69.屋移りの祝宴
越前守は、老中納言邸に帰りつくと、
「これでは今はもう無理です。衛門督殿に取り上げられた事は恥ではありますが、諦めるしかありません。重大な事と思ってお話しているのに、大した事ではないように考えられていて、こちらの気など思い立っては下さりません。大変可愛らしい子をひざに乗せて可愛がっていらっしゃり、こちらの言葉など耳にも聞き入れては下さいませんでした。ついには『地券は買ったものではない。『あの邸は自分が領有すべきもの。地券も私自らお見せいたしましょう』と、父上に伝えるようにとおっしゃって奥に入ってしまわれました。右大臣殿は『私は知らない。衛門督が地券を持っているので、自分にいい分があると言っていた』とおっしゃっていますから、こちらの意見を通せそうもありません」と、がっくりと肩を落として言いました。そして、
「どうして地券を探し出して、取り戻しておかなかったのですか。あちらは今夜移り住むと、出だし車の事やら、お供の人々の事やら、準備に追われて騒がしい事でした」
と無念そうに恨み言をおっしゃいます。
老中納言は余計途方に暮れてしまい、ひどい事になったと思いました。
「落窪の君の母が死ぬ時、あの子に地券を与えていたのだが、私もその事を忘れていて渡すように言い損ねたままいなくなってしまった。買ったものでは無いなどと言う事があるものか。落窪の君が売った地券を衛門督殿が買って、その事を隠しておられるのだ。まったく物笑いの種だ」
老中納言は忌々しげに言います。でも、
「とはいえ、朝廷に訴えたところで、今は衛門督殿の思うような世の中だ。誰もきちんと裁いてなどくれぬだろう。多くのものを尽くして造った邸だったが、ひどい思いをさせられたものだ」
とお嘆きになるので越前守は、
「御運がありませんでした」といいます。
「運が悪いというのは、辛いものだ」
老中納言はそう言って空を見つめ、呆然と座り込んでいました。
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老中納言方は、どうする手立ても無くなったようです。女君が救出された後、清水寺での争いの時でさえ、衛門督の父親が左大将で、その娘が帝の女御と言う事で大変な勢いがあって、左大将の家族には逆らいたくないという世の雰囲気が出来あがっているほどでした。
しかし今では親兄弟の事を抜きにしても、衛門督自身に強力な権勢があるようです。衛門督の思うような世の中。まさに世の流れのすべてが衛門督に都合よく流れてしまうような勢いがあるのでしょう。今だったらなんだか独裁的で怖いような気もしますが、貴族社会で絶大な権勢を誇るというのは、きっとこういう事だったのでしょう。
でも、老中納言の『運がなかった』と言うのは少し違うような気がします。邸の事は北の方に任せっぱなしで、まるで管理が出来ていない。揚句自分の娘を虐待されていても、いくら愛情が薄いと言えども愛の薄さと薄情さは違うもの。自分の意思もろくに持たないまま結局虐待に加担して衛門督に余計な恨みを買いました。しかも娘が消えても死んだものと決め付けて、物事を良く調べもしないで邸を造り直してしまう。これはとても『運が悪い』とは言えません。自分の人間性と、手抜かりから墓穴を掘っているだけですよね。
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衛門督の二条の邸では三条に移り住むことになったので、侍女に装束を一そろいづつお与えになります。侍女達はお仕えしてまだ間もないのに、華やかな思いを味わう事が出来たので、嬉しい事だと思っています。
老中納言邸では荷物だけでも返してもらおうと越前守とともに人を遣わしますが、
「どうしても邸の中に入れてもらえません」
などと言って帰って来てしまいました。北の方は手を打って悔しがり、
「どれほどの恨みがあって衛門督は私の心を苦しめるのか」と、思い惑います。越前守も、
「今となってはどうする事も出来ません。『荷物だけでも取らせて欲しい』と申しましたが、『早くお取り下さい』と穏やかにおっしゃりながら、こちらの人間をまったく入れてはくれません。争う訳にもいかず、返ってくるより仕方ありませんでした」と言います。
こうなっては老中納言達ができる精いっぱいの事は、皆で集まり、衛門督たちを呪う事しかありませんでした。
衛門督一行は戌の時ぐらいに邸を御移りになりました。車は十輌も列をなし、威厳がありました。衛門督が車から降りてみると、聞いていた通りに寝殿はすべて飾りつけられていました。屏風や几帳が立てられ、薄縁が贅沢に敷き詰められています。その様子を見ると衛門督は、
「女君が言っていた通り、老中納言の方ではどう思っている事だろう」
と考えると気の毒にも思えますが、一方では、
「老中納言の北の方よ、忌々しいと思い知るがいい」と思っています。
でも女君は、父上の御心を推し量るほどに、なんの面白みも感じる事が出来ず、本当にお可哀想な事と思っています。衛門督もそれが気になるのか、
「老中納言殿が運び入れた物を失くすんじゃないぞ。確かにお返しする品なのだから」
と、おっしゃっていました。でも三条の邸に渡った人たちは、喜んで賑やかに騒いでいます。
