87.忌籠り
故大納言の喪に服すため、男君、女君の誰もかれもが普段とは違う低い床に移られてお籠りになられます。寝殿には徳の高い僧侶たちが、大変多くお籠りになりました。
大将は故大納言邸にお越しにならない日はありませんでした。穢れに触れぬように屋外に立ったまま女君とお会いになり、忌み籠る間にしなくてはならない事を教えて差し上げたりしています。
女君がとても濃い鈍色の喪服を着て、精進なさっているため御顔の色が少し青ざめているのが実に悲しげに見えるので、大将も泣きながら、
「 涙川わが涙さへ落ち添ひて
君が袂ぞふちと見えける
(あなたの流す涙の川に、私の涙も共に落ちてしまい、あなたが着ている藤衣の袂が、淵のように見えてしまいます)」
とおっしゃるので女君も、
「 袖朽たす涙の川の深ければ
ふちの衣ぞ言ふにぞありける
(濡れた袖が腐ってしまうほど涙の川は深いので、藤の衣は、ふちの衣と言うのでしょう)
とおっしゃいます。
大将がそうして故大納言邸へと行き来している間に、三十日間の籠居による御忌が終わったので大将が、
「今から三条邸に帰りませんか。子どもたちもあなたを恋しがっていますよ」
とおっしゃいますが、女君は、
「いいえ。あと僅かな日にちしかないことですから、御四十九日を終えてから帰ります」
とおっしゃられるので大将も夜はこちらの邸にお泊りになられました。
****
亡くなった大納言のための服喪が始まりました。この服喪の期間は色々な事が日常とは違う形で行われます。生の世界と死の世界をはっきり分けて穢れを寄せ付けないための工夫なのでしょう。現代の弔事とは随分違いがあるようです。
まず、弔事のためにかける時間が違います。近親者が亡くなれば、三十日間にわたって穢れを慎むため、邸の中に籠る必要があります。故人は亡くなった直後は殯宮と言う場所に移され、北枕に寝かされます。出家姿にされ、周りは屏風で囲まれ、灯明を灯し、香が焚かれます。そこに僧侶を呼び経を読んでもらいます。
そして近親者の忌日を避けて、葬列を作り葬送されます。このお話では大納言の葬送は死後三日目になっていましたね。葬送は辺野送りと呼ばれ、都に住む貴人は鳥野辺などの葬地に送られました。そこで儀式が行われた後、荼毘にふされます。葬地には経が埋められ、五輪塔が立てられました。お骨は別でお寺に納められたようです。そして寝殿の母屋を亡くなった方を弔うための仏間とします。この仏間に僧侶たちは籠って読経を上げ続けたのでしょう。
さらに近親の家族は暮らす空間も普段と変えたようです。廊や渡殿の板敷を外して土間のような空間を作り、それを「土殿」と呼んでそこに籠って故人の冥福を祈り続けます。このお話では大納言の葬儀のために立派な高僧が多く集められたようですが、もちろん僧侶も仏間に籠り続けます。しかも七日の区切りごとに法事を行わなければなりませんでした。これは今でも「初七日」と「四十九日」の法要として習慣が残っています。当時はそれが四十九日間ずっと続いていたということですね。
けれど貴族たちはその間、身を慎み精進する日々を送らなければならなかったようです。もちろん本当の修行僧や、修験者ほど厳しい修行をおこなう訳ではないでしょうが、普段人にかしずかれ、華やかに暮らしている人々にとっては厳しい生活だった事でしょう。ですがそういう生活だからこそ、悲しみを癒やすことにもなるのでしょう。
大将は帝にお仕えしなければならないために死の穢れに触れるわけに行きません。相変わらず女君とは離れた生活で、毎日故大納言邸に通っては女君と屋外で立ったまま会う日が続きます。仏事に関して縁のない女性は男性ほど詳しくは無いようで、大将は女君に色々儀式に必要な事を伝えに来ているようです。けれどこの人は女君と会えない事がかなり辛そうですから、大納言殿を弔うだけでなく、女君の顔を見たい一心かもしれませんけど。
長い精進を必要とする喪中です。女君は悲しみも相まって顔色にも出てきた様子。しかも身を包んでいる衣が喪服である鈍色(灰色)の「藤衣」ですので、余計青く見えるのでしょう。
「藤衣」とは当時の喪服の事で、本来は鈍色ではなく、素服と呼ばれた藤のつるの繊維から作った、何の染色も施されていない簡素で粗末な使い捨ての衣の事を言いました。ですからもともとは乾燥した繊維の色や、粗末な麻で作られたそのままの色が喪服の色だったのです。
