81.八講の果て
こうして、九日間に渡る御八講を、それはそれはいかめしく終わらせる事が出来ました。
三の姫は「今日こそは、今日こそは」と、元の夫の中納言が何か言って来て下さることを待っていたのですが、とうとう何も声をかけてはもらえませんでした。
あまりにも悲しくお思いになられたせいでしょうか。三の姫の魂が身体から抜け出してしまい、中納言に催促したようです。中納言が御八講が終わって帰られようとなさった時、しばらく立ち止まりました。そして左衛門佐(以前の三郎君)がいるのを見つけると、呼びかけられます。
「なぜ、私を疎ましそうに見るのだ」とおっしゃると左衛門佐は、
「どうして睦まじくなど出来ましょう」と答えます。中納言はじれったそうに、
「昔のことなど忘れられたのか。あの方はどうしていらっしゃるのか」
と中納言はおっしゃいます。
「どなたのことでしょう」
「誰のことを私が聞くと言うのか。三の姫と呼ばれた方のことだ」
「知りません。平穏でいるのでしょう」
「三の姫に伝えてくれ。
いにしえに違はぬ君が宿見れば
恋しきことも変はらざりけり
(昔と変わらないあなたの宿。この邸を見ていると、あなたを恋しく思った頃の心も変わる事はありませんでした)
とね。だが『世の中はいづれか指して』ともいうからね。そこは察してくれ」
そう言ったきりお帰りになってしまいます。
「せめてお返事だけでも聞きに行って下さればいいのに。もう、姉上への御未練は無くなっておられるのだな」左衛門佐はそう思いながらお見送りしました。
左衛門佐は早速三の姫の局に入って、
「中納言殿がこのようにおっしゃってお帰りになりました」
と、中納言の伝言の言葉をお伝えしました。それを聞いて三の姫は、
「しばらく立ち止まってくだされば良かったのに。これでは何のために御伝言を下さったのか。返って心悲しい事だわ」
と思うので、お返事もできないままにお二人の関係は終わってしまいました。
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長かった九日間にも及ぶ法華八講が、無事に終え果てました。誰もが喜んでいた八講でしたが、老中納言の三の姫だけは、この催し物の間中、心穏やかではいられなかったようです。昔の自分の夫の中納言(もとの蔵人少将)が、もしかして声をかけて来るのではないか? ひょっとしたら優しい言葉の一つも聞けて、それをきっかけによりを戻せはしないだろうかと、期待を込めてずっと待っていたようです。
けれど三の姫の切ない思いは中納言には届きません。女の自分から声をかける事は出来ませんので、三の姫はひたすらに待つしかなかったのですが、とうとう中納言は三の姫に振り返ることなく、一目会おうともせずに八講を終えてしまいました。
同じ邸に居ながらただ見つめることしかできない日々を、九日間も過ごしたのです。三の姫はとうとう耐えられずに魂だけが抜け出して、中納言に催促しました。
このお話としては珍しくおどろおどろしい場面です。深い思いが凝り固まって、その心だけが相手に伝わってしまう。当時の人々は自由が極度に制限されるためか、そういう事が本当に起ると信じていたようです。行動がすべて儀式化されていますから、その分、心の自由を求める気持ちはとても強いものがあったのでしょう。行動のすべてが縛りつけられると、自由は心の内にしかなかったんでしょうね。
けれど、そうまでして引き止めた昔の夫の心は、すでに自分に向く事はありませんでした。それでも最後の優しさを見せようと中納言は思ったのでしょう。「昔、あなたを恋しく思った頃の気持ちも、この邸も、変わりがありませんね」と、昔なら、あなたを本当に恋しく思っていたのですよと歌を贈ってきました。
でもこの歌の後に、中納言はきっちりとけじめをつけました。『世の中はいずれか指して』と言うのは、この後に『わがならむ行きとまるをぞ宿と定むる』と続き、最後に行きどまった宿こそが自分の居場所。今は右大臣の中の君、今の妻の所こそが自分の生涯を暮らし続ける居場所となったのだと、左衛門佐に告げました。もう、昔に立ちかえるつもりはないのです。三の姫にはお気の毒かもしれないが、察して下さい、と。左衛門佐もこれで中納言が姉に未練がないことを知りました。
