70.昔の恋人
四日目の朝早くに越前守が参上して、
「今日こそ荷物を返していただきたい。侍女たちの櫛箱の様なものもあるので、大変不便なのです」と、困り切って言いました。
その様子がとても面白かったので衛門督は、老中納言の荷物をすべて目録に書いてお返しします。そして、
「あの、昔北の方にいただいた、古めかしい蓋の鏡の箱はあるか。この荷物に添えてお返ししたらどうだろう。北の方はあの箱を宝物のように大切に思っていたようだから」とおっしゃいます。
それを聞いて衛門は面白がり、喜んで、
「この衛門が持っていますわ」と言って取りだすと、この箱を見た事の無い人々は皆、
「まっ、なんて古ぼけた箱なんでしょう」と言って笑っています。
ただ何もせずにこの箱を返すよりはと思い、衛門督は、
「ちょっとだけ何か書きつけてはどうだろう」と女君に促しますが女君は、
「いやです、そんなこと。父上がお気の毒な思いをしている時にわたくしの事を知られてしまうなんて、心苦しいわ」と言っていやがるのですが、衛門督は、
「まあ、まあ」と申し上げるので、女君は仕方なく鏡箱の底の敷物を裏返して、
「 明け暮れは憂きこと見えし真澄鏡
さすがに影ぞ恋しかりける
(曇りがないので明けても暮れても辛い事ばかり見て来たこの鏡ですけど、それでも鏡に映った母上のお姿を思い出して、恋しく思えるのです)」
とお書きになりました。それを衛門督が色紙一重ねに包み、何かの木の枝をつけて、
「越前守を呼んで、渡してくれ」と言って衛門にお渡しになりました。
そして越前守をお召しになると、
「とてもおかしなことをすると思っておいでだろうが、こちらに連絡もなく移り住むと聞き、けしからんと思ってしたことです。中納言殿には『今度の事はお気の毒な事をしましたので、慎んで私自ら事情をお話させていただきます。この邸の地券も確かにお見せして、お話したい事があるのです。今日、明日のうちに必ずお立ち寄りください』と、老中納言殿にお伝え下さい。あなた方も今は私がけしからん事をしていると思っておいでだろうが、最後には事情を説明しよう」
と、大変ご機嫌な様子で衛門督は言いました。
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衛門督は人が悪いですね。越前守が困り果てている様子を見て、面白がっています。彼は任国にずっといたのだから何の事情も知らないというのに。
櫛箱は櫛だけが入っている訳ではありません。用途によって使い分けられる何本かの櫛の他に、その櫛を掃除する道具や毛抜き、耳かき、爪切りや眉を整えるための小さなハサミ、眉墨やお白い、紅や筆と言った普段の化粧に使う道具がおさめられているのです。これを三日も取り上げられていたのですから、きっと越前守も侍女たちに「何としても道具を取り返して欲しい」と泣きつかれているに違いありません。衛門督はきっとその事が思い浮かんで面白がっているのでしょう。
櫛箱の話が出たせいでしょうか? 衛門督は昔、女君が亡くなった実の母上の形見の品の鏡箱を取り上げられ、かわりに漆の剥げた、ひどく古い箱を押しつけられた事を思い出したようです。罪の無い越前守でさえ、面白がっている人です。恨み重なる北の方には容赦はありません。ただ、荷物を返すだけではなく、その箱を一緒に返そうと思い立ちました。
この箱の事を北の方が覚えてさえいれば、返した時にこの邸に「落窪の君」がいる事が北の方には分かるはずです。衛門督は鏡箱を返すことで、「落窪の君」が今では自分の正妻となり、理不尽に死んだ事にされて奪われた邸でさえも、こうして取り返す事ができる身の上になったことを、知らしめてやろうと思ったようです。この思いつきに衛門も喜び、さっそく鏡箱を取り出してきました。
でも、肝心の北の方が、この箱の事を忘れていては面白くないと思ったのでしょう。衛門督は女君に『しるしばかり物書きつけ給へ』と言って、これが女君の持ち物だと分かるようにしようとしました。それだけで分かるのかと言うと、分かるんです。当時の人々は。
以前もお話したとおり、この頃、筆跡と言うのはとても重要視されていました。そこに書かれた言葉だけではなく、その文字を見てその人の人柄や、性格、その時の精神状態まで汲み取ろうと、貰った手紙は丹念に何度も見て、筆跡が頭に入ってしまうのです。
「帯刀」が以前、うっかり「落窪の君」の文を落した時にも、三の姫はすぐに「落窪の君」の筆跡に気が付いています。箱だけ返されても他の経緯を考える事が出来ますが、そこに女君が御自分で書いた文字が添えられていれば、これは確定的。そのダメ押しの為に衛門督は女君に一言書くように言ったのです。
女君もそれは分かっていますから、気が進みません。でも、衛門督はこれまで見て来たように言いだしたら引かない人です。それに女君にとっては老中納言家に自分の消息を知らせる、ようやく訪れたチャンスでもあります。女君の生んだ長男が三つになっているのですから、「落窪の君」が行方不明になってから、もう四年の月日が流れているのです。衛門督の仕返しに加担したくはなくても、女君は仕方なく歌を書き添える事にしました。
昔は辛いこともあったけれど、今は母上の姿が恋しい。お会いしたい。恨みなどありません。という内容の歌をそえて、自分に悪意がない事を分かってもらおうと思ったようです。