老中納言はもう、移り住んでしまったのだろうかと気になって様子を見に行かせると、
「衛門督殿の一行は、戌の時の頃、車十輌を連ねて、権威ある御様子で邸を御移りになりました」と語るので、老中納言達は集っては、今では自分達には力が及ばないことと嘆きます。
そんな嘆きも知らずに、三条では祝宴が盛大に行われていました。衛門は、自分の思うように女君の邸を取り戻してくれた事を喜び、衛門督に感謝していました。
翌朝早くに、越前守は
「こちらで運び入れた荷物を、お返しいただきたいのですが」と参上しますが、衛門督は
「三日間はここのものは他に持って行ってはならない。今日、明日を過ぎて、取りに来て下さい。荷物はきちんと、確かに取っておくから」
とおっしゃって、聞き入れてはくださらないので、越前守はこの上なく当惑してしまいます。
三条の邸では三日間に渡り、賑やかに祝宴が繰り広げられました。とても華やかで、面白い事でした。
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邸を移るって、本当にすごい事なんですね。当時の貴族の引っ越しは、人間が移転することを言いました。引っ越しとは言葉のあやで、新しく邸に移るということは以前以上に快適な生活空間を新たに用意する事だったようです。
当時は家具らしい家具はほとんどありません。二階棚と呼ばれる小ぶりな背板の無い二段ラックや、二階厨子と言う二階棚の中に小引き出しや開き戸が付けられた箱を組み込んだようなラックしか室内に置く棚はありませんでした。
この二階厨子と言うのも、もともとは家具ではありません。御厨子所と呼ばれる今で言う厨房で、食器や道具をしまうための扉付きの建物に備え付けられた棚が、大変物をしまうのに便利なため、その機能を二階棚の中に組み込んだんです。だから二階厨子と呼ばれたんですね。それに個室と言う概念が薄く、部屋を屏風や几帳、衝立障子や襖障子でかろうじて仕切っているような作りです。そこに薄縁を敷き、寝具を用意したのです。
家具を固定しておき据える事もあまりなかったのでしょう。後は以前出てきた櫛箱や鏡箱、それに硯箱や洗面の道具などくらいです。それでも最後は手回り品を下男や従者が「荷物」として運び込んだようです。全て手で運べる程度の物ばかりでしょうが、各自が使いなれた道具などは邸を移る直前などに運ばせた事がこれで分かります。
実はこういう邸を移る時に細かい詳細は、他の王朝物語などではあまり詳しくは語られません。そういう物質にこだわった表現は、品がないと思われたようです。女御様がご入内をする時などにどんなものが用意されたかなどは、それ自体が美術品的な物で世間も注目したのでしょうが、こう言った日常的な生活用品について語られる事はないようです。
でもこの「落窪物語」では、移転先を直前まで簾を使いやすく掛け廻らせたり、屏風や几帳でちょうど良い具合に仕切ったり、薄縁を敷いたりして整えていた事がわかります。薄縁とは畳の事で、当時畳は人が座る所にだけ敷いて使われるものでした。しっかりした座布団と言うか、置き畳の様な使い方です。その畳を敷き詰めているというのは、暮らし方のぜいたくさを意味します。
邸を移る時は皆が新しい衣装を新調してもらい、着飾り、車を連ねる大行列を作って、威厳をもって移動し、移転先に入って行ったんですね。とても華やかなその家のイベントだったんでしょう。そして移転した時刻は戌の時。今だったら夜の八時くらいです。当時の転居は夜に行われたようです。そしてそのまま転居の祝宴を、三日に渡っておこなわれた事が分かります。こういう事が詳細に書かれている物語は当時の貴族たちの移転がどのように行われていたのかを知る大切な資料にもなります。そういう意味でもこの「落窪物語」は価値ある物語なのです。
老中納言邸でも、自分たちの使いなれた道具類を最後に運び込んでいました。ところが三条の邸への立ち入りを禁じられ、そう言った道具類の荷物すら取り戻す事が出来ません。
口では「どうぞ」と言いながら、邸の中に入れてもらえないなんて、ただ、門前払いを食らうよりも悔しい思いをさせられたでしょうね。しかも三日間の祝宴が終わるまで返さないと言われてしまいました。使い慣れた道具を三日間も取り上げられて、本当に返してもらえるかどうかも分からない。越前守は途方に暮れてしまっています。
逆に三条の新しい住人達は三日に渡っての大宴会。目の前で見せつけられた老中納言達の歯がみする音でも聞こえてきそうです。
当時は屋移りに限らず、移動は主に夜に行われたようです。
例えば帝の女御が新たに入内する時はもちろん、宮中を下がって里下がりする時や宮中に戻る時も移動は夜に行いました。
どこかに旅立つ時も夜や夜明け前に出発します。
古代から一日の始まりは日が暮れてからという考え方があり、寺院の例祭に「宵宮」や「宵山」などが行われるのも「宵」になると神仏などが来臨して世界は人ならざる者たちの物になり、夜が明けて人間の世俗の世界になると信じられていました。
まずは神仏の加護を得る時を経てから、活動したのでしょう。
もっとも、すっかり儀礼的になってしまっていたんでしょうけどね。