けれど三の姫はそれを最後の優しさと受け取る余裕がなかったようです。魂が抜け出てしまうほど、中納言への未練を抱えていたのですから。返って悲しい思いをしたと、返しの言葉も出てこないまま二人の関係を終えてしまいました。仏縁を結ぶべく行われた御八講ですが、三の姫にとっては決定的な悲しい別れの八講となったようです。
昔は「落窪の君」を『お針子』扱いしたり、人の手紙を告げ口したりと意地の悪い所を見せていた三の姫ですが、長い年月、自分を見捨てたことで出世された悔しさがあったとはいえ、昔の夫を忘れられずにいた一途な悲しみを思うと、この場面の三の姫の悲しみは心にしみるものがあります。
けれどそれだけにどうかするといつまでも想いを引っ張ってしまいそうで、ここで中納言がきっちりとけじめをつけた事は、潔く感じられました。時の流れはこうやって物事を解決に結び付けて行くのですね。
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大納言は精進落としの宴のことなども盛大になさって、三条の邸にお帰りになろうとします。
けれども老中納言は、
「もう、一日、二日ばかりでも、御滞在下さい」と申し上げるのですが、
「しかし、狭い中に幼い者や侍女たちが多くいてはわずらわしいことでしょう。これからこの者たちを三条の邸にとどめ、それからあらためてこちらに参上いたしましょう」
と言って、女君やお子様方を帰そうとなさいます。そこで中納言は、
「御八講を催していただき、大変尊く、ありがたかった事もさることながら、中宮(皇太后)様や、右大臣と言った、高貴な方々を始め、沢山の方が恐れ多い御心を見せて下さったので、寿命も延びて、老いの面目と言うだけでは足りないほどです。こんな翁のために、経典を一巻御供養していただけるだけでも大変ありがたい事と思っていますが、このような盛大な催しを行っていただけるとは」
と、涙ながらに喜び、お礼を申し上げていますので、大納言はもちろん、女君は大変に催した効があったと嬉しく思われました。さらに中納言は、
「実はこの笛はこの翁がとても大切なものだと思い、誰に伝え、御譲りしようかと長い年月隠し持っていた物でございます。中納言殿が昔、我が邸に通っていた頃にこの笛を求められたのですが、何故か私は差し上げる事がありませんでした。今思えば大納言殿の物となるため、これまで手元にあったのでしょう。ですからこれは大納言殿にゆかりの品。これは若君に差し上げましょう」
と言って、笛を大変美しい錦の袋に収められ、若君に差し上げますが、若君はまるで意味が分かっているように物知り顔でにこやかな笑顔でお受け取りになられます。大納言も、
「これは大変素晴らしい笛だ」
とお思いになられました。吹いてみると素晴らしい音色です。
さて、大納言一行は三条の邸に夜も更けてからお帰りになりました。大納言は女君に、
「中納言殿は大変嬉しいと思っていらしたようだね。今度は何をしてお見せしましょうか」
とおっしゃいました。
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精進落としの宴も終えて老中納言に喜んでいただき、女君はもちろん、大納言もとても満足して催しを終える事が出来たようです。老中納言は感謝の気持ちとして、自分にとって大切なものとして、もっとも自分の家門を栄えてくれる人にこそ受け継がせようと、あの昔の蔵人少将にも渡す事の無かった笛を大納言の幼い息子の若君に差し上げました。
管弦の演奏と言うのは、それぞれの貴族の家で伝承されていくものでした。その家々の自慢の楽器が受け継がれ、その家が持つ秘法の音色などもあったようです。老中納言はそれを受け継ぐものとして、自分の孫を選んだのです。この笛と音色を引き継いで、この家をもっと栄えさせて欲しいとの願いが込められています。
それと同時にこれは自分が守る時を終えた、役目を終えてしまう時が来たという事でもあります。自分の寿命はもう幾ばくも無い。どうか自分が守ってきた物を、大切にしてほしいと老いた者の切なる願いが込められています。そして人生の終わり近くになって、本当に自分が伝えるべき相手に大切な一族が伝承してきた物を継がせる事が出来た、貴族としての役目を果す事が出来た喜びでもあるのでしょう。あれほど大事だ、宝だともてはやした蔵人少将にさえ、この笛は簡単に渡す事が出来なかったのですから、今こそ人生の責務を果し、老中納言の心も穏やかになったことでしょうね。
この御八講は、色々な事が果て、果された八講となったようです。




