64.引越し準備
ここからこのお話は、三巻目に入ります。
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老中納言はそんな思いをしながらも三条の邸を大変素晴らしく造り上げました。
「六月に移り住む。この家にいるとこうもひどい目に遭うのだから、ここの家運の悪さのせいかもしれない。移り住んで試してみよう」
と言って娘達を引き連れる支度をします。
それを聞いた衛門が衛門督が横になっていらっしゃる所に行き、
「三条の御邸は老中納言が勝手に大変豪華に造り上げて、家族を連れて御移りになるんだそうです。悔しいわ。あれは北の方様(女君)のものなのに。北の方様の母上は、
『この邸は失うことなく住むように。私の亡き父宮がとても風流に住んでいたところですから、大変思い入れがあるのです』
と、何度も何度も言い遺していらしたものを、こうも見せつけるように自分の邸になさるなんて。こんなこと許せません。どうしても渡したくありませんわ」とすっかり怒っています。
衛門督は少し考えて、
「そういう事なら、こっちに地券はあるのか」とお尋ねになります。
「ええ、ちゃーんと、確かにございます」
「それなら手抜かりはないな。こっちのいい分が十分通りそうだ。よし、向こうが三条に移る日を確かめに、様子を探って来い」と衛門督はおっしゃいました。
でも、それを聞いていた北の方(女君)は、
「今度はどんな事をするおつもりですか。衛門は良くない人になりましたね。ただでさえ憎み心を持っていらっしゃる衛門督様をこんな風に焚きつけて」
と、恨み言をおっしゃいました。衛門は、
「別に良くない人になったってわけじゃありませんわ。道理の通らない事をしているんならともかく、そうじゃありません。北の方様(女君)に譲られた、亡くなった御母上の邸に勝手な事をしているのはあちらですから」と言いますが、衛門督は、
「何を申し上げても無駄だよ。この北の方(女君)は普通の御心とは違うのだから。御自分をひどい目に遭わせた人にだって『とてもお気の毒に』ととおっしゃるような人ですよ。それで私は叱られるんですから」と言って御笑いになります。
衛門も心得て、
「そうですね。北の方様(女君)には、何も申し上げませんわ」
と言い、この事は女君には一切内緒にする事になりました。
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女君には「とんでもないこと」と思える老中納言一家への復讐も、衛門督と衛門にとってはこの上なく息の合う、楽しい計画になってしまったようです。衛門督も祭りの車争いの一件でお父さんの右大臣から釘を刺されているので、あまり無茶な真似は出来ませんが、あの一家がのうのうと反省もせずに、自分達の幸せばかりを願っているのが面白くないようです。
もちろん、衛門は自分自身では何も仕返しらしい仕返しをしていない上に、女君が御母上から譲られた最大の財産である邸を、勝手にいいように造り変えられ、老中納言家は自分達が占領しようとしているのですから、許せたものではありません。造り変えられてしまった物は、今更どうする事も出来ませんが、自分達の目の前でこんなことをされた以上は、何としてでも仕返ししてやろうと思った事でしょう。
衛門督も今度ばかりは明らかにこちらに分があると分かって、地券がある事を利用して、老中納言一家を追い詰めてやるつもりのようです。
この頃の物語に、こういう実際的な財産譲渡や売買、管理の話が盛り込まれるのは珍しく、このお話の御蔭で当時の邸の管理が地券に寄っておこなわれていた事が分かります。
地券は決して名目上の紙切れではなく、実際の取引や管理に必要な重要書類だったのでしょう。だから衛門督は強気に『こっちのいい分が十分に通りそうだ』と言っているのでしょう。
所有者を示す重要な書類もないままに、いくら親子とはいえ勝手に死んだ事にして、所有者の許しも得ずに新しい建物を建てて住みつこうとしたのですから、確かに道理は衛門督側に有利そうです。でも、良く考えれば女君の生きている事を知らせずにいる衛門督側にも非がないとは言えないのでしょうが、土地に名前が記されている訳ではないし、きちんとした書類が残っている以上、証拠はこちらに有利と言う事なのでしょう。
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六月になると衛門はさりげなく、
「老中納言の御家族は、いつ頃三条の御邸に御移りになられるのでしょう」
と様子を探らせたところ、
「この月の十九日だそうです」と聞いたので、さっそく衛門督にお知らせします。