そのうちに仏事などに着るための鈍色の衣が用いられ、喪服その物が「藤衣」と呼ばれるようになったようです。由来の名残が名前だけに残ったんですね。大将と女君の連歌は、それを踏まえて歌われているんです。
とても濃い鈍色を着ているというのも、故大納言が女君の実の父親だからです。もとは素朴な色や白だった喪服も、染める色が濃く、暗くなるほど悲しみを表す象徴となっていきました。この頃には鈍色の濃さは亡くなった故人との関係によって濃さが決められていました。故人が父親や夫であった場合が最も濃い色を身につけ、最大の哀悼を表したのです。それがついには平安も後期に入ると貴族の喪服は黒に統一されます。文化本来の意味からどんどん離れて形骸化していく様子がこんなところからも垣間見えます。
そんな色の濃い藤衣。大将の歌は藤衣の藤と、悲しみの淵をかけて歌っています。女君の返歌はそれを踏まえて、その悲しみが袖が朽ちるほどに深いと返しています。互いが悲しみを共有して、慰め合うための歌なのでしょう。女君の身を心配する大将と、その心に感謝をする女君との優しい歌の交わし合いですね。
三十日間の忌籠りが終わり、大将は子供も恋しがっているから邸に戻って欲しいと言いますが、女君の悲しみは深いようで四十九日を終えてから帰りたいと言います。死後四十九日間は中有に死者の霊魂が迷っていると考えられていたので、その間は父上のために冥福を祈りたい気持ちがあるようです。中有とは仏教で死んだ者の魂が生まれ変わるまでの期間の事で、主に四十九日までの間をそう呼んでいました。
どうも忌籠りが終われば忌は終了したことになるようですね。その夜から大将は女君と共に故大納言邸で過ごすようになりました。
****
あれよと言う間に御四十九日を迎えました。法要は故大納言邸にて催されました。初七日から七日ごとに行われた法要も、これで最後と言う事で、大将はとても盛大な法要を催すようにと指示をなさいます。大納言の子供たちも、我も我もとそれぞれの身分なりに大将に従ったので、大変盛大で、威厳に満ちた法事となりました。
法要が終わると大将は早速、
「さあさあ、早く三条邸に帰りましょう。グズグズしていると北の方に、また閉じ込められてしまう」とふざけて言う物ですから、女君は、
「まあ、なんてよろしくないおっしゃいようでしょう。今は間違ってもそんな風におっしゃらないでください。こんな事を母上がお聞きになったら、あの日の事をまだ忘れずにいるのだと思われて、何かと思い慎まれることでしょう。これからは亡き父上に代わって、母上に可愛がっていただきたいと思っておりますのに」と、不機嫌におっしゃいます。大将は、
「もちろんですよ。御姉妹の方々にも、あなたの方からお訪ねになられると良いでしょう」
とおっしゃいました。
****
時の立つのは早く、四十九日の法要も無事に済んだようです。それも『きらぎらしき法事』と書かれていて、これまでの弔事その物が沢山の高僧を招き、お籠りいただいて、威厳ある弔事だったろうと思うのですが、その締めくくりに、より厳めしい法要が行われたようです。もう、想像がつきませんね。
長々と女君と離れて暮らし、忌籠りを終え自分の邸に戻らずに故大納言家に通っていた大将は、ようやく女君が自分の邸に戻ってくれるので少し浮かれ気味だったようです。
法要が終わった途端に軽口が出てしまい、しかもそれがきつい冗談だったものですから、女君にたしなめられてしまいます。大将にしてみれば女君と長々離れた暮らしをしていて、もううんざりというのが本音なのでしょうが、故大納言邸の人々からすれば、ようやく弔いを済ませて、死の悲しみから心を立ち直らせなければと思っているところでしょうから。
そう言う時にこの冗談はたちが悪かったですね。大将も慌てて他の姉妹と御心を慰め合うように助言をしました。
ようやく帰って来てくれる女君がご機嫌斜めでは、大将もつまらないでしょうから。
貴族社会が黒く染め上げた喪服でしたが、貴族の衰退と共に喪服の色は白に戻ってしまいました。
もともとが色の無い物を着る習慣でしたし、濃い色に染め上げるというのは染料も時間も手間も大変に掛かります。
貴族の優雅な生活が衰退すると、ぜいたくさを競う黒より、現実的な白い喪服が復活したようです。何より古代からの習慣と言うのは、貴族以外の人々には簡単に変えがたい物があったのかもしれません。
喪に関わることを変化させるというのは、なかなか勇気のいる事なのでしょう。




