75.変わる心
老中納言は邸に帰りつくと、北の方に衛門督がおっしゃったことを片っ端から話して聞かせました。
「衛門督の北の方(女君)と典薬助を結婚させようとしたというのは本当の事か。こちらが恥ずかしくなるようなことを言われて、顔が赤くなるような思いがした。衛門督殿の幼児はこの上なく可愛らしかった。侍女達も大変幸そうにしているようだ」
聞かされた北の方はどうしようもなく忌々しく思い、
「なんです。聞きづらいことをおっしゃられる。あの頃はあなただって「落窪の君」の事を大事になど思ってはいなかったじゃありませんか。『部屋に閉じ込めよ』と指図なさったのは、他ならぬあなたでしょう。『私はこんな子の事など知らない。とにかくどうにでもしてくれ』とあなたが放っておかれたから、典薬助の様な者が機会をうかがって近寄ったんです。衛門督殿が大切にしているからと、今更になって自分がしたことを人のせいにするなんて、どういうつもりです。衛門督殿だって、こんな風に華やかな栄華は一時の事。そう長く続くものですか」
と言っていますが、そのそばで越前守が大変に酔っぱらって、脇息にもたれかかりながら、あちらの邸がどれほど素晴らしかったかを伏せたまま語り聞かせています。
「四十人もの女房達に囲まれて、気後れしてしまったよ。以前は三の姫に仕えていた、誰誰と言う人に、四の姫の所にいた、何何の君と言う人、あの、おもと、下仕えだったまろやさえもいた。皆美しい装束を着飾って、とても幸せそうだった」
これを三の姫と四の姫が同じ所に横になって聞いていたので、三の姫が、
「世の中は辛いものだったんだわ。あの君が落窪の間に住んでいて、部屋にこもっていた時には私達より良い立場になられて、侍女たちまであの君に取られてしまうなんて、思ってもみなかったわ。父上や母上がどう思われているかと思うと、恥ずかしくて。どうしたらいいのかしら。尼になってしまいたいわ」と話しながら泣くので、四の姫も泣きながら、
「私も同じように恥ずかしいわ。こんなにつたない運しかもっていないとは知らずに、母上があの君よりも格別に大切にお世話して下さったというのに。世間の人はどれほど幸せになったあの君と私達を比べて笑う事でしょう」と嘆きます。さらに、
「面白の駒との結婚を辛いと思っていた頃には、尼になってしまおうと私も思ったけれど、いつの間にか身ごもってしまってそれも出来ず、この子が生まれてしまうと、それこそ親心と言うもので、この子の物心がつくまでは見届けてあげたいと思うようになり、尼にもならずに今まで暮らしてしまったんだわ」と言いました。
二人はそんな話をしながら泣いて、四の姫は
「 人の上と昔は見しとあり経れば
今は我が身ぞ憂き世なりける
(昔は自分の方が上だとあの君を見下していたけれど、今となって、この世では自分の方がつたない身の上だったと思い知ってしまいました)」と詠みました。
三の姫も「本当に」と言って、
「 憂きことの淵瀬に変はる世の中は
飛鳥の川の心地こそすれ
(辛い事が起る身の上も変わりやすい川の淵と瀬の様なもの。変わりやすい世の中は飛鳥の川の様なものなのでしょう)」と、御返歌を返されました。
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おやおや。老中納言夫妻は、夫婦喧嘩を始めたようです。老中納言がいかにも北の方が「落窪の君」を一人でいじめていたような口ぶりで責めたので、悔し紛れに北の方も言い返してきました。「何を今さら。あなただって私と一緒になって「落窪の君」を見下していたじゃないか。あの時は少しも自分の子らしく扱わなかったくせに、今になって自分だけ親ぶって見せるとはどういう事よ」と言う気持ちなのでしょう。
「あなたが今になって急にあの子を大事に思うのも、あの子が権勢のある衛門督殿の妻に収まったからじゃないか。私だけに罪を押しつけようったって、そうはいかない。『閉じ込めろ』と直接言ったり、知らないと放っておいたのはあなたの方だ。衛門督の栄華だってずっと続くとは限らないのに、媚びるなんてみっともない」とまあ、遠慮なく老中納言の本音をあてこすっています。
ただ、典薬助の件に関しては北の方は、物のついでに言いくるめて、罪をなすりつけようとさえしていますね。あれは北の方の策略で、老中納言を嘘で言いくるめて逆上するように仕向けたんですから。北の方はこんな時まで結構ちゃっかりしてるんですね。
完全に酔い潰れた越前守は、女房の数も大袈裟に誇張して、倍の人数になってしまっています。向こうで感心してきたというよりは、自分がどんなにいい思いをして来たか、半分自慢話のようになってしまっていますね。この人は女君へのいじめに直接かかわっていないので、どこかのんきなものです。
