、


「左大臣殿があなたと共に下る姫君を可愛がってほしいと言っておられた。小さな姫君はいくつになられるのですか」とお尋ねになります。


「十一ばかりになりますわ」と四の君がお答えになると、帥は不思議そうに、


「年老いていらっしゃるとお見うけしていた故大納言殿に、どうしてそんなに幼いお子様がいらっしゃったのだろう」とおっしゃっているので、面白いものです。


「ところで三条邸からいらしていたあちらの侍女たちが帰るときには、何をお与えになるつもりですか」と帥が四の君に聞きましたが、


「何も考えていません。相応しい物もありませんし」とおっしゃるものですから、


「それはあんまりな。この何日か、ごくごく身近に仕えた者たちではありませんか。それをただ帰されようとするとは」


 と、気恥しげに言うと帥は、


「この方はこういう気配りが苦手な方なのだな」


 と思って、残っている物を取りだしてくると、大人には三人には絹四疋、綾一疋、蘇芳一斤を、童には絹三疋に蘇芳、下仕えには絹に蘇芳を添えて与えたので、三条邸の侍女たちは、帥殿は自分たちにも心を配って下さる方だったのだと思いました。


 ****


 帥はすっかり四の君の娘の姫君を、故大納言殿に年老いてから授かった子だと思い込んでいるようです。色々と想像している事だろうと、作者は面白がっていますね。

 今の私達から見れば、なんだかだまし討ちのようにも思えて気の毒ですが、子供が母親の付属品扱いだった時代には、このくらいの事は頻繁にあったのかもしれません。それでなくても女性が男性の所有品扱いだったんですからね。こういう事も人間関係の知恵だったのでしょう。


 三条邸の北の方が四の姫に従うようにと付き添わせた侍女たちも、三条に帰る事になりました。彼女たちに労をねぎらう禄は何を与えるのかと帥は四の君に聞きましたが、長く零落した暮らしをしていた四の君には、そういう気働きがありません。何の用意もしていないと言われ、帥は女主人として四の君には能力がない事を知ってしまいました。


 若い婿ならこれは下手をすれば夫婦の危機にもなりかねなかったでしょう。高貴な身分の貴婦人として邸の運営能力がないのです。何のために共に下向するのか分からないと言われても仕方がないかもしれません。普通の女性なら筑紫にだって沢山いるでしょうからね。

 けれどこれが大人の余裕なのでしょうか? 帥は侍女たちに気まずいながらも、自分であり合わせの品を出して来て体裁を整えました。四の君に女主人として恥をかかせないようにしたのです。貴婦人としての暮らし方を身につけるように、自分で示し、育てるくらいの気持ちでいるのでしょう。


 勿論、縁を結んだ時の人、左大臣の顔を潰すわけにはいかないと言う事情もあったでしょうけれどね。


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