66.立ち入り禁止
こうして明日邸を移ろうと老中納言邸では家族の荷物も運びいれ、簾を掛けて邸を整えます。
侍女たちの物まで運んでいるとお聞きになった衛門督は家司(公家の家での家務を司る)の但馬守、下野守、政所の別当である衛門佐、見栄えのいい雑色をお召しになり、
「ちょっと事情があり領有している三条の邸に移り住もうと思っていたら、源中納言(老中納言)がどうした訳かそこを領有して邸を造ったと聞いていたのだが、それならいずれ連絡があるだろう、事情を話してくれるだろうと思い物も言わずに待っていたのだが、明日、移り住むことになっていると聞いた。だからお前達が出向いて行って『これはどういう事だ。その邸の領有者に知らせもせずに移り住もうとはどういう事だ』と言ってこい。もちろんそこに運び入れた物にも触らせるな。私が明日その邸に移り住むのだから。お前たちは雑色所を儲けて、その場に居ついてしまえ」
とおっしゃいます。皆それを承ってその場を去り、三条邸に向かいます。
行って見ると三条邸は実に見事に作り上げられていました。庭に砂を敷き、建物にはすでに簾も掛けられています。そこに衛門督の家司達が、大変勢いよく連れ立ってやってきました。老中納言家の人々は驚き、「どちらの人か」と聞くと、衛門督の家司と識事(家司の下の職員)と答えます。
「この邸は衛門督殿が領有なさっている。何故、こちらに何の知らせもなく御移りになるのか。衛門督殿は『しばらく移させるな』とおっしゃっていたので」
と言うと、邸の中に立ち入って、「ここは雑色所だ」と決めてしまい、「ここの所はこうせよ」などと指示を出して飾りなどを直させたりしています。
三条邸の人々はあきれ、慌てて老中納言邸に走ると、
「衛門督殿の家司が識事を連れ突然やって来て、下部達の出入りさえも許してくれません。『衛門督殿も明日御移りになることになっている』と言って、雑色所や政所などを設けて、所々造り直させています」
などと申し上げるので、年老いた中納言の老いた心にも動揺が走りました。
「何と言うひどいことを。あの邸は地券こそ我が手元には無いが、私の娘の邸だ。私意外、誰が領有できるというのだ。娘が生きていると聞けばまだしも、そんな話は聞いた事がないのだから。やりあって争う事ではないはずだ。衛門督の父、右大臣殿にお話してみよう」
最近、老中納言は出仕もできないほど気分がすぐれず、装束も身につけることもできずにいましたが、急ぎ慌てて右大臣の御邸に参上しました。
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老中納言は大慌てです。老いが激しく出仕どころか出かける装束を身につけるのも出来ないほどだったはずなのに、二年分の収入を丸まるつぎ込んで運を開こうと何よりの一大事と思って造り上げた邸に引っ越す事ができない。それどころか自分の所有物ですらないと言われたのです。
人に笑われ、年老いてゆき、期待の持てる婿君も持てずに二人の姫君を抱えた老中納言は、一家の運のすべてをこの邸の造営と引越しにかけていたのですから、それは驚きもしますし、慌てもしたでしょう。
でも相手は飛ぶ鳥を落とす勢いの衛門督です。正面からぶつかっても格の違いでまた、笑われることにもなりかねません。さすがに老いたとはいえ、自分の名誉と家族の暮らしすべてを賭けている以上、彼も愚かではないようです。ここは冷静に衛門督の父親から事情を聴いて、もし、衛門督がわざとやっている事ならば、しっかり諫めてもらい、やめさせようと思ったようです。
たとえ衛門督が自分に悪意を持っていて、こういう嫌がらせをしているのなら、若く勢いのある人間に老人がグダグダ言っても聞く耳を持たないであろうことくらいは、老中納言にも分かっています。けれど右大臣も父親とは言え仮にも大臣。相応の地位に就く者があまりにも道理を外れた、世間に顔の立たないようなことを息子と言えど放っておくことはできないだろうと考えたのでしょう。
