83.七十の賀
老中納言の七十の賀は、十一月十一日に行われました。このたびは大将が老中納言家の人々を皆率いてきて、ご自分の三条の邸にお迎えになって催されます。詳しい事はうるさくなってしまうので書きませんが、あの、法華八講の時と同じように人々が多く集まって、ただ、大変盛大で豪華に行われました。
屏風の絵の事や、行われた行事の事など、とても多くの出来事がありましたが、書かずにおきます。ほんの、記録の代わりに端の方に立ててあった一枚の屏風に書かれた歌だけ、書いておきましょう。
朝ぼらけ霞みて見ゆる吉野山春や夜の間に越えて来つらむ
(お正月の歌です。
元旦に夜が明けはじめると、吉野山が春霞にかすんでいた。夜の間に春が吉野の山を越えて来たのだろうか)
二月、桜の散るを仰ぎて立てり。
桜花散るてふことは今年より忘れて匂へ千代のためしに
(二月、桜散る様子を、立ったまま仰ぎ見ています。
桜の花よ。今年から散ることを忘れておくれ。千年後の例えとなるように)
三月三日、桃の花咲きたるを、人折れり。
三千年になるてふ桃の花盛り折りて挿頭さむ君がたぐひに
(三月三日、咲いた桃の花を、人が手折っています。
三千年に一度実がなるという桃の花が花盛りを迎えた。この花を折って髪に挿し、御長寿のあなたにあやかろう
三千年に一度だけ実をつける桃と言うのは、漢の武帝が西王母からもらったとされる、仙桃のことです。長寿の象徴です)
四月。
時鳥待ちつる宵の忍び音はまどろまねども驚かりけり
(四月。説明文はありません。
ほととぎすが鳴くのを待っている夜は、忍んだ鳴き声が聞こえると、まどろんでいた訳ではなかったはずが、その声で目を覚ましてしまった)
五月、菖蒲葺く家に時鳥鳴けり。
声立てて今日しも鳴くは時鳥あやめ知るべきつまやなからむ
(五月、菖蒲を軒先に葺いている家に、ほととぎすが鳴いています。
今日になってほととぎすが鳴くのは、端(軒先)に菖蒲が無ければ文目(区別)を知る端(手掛かり)が無かったからなのだろう
「あやめ」に「菖蒲」と「文目」「端」と「つま」をそれぞれ掛けた、かけ言葉の歌です)
六月、祓えしたり。
禊する川瀬の底の清ければ千年の影を映してぞ見る
(六月、水無月祓をしています。
水無月祓の禊をしている川の浅瀬の底が清く澄んでいるので、千年も長生きしたあなたの姿を映して見ています
水無月祓とは夏越しの祓とも呼ばれ、十二月の師走の祓と年に二回行われる禊の儀式です。人々が過去半年間に犯した罪穢れを祓い清めるため、川や海岸で祝詞をあげて、身に水を注ぎます。川瀬とは川の浅瀬の事。その水の清らかさと、千年の影とは千年生きた人の姿の事で、長寿の素晴らしさをたたえています)
七月七日、七夕祭れる家あり。
雲もなく空澄みわたる天の川今や彦星舟渡すらむ
(七月七日、七夕祭りをしている家があります。
空に雲もなく澄み渡っているので、天の川に今、彦星が織り姫に会いに舟を漕いでいるのだろうか)
八月、嵯峨野に所の衆ども、前栽掘りに。
うち群れて掘るに嵯峨野の女郎花つゆも心を置かで引かれよ
(八月、嵯峨野に蔵人所で雑務をしている役人達が、宮中に植えるための植栽を求めて掘りに来ています。
大勢の役人達が掘っているのは、宮中に植え直すためなのだから、嵯峨野の女郎花よ、心置きなく露も共に引き抜かれるといい)
九月、白菊多く咲きたる家を見る。
時ならぬ雪とや人の思ふらむ籬に咲ける白菊の花
(九月、白菊が多く咲いている家を見ています。
まがきに咲いている白菊の花を見て、人は季節外れの雪だと思うのだろうか)
十月、紅葉いとおもしろきなかを行くに、散りかかれば、仰ぎて立てり。
旅人のここに手向くる幣なれやよろづ世を経て君に伝へむ
(十月、紅葉がとても美しく色づく中を歩いていると、葉が散りかかってくるので立ち止まって仰ぎ見ています。
この紅葉はまるで旅人がここに手向けた幣のようだ。長い世に渡ってあなたに伝え続けたい
この歌は上の句と下の句の意味に繋がりがありません。歌としてきちんと成立していないようなので、書き写された際の手違いで上の句は十月のもの。下の句は十一月のものだろうと解釈されています。幣と言うのは神事に使われる、二本の紙垂を竹または木の幣串に挟んだもので、御幣とも呼ばれます。垂れかかってくる紅葉がそのように見えたのでしょう。下の句は長寿を暗示させる言葉です)
十一月、山に、雪いと高く降れる家に、女眺めて居たり。
雪深く積もりて後は山里にふりはへて来る人のなきかな
(十一月、雪がとても高く降り積もった山の家に、女が外を眺めています。
こんなに雪が深く積もってしまった後は、この山里にわざわざ来る人もいないだろうなあ
十月に十一月の歌を写し間違えているので、おそらくこれも十二月の歌と思われます。この歌も「ふりはへて(わざわざ)」の「ふり」を、雪の「降り」に掛けています。雪に阻まれ、待ち人が訪れずにいる女性の哀れさを詠んでいます)