それを聞かされた三の姫と四の姫は自分たちと女君との境遇がまるで逆になったことを、今更ながら嘆いています。その中でも四の姫は子の母になってしまった事で、どんなに恥をかこうとも、我が子の為の親心が勝るようになってしまったと、大きく変わった自分の心に、感慨を持っているようです。
自分のプライドを傷つけられ、親の期待にこたえられなかった事を嘆く三の姫にたいして、自らが母となって親の嘆きに胸を痛めつつも、我が子への思いが心を閉める四の姫は、この自分勝手な事ばかり嘆く人々の中で、悲しくも強い母心を見せてくれています。
その強さが世の中の無情さを諦めて、何か達観しているようにも感じさせます。
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こうして老中納言家の人々が夜を明かし、朝を迎えて、老中納言はあらためていただいた贈り物を見ました。
「これは、色と言い、どれをとっても翁である私には身に余る品々だ。特にこの帯など大変名高い品ではないか。何故私などに下さったのだろう。これはお返ししなければ」
とおっしゃっているうちにも、
「衛門督殿よりお文が届きました」
と言うので、大勢の侍女が先を争ってそのお文を取り入れます。お文には、
「昨日は惜しくも日が暮れてしまい、長年の積もる話もお聞かせする事が出来ませんでした。これからは私の所にも時々お立ち寄りください。そうしていただけないと心苦しいのです。この三条の邸の地券は、何故お忘れになったのでしょう。ご予定していた通りに、早く三条の邸に御移り下さい。御移り下さらなければやはり私をひどい者だと思っていらっしゃるのだろうと思って、私はこの上なく嘆かなければなりません」と書かれています。
そして、四の姫には女君からのお文がありました。
「長年、心苦しく思いながら、わたくしの無事をお知らせしたいと願ってはいたのですが、慎まなくてはならない事が多かったために、長らくご無沙汰しておりました。わたくしをお忘れになってしまわれたでしょうか。
忘れにしときはの山の岩躑躅
言はねど我に恋はまさらじ
(わたくしを忘れてしまっていても、慎んでいて言葉で言えなかっただけで、私はあなたよりもあなたを恋しく思っております)
と思うと、とても悲しいのです。母上にも、御姉妹の方々にも、『今はお目にかかって御挨拶ができるのだと思うと、嬉しく思っています』とお伝えください」
文にはそう書かれていました。姉妹は四人とも並んで座っていましたので、とっかえ、ひっかえ、文をご覧になっては、
「私の所にも文を下さればいいのに」と、今になって言っているのも都合のいい事です。
女君が落窪の間に暮らしていた時は、「いかがですか」と聞く人もいませんでしたのに。
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昨夜は酔ってしまい、暗い中で帰ってきた老中納言。朝になって頂いた品を見て驚いたようです。貰った品は出仕もしなくなった老人には、派手で豪華で、色も鮮やか過ぎる立派な品々でした。特に名品と名高い帯も添えられていたようで、「とても受取れない」と思ってしまうほどの品でした。衛門督はこれまでの仕返しのお詫びも込めて、かなり奮発したようです。
あれほど憎いと言っていた老中納言家の人々でしたが、北の方を除いては、みんな衛門督たちの事が羨ましくて仕方がないようです。嫉妬を超えて、羨望の的となっているんですね。
侍女たちなど、衛門督からの手紙を受け取るだけで、自分に来た手紙でもないのに、大勢で奪い合いになる始末です。
その手紙には早く三条の邸に移るようにと促す言葉か書かれ、老中納言が受取らなかった地券を、わざわざ添えて届けてきていました。そして、受取ってもらえなかったとは書かずに、「お忘れになった」と書いて、老中納言が受け取るのが当然のことと言って来たのです。こうやって義理の親への尊敬の念を表しているのでしょう。
そして四の姫には女君から直接お手紙が届きました。女君はあの「面白の駒」の一件以来、ずっと四の姫に深い同情を寄せていたのでしょう。誰よりも真っ先に「自分に恨み心はない。そちらが忘れていても、私はあなたを今も恋しく思っています」と、その心を伝えたかったようです。
これを他の姉妹たちは羨ましがって、自分も女君と親しくなりたいと思っているようです。そこにこのお話の作者は、皮肉を込めた言葉を書いています。
今になって都合がいい。以前は女君に『いかで』と聞いた事さえ無かったのにと。
確かにその通りですものね。