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老中納言が、
「右大臣殿に御意向をうかがいたい事があってまいりました」と申し上げると、右大臣は、
「何事でしょう」とお尋ねになります。
「長年、私が領有している所が三条にあるのですが、この数カ月の時間を掛けて修繕させ、明日移り住むつもりで従者たちが荷物まで運ばせたところ、衛門督の家司と申すものが現れまして、
『ここは衛門督殿が領有なさっている。何の知らせもなく移り住む事は出来ない。衛門督殿も明日、移り住むことになっている』と言い、そこに居座って私どもの下部も通さずに妨害なさるので、驚いているのです。この家は私以外に領有できるものはいないと思っております。これはどういう事なのでしょう。地券が衛門督殿の御手もとにあるという事なのでしょうか」
と、ひどくお嘆きの御様子でおっしゃりました。右大臣は、
「まったく知らない事なので、ともかく申し上げようがございませんね。お聞きする限りでは衛門督が道理を外れているように聞こえますが、とはいえ、何か理由があるのかもしれません。今は衛門督と話をして理由を聞いてみましょう。詳しい御返事はその後です。初めからの事情を知らない事なので、あなたにお返事はできません」
と、大変そっけなく、気のない様子でいらっしゃるので、老中納言はもう、お聞きしようもなくて、大変苦しげに嘆かれながら、お帰りになりました。
老中納言は邸の戻って、
「右大臣に事情を申し上げたが、初めからの事情を知らないので、衛門督殿にお話を聞かなければ返事もできないとおっしゃられていた。どういう事なのだろう。ここ何年もかけ、造った邸がこんなことになって、人に笑われることになるのか」と、口では言い表せないほど嘆かれました。
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老中納言も今度は冷静でしたが、右大臣もさらに冷静でした。しかも愛息子にはやや甘いままです。老中納言はこの窮地に自分に非がないことと、衛門督が一方的であること、とにかくこの件は必死なのだという事を懸命に右大臣に伝えようとします。何と言っても三条の邸は広くて立派です。今いる邸より良いところだからこそ、二年分の収入を注ぎこみ、古木を一本も使わずにこだわり抜いて造ったのです。この邸にすべてを賭けている以上必死にならざるを得ないのです。
ところがすがる思いで訴えた右大臣は、どうも気のない返事しかくれませんでした。
けれど右大臣の立場にすれば自分が息子を窮地に立たせるような真似は出来ません。きちんと双方の話を聞かないと何も答えられないと言っています。
右大臣はちゃんと自分の息子も理解しているようです。あの車争いの一件から、老中納言とは何らかの因縁がある事は分かっているでしょう。
けれどその車争いの後で、右大臣は衛門督にしっかり釘を刺しておきました。世間の批判を買うような真似はするなと。そういう言いつけを平気で破るほど衛門督は愚かではないことをこの父親は分かっているようです。
真実はともかく、何の権利もない邸を勝手に占領して、世間からまともに批判を浴びるような真似を衛門督はしないと考えたのでしょう。大体老中納言には貴重な邸かもしれませんが、ただ良い邸が欲しいのであれば、今の衛門督なら他に手に入れる事が十分可能なはずですから。
綺麗な建物が欲しければ、自分で一から造らせた方がよっぽど自分好みの邸に出来るんです。
これは何か事情が絡んでいると気付いた右大臣は、双方の話を聞くと言って、事情も知らぬままに老中納言の下に出るような言葉は言いませんでした。老中納言は必死ですからもちろんこの対応は物足りません。でも、この一家は今、都で一番繁栄している一家です。どんなに悔しくても老中納言は右大臣が衛門督を上手くとりなしてくれることを期待する以外に方法がないのでした。この交渉、長引きそうですね。