「その日にこっちも正式な持ち主である北の方(女君)を三条の邸にお移しして、老中納言を驚かせてやろう。その心づもりで若い女房をもう少し集めてくれ。あっちの邸は広いから」
そういって、何か思いついた顔をすると、
「そうだ、あちらの老中納言のもとに、若くて美しい女房はいたか。もしいれば少納言と同じようにその者達も、事情は隠したまま呼び寄せるんだ。老中納言の北の方を後で悔しがらせよう」とおっしゃいます。
「それはとても素晴らしい思いつきですわ」と衛門は喜びます。
こんな風におっしゃったことをとても喜ぶ衛門の姿を見て衛門督も、
「衛門は私と同じ気持ちを持っているんだな。だが、女君には聞かせられない」
と思うので、何かに付けては衛門とコソコソ相談するようになりました。
北の方(女君)に計画を悟られたくない衛門督は、
「ある人がとても素晴らしい邸をくれる事になりました。この十九日に移る事にします。侍女たちの装束をご用意なさってください。この邸もそろそろ修理させたいので、早く移りましょう。急いで御仕度なさってください」
と北の方におっしゃって、紅絹や、茜といった染め草を色々お出しになられるので、北の方は衛門督たちの計画など御存じないまま、急いで邸を移る準備をさせていました。
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老中納言家への復讐に関しては、ピッタリと息が合う事が分かった衛門督と衛門。女君には内緒で、何やらこそこそと相談する事が増えたようです。でもそんなことを繰り返せば同じ邸の中の事。いつ、女君に知られるとも限りません。
知られたからと言って、女君が主人の衛門督に何ができる訳ではありませんし、衛門も何を言われたからって計画を辞めるつもりはないでしょう。
でも、これは女君の昔の悔しさを晴らすための計画です。女君をあまり嘆かせてばかりでは具合がよくありません。
そこで衛門督が知恵を使いました。人から良い邸をもらったから、この二条の邸を修理するのに都合がいいのでしばらくその邸に移り住むと嘘をつき、引越しの時に侍女たちに新しい装束を与えるために仕度をしておくようにと、女君に言いました。普通の女君ならそんな仕事はしませんが、この人はこれが御得意で、半分趣味のようにもなっているのでしょう。仕えてくれる侍女たちのためにと、心をこめて準備を始めたようです。
衛門督と衛門は、老中納言邸から女房を引きぬく作戦を立てています。女房はよほど実質的な得意分野があって人一倍長けてでもいなければ、若く、美しく、物覚えがいい時が一番の売り時でした。若さなどほんのひと時の事でしかないのは皆分かっていますから、自分の売り時に少しでも条件の良い邸に勤めたいのが本音だったようです。もちろん、主従関係とは言え人間同士の事ですから、気持ちよく働きたいですし、気の合う主人の下で心をこめてお世話をする方が充実感があります。「あこぎ」と「姫様」のような関係も多かったでしょう。
でも、娘の働きの手当てをあてにしている家族がいる場合もありましたし、評判のいいお邸は、やはりそれなりに勤めやすい理由があるのでしょう。評判の良い人には、評判の良いところから声がかかる。引き抜きもそれなりにあって、応じるかどうかは勤め先の主従関係に信頼があるかどうかにかかってきたでしょうね。お手当も大切でしょうが、良い仕事が出来てそれが評判になれば、何より自分の株が上がりますから。姫君の結婚は親の身分が物を言いますが、勤めに出た侍女はある程度、美貌と実力主義だったようです。
老中納言邸は「落窪の君」の裁縫に腕に頼って、笛の袋を縫えるような下女さえ置かず、若くて美しい侍女ばかりを取りそろえていたはず。しかも邸の雰囲気は最悪で、四の姫の侍女たちなど、華やかな婿を迎える姫に仕えたくて来たのに、面白の駒を夫に持つ姫に仕えてしまって、幻滅していたはず。
さて、どうなります事やら。
ここで三条の邸は女君の母親が父宮から伝領した邸であったことが分かります。女君の母君は父親が皇族だったんですね。女君はその孫にあたります。
この頃邸の相続は、特別な事がなければ母から娘へと伝領されたようです。女君の母親は皇族ゆかりの邸として、御降嫁しても父宮から三条の邸を伝領したのでしょう。それを母親が自分の娘に伝領させたので、さすがも中納言も「落窪姫」がこの邸を伝領する事は許さざる得なかったのだと思います。
おそらくこの邸は皇族ゆかりの由緒ある邸と言うだけではなく、女君にとって祖父母や母親との思い出深い邸だったのでしょう。
それを勝手に建て替えられて、中納言達が自分の物にしようとしたのです。女君は諦めているようですが、あこぎが腹立だしく思うのも無理のないことですね。