衛門督も「もう、いい頃合いだろう」と思ったようですね。ようやく仕返しにも満足がいったのでしょう。それに、これから女君に何かしようと逆恨みをしたとしても、今や時勢は自分の思うがままの世の中です。老中納言達にはなんの力もない事を今度の一件で見せつけました。
これなら安心して女君の消息を知らせる事ができると考えたのでしょう。
恨み心の厄介さと執念深さは、自分が一番よーく、分かっているでしょうから。
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越前守は一体どうなっているのかと思っています。衛門督が『中納言殿は必ずお立ち寄りください。そして、あなたもお供して下さい』とおっしゃるので、越前守は承って歩いて出て行こうとします。するとそこに衛門が妻戸のもとで、
「こちらにお立ち寄りください」
と使いに言わせるので、ここの侍女に声を掛けられる覚えの無い越前守は、どういう事だろうといぶかりながら、近寄ります。
すると御簾の下からとても美しく袖口を差しだして、
「これを北の方に差し上げて下さい。昔、北の方様がとても大切に思っていたお品ですので、私のお仕えしている方が今まで無くさずにいたのです。お荷物を返されるにあたって、私の御主人様が思い出して差し上げることにしたのです」と言って、色紙に包んだあの箱を渡します。
越前守はどういう事か分からずに、
「どなたからの御伝言でしょう」と聞くと、
「お渡しすれば、きっとご自分で思い出して下さいますわ。私の事も『声は昔のままだ』とお思いになりませんか」と言います。
この言葉を聞いて、ようやく越前守はこの声の主が「あこぎ」である事に気がつきました。そして「あこぎ」がこの邸に仕えていることを知ったのです。
「布留の都のように、老中納言邸の事は忘れてしまったでしょうから、訳知り顔に物は言えませんな。だが、これからはこのお屋敷に参上した時は、知り人としてあなたに取り次いで頂きましょう」と、姿をくらましたと言われている「あこぎ」に気を使って越前守が言うと、
「あら、私もいるのですよ」と、別の侍女が袖口を差しだします。今度は少納言です。
老中納言邸にいた侍女達が何故かここに集まっているので、越前守が不思議がっていると、また奥の方で、
「古い歌の文句に『目並ぶ』と言う言葉もありますから、私はお声をかけない方がいいですね」
と言っているのは、老中納言家で中の君に仕えていたあの侍従の君。実は越前守が思いを寄せて、時々通っていた人でした。他にも老中納言邸に仕えていた人たちが次々と声を掛けて来るので、越前守は慌てふためき、これはどういう事かと、不可思議で返事もできずにいました。
すると衛門が、
「三郎君と申し上げられていた方は、今はどうしているでしょう。元服はなされましたか」
と聞くので、
「ええ、この春に元服して、五位に叙せられました」と答えます。
「では三郎君に『必ずこちらに参上して下さい。お会いしてお話したい事がつもりたまっていますから』と、お伝えください」と言うので、
「いともたやすいことです」と言って、包みの中身が気になって、急ぎお帰りになりました。
帰り道、越前守は、
「どうもおかしい。落窪の君は衛門督殿の妻なのではないだろうか。「あこぎ」と呼ばれていた女童も、立派になっていた。それにまるでそろえたかのように、かつて老中納言邸に仕えていた侍女達が集まっているとは。だが、考えてみれば見知らぬ人ばかりよりは、色々あったとはいえ知った顔や、侍従の君がいるのは好都合だな」と考えて嬉しく思っています。
越前守は北の方が「落窪の君」をどんなふうに扱ったかを、ずっと任国にいたので見ていなかったので、何も知らずに素直に喜んでしまっていたのでした。
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越前守は何も知らずに、不思議だと思いながらも浮かれているようです。最初、「あこぎ」が立派な女房になっているのには驚いたようですが、自分の知らぬ間に北の方を怒らせて行方をくらました女童ですから、何かの流れでこの邸に勤めたのだろうと考えたのでしょう。
意外に思いながらも「その事は蒸し返さずに、これから取次などをしてもらう時はよろしく」と言った感じで、気軽に声を掛けていました。
「布留の都」は古今集の和歌の表現で忘れ去ってしまった所、老中納言の邸の事を言っています。出て行った事情はともあれ、これからは知り合いとして接して下さいと言いたいのでしょう。
ところがそこには少納言までいました。それでも偶然はあるものだと思っていたら、今度は昔の恋人の侍従の君まで現れてしまいました。
侍従の君が言う「目並ぶ」とは、沢山並んだ女性の中では、数ならぬ身の自分の事など忘れられているでしょうという意味で「知った顔がたくさんいて、昔の恋人にも気づかないのね」と言う皮肉がちょっぴり込められているようです。実際、次から次へと知った人から声を掛けられて、越前守は驚き、あきれ返ったことでしょうね。
越前守は不思議に思いながらも、「いいや。この騒ぎで気まずいところはあるが、知らない顔ばかりのことろではなく、こんなに頼み事をしやすい知人が揃っている所に昔の恋人がいるんだ。これなら侍従の君の所にまた通う事ができるかもしれない。文だって送りやすいし」くらいの気持ちでいるのでしょう。まさか自分たち一家が、この邸の主の衛門督に恨まれているなんて思いもせずに。
……お気の毒ですこと。