御杖の。
八十坂を越えよと来つる杖なれば突きてを上れ位山にも
(御杖の歌。長寿の賀を祝う時には、老人に杖を贈るのが習わしでした。その杖に寄せた歌でしょう。
多くの坂を越えるようにとやって来た杖です。この杖をさらに突いて、八十歳まで長生きして山を思わせるような位にも昇進して下さい)
などと書かれてありました。
広くて風情のある三条の邸のような家の、鏡のような池に、竜頭鷁首の舟を浮かべ、楽人達がそれに乗って管弦を演奏しているのは、大変面白い様子で上達部や殿上人は座りきれないほど多くいます。
右大臣がおいでになり、お持ちになられた贈り物の中には、被け物が数えきれないほど入っています。中宮(皇太后)からも、大袿十襲、中の君の夫の中納言から、被け物十襲など、さまざまに贈られましたが、中宮の侍女達や、女蔵人も皆、見物したいと言うので、被け物も足りなくなりそうな勢いです。老中納言は御病気もたちまち治まって喜ばしい事でした。
一日中管弦の演奏をし、行事が終わると、夜も更けて退出なさるすべての人々、被け物を与えられない人は誰もいませんでした。身分の高い方には、さらに贈り物が添えられました。
右大臣は老中納言に大変素晴らしい馬を二頭、世にも名高い筝の琴を二振り差し上げました。御先駆の人々にもそれぞれ身分に応じて被け物をお与えになります。越前守から腰差しを与えられました。越前守は大将に、
「腰差しの用意は、自分の思うようにせよ」
と、任せられたので、とても見た目も気を使って与えたのでした。
大将は二、三日ばかり老中納言達をお引き止めしてから、邸に帰されました。女君も今度の事をとても嬉しいと思っていらっしゃいます。大将もこの賀宴を催して、とてもよかったと満足なさりました。
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やはり、七十の賀も予想通りに豪華で立派な催しになったようです。法華八講の時のように行われた内容や、贈られた品々まで詳細には書かないと、作者は省いていますが、その中でも最も賀に相応しい品だったのでしょうか? 立てられた屏風に描かれた四季折々の長寿を祝う歌だけ『しるし』と称して紹介しています。
話そのものに関連する事でも無く、書き写された際に間違えられたらしい所もありますが、それでもこの時代の月々の暮らしが書かれた歌ですので、御紹介しておきます。自然や信仰、さまざまな行事に寄り添って生きてきた、当時の人々の暮らしぶりが見えるような歌が、長寿を祝い、願う想いと共に書かれていますね。
そして当時の貴族の暮らす「寝殿造り」の邸には、壮大な建物よりも広く造られた広大な庭に、その建物に近いほどの巨大な池ややり水が作られていました。大納言はその池に舟を浮かべ、管弦の演奏をする人々を舟の上に乗せ、そこで演奏をさせました。竜頭鷁首の舟と言うのは、竜の頭をかたどった船首を持ち、鷁と言う空想上の水鳥の形をした舟に美しく彩色を施した、絢爛豪華な舟のことです。
いわば広大な庭の巨大な池の上に、そういう豪華な遊覧船を浮かべ、その船に管弦楽団の人々を乗せて演奏させたのです。個人の庭の出来事とは思えないような豪華な遊びを、当時の貴族は催したんですね。今、こんな事ができるのはせいぜいテーマパークぐらいじゃないでしょうか?
当時の貴族の贅沢ぶりは、ちょっと想像を超える物があるようです。
そして豪華な贈り物を参加した人々すべてに身分に合わせて配りきり、ようやく七十の賀の催しを終えました。二、三日滞在させてから帰したとありますから、女君と老中納言にゆっくり話す機会を与えたのでしょう。おそらくはこの賀宴の話がはずんだのではないでしょうか?
女君も大変喜ばれ、大将も満足して無事に賀宴を終えたようです。
これでこの物語の第三巻目は終了します。この後は第四巻目にて、老中納言をめぐる人々の話を、特にあの、悲しい結婚で運命を狂わされた四の姫のお話を多く語られることになります。
平安貴族の豪華で風流な舟遊び。竜頭鷁首の舟は小船とはいえ、二槽で一対と決まっていました。現代人よりずっと小柄だった当時の人たちが、演奏する楽器と共に乗っていたのですから、かなりきちんとした楽団が船上で演奏したことでしょう。
源氏物語の六条院の邸は大変広く、普通の邸の四倍の57600平方メートルとなっています。(もちろん、源氏物語にもこの舟遊びは出てきます)落窪物語のこの三条邸も、同じ位豪華なものと考えますと、東京ドームよりも一回り大きな敷地と言う事になります。現代人との体格差を考えると、当時の人々にはもっと広く感じられたかもしれません。
そんな屋敷の巨大な池で舟遊びを楽しむような暮らしを、当時の貴族はしていたんですね。




