6.少将の手紙
仕方なく「帯刀」は「あこぎ」に少将の手紙を姫に渡してくれるように頼みます。
「姫様のお気持ちも分からない内に、急に文を渡されたって困るわ」
「そんな冷たい事言わず、姫様にお返事をもらってくれよ。悪いようにはしないから」
夫にそう頼まれては「あこぎ」も断れません。少将の手紙を姫の所へと持って行きますが、
「こんな物が来たことが北の方様に知れたりしたら『良い話だ』とは思ってはくれないわ」
と脅えるばかりです。
「どうせこんな物がこなくても、北の方様が姫に『良く』して下さる事なんてないじゃありませんか。そんなことを気にして遠慮なさることありませんよ」
姫の気の弱さに、つい「あこぎ」はそういってしまいましたが、姫は返事もしません。手紙もそのままで少しも見ようとしないので、「あこぎ」が紙燭(紙を使った簡易な灯り)を頼りに手紙を開くと、
「 君ありと聞くに心を筑波嶺の
みねど恋しきなげきをぞする
(あなたがいると聞いただけで筑波嶺ではありませんが、見ねども恋しくて嘆いてばかりです)」
とだけ書かれています。
その文字の美しさに「あこぎ」は思わず、
「素晴らしいお手(筆跡)でいらっしゃること」
と、独り言を漏らしましたが、それでも姫は手紙を見ようともしません。
仕方が無いので手紙を姫の櫛箱にしまって、姫のもとに置いて行きました。
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当時の恋愛が文通中心であった事は、先に述べたとおりです。男性が先に手紙を贈るのも決まり事の一つでした。恋の熟練者である少将は姫に逢ってみたいとは言いながらも、まずはこのルールを守って姫に手紙を贈ったのです。
ところが「あこぎ」は困ってしまいます。本当なら事前に話があったのなら、男性から手紙が来る頃までに姫の方ではイエスかノーか、気持ちを決めておかなくてはいけません。断るのなら一番最初に断らなければならないのですから。
でも「落窪姫」は普通の姫のように縁談を勧めたり、説得をする人がいません。世間並の交際をしている姫でさえそう言う人が必要なのです。姫のように隠すように閉じ込められて、針仕事ばかりさせられている世間知らずの女性には、男性に言い寄られることは戸惑いばかりが大きくて、自分がどうしたいのかなんて分かってはいないのでした。
「あこぎ」聡明な少女ですが、心の優しい少女でもあります。姫が少将と結ばれることがいい事だとは分かっていて、断るなんてとてもできないと思いはしても、それまで恋を夢見ることさえなかったおとなしい姫に、不安な気持ちを残したまま無理強いをしたくなかったのでしょう。
それにこういうお世話はおそらく歳若い彼女にとっても初めての事で、本当ならこういう時に相談すべき姫の親でさえ、頼りにする事が出来ないのですから、困るのも当然でしょう。
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「どうだった。姫の返事は」待ちかまえていた「帯刀」は聞きましたが、姫が手紙を見ようともしなかったと知るとがっかりして、
「少将様のお相手となれば、どっちにしたって今の姫の境遇よりは、ずっとマシになると思うんだが」
「まだご不安が強いのかも。姫様だってそのうちに少将様のお心が、本当に頼りになると分かればお心を開かれるわ。今はそれを待ちましょう」
少将に頼まれているので焦り気味の夫を、「あこぎ」はそういってなだめました。
翌朝、中納言が落窪の間を覗いてみると、姫君がとてもみすぼらしい衣を身につけてすわり、美しい黒髪が衣にかかっている姿をお見かけになりました。これは気の毒だと思い、
「随分みすぼらしい物を着ているな。見ているとかわいそうではあるのだが、先に北の方の娘たちの世話をしなければならないので、あなたの事は後回しになってしまうのだ。あなたも結婚など自分のしたい事があるのなら御自分で決めなさい。このままでいるのでは気の毒だ」
と、お声をかけるのですが、急な事に姫は恥ずかしがってお返事できません。
中納言は居所に戻ると北の方に、
「落窪の間を覗いたら、あの子は薄い白い合わせを一枚しか着ていなかった。他の姫の古着があったら着せてやりなさい。夜など寒いはずだから」とおっしゃったのですが、
「いつも着せてもあの子は放ってしまうのです。着古すまで大事に着るという事が出来ないんですよ」と文句を返されたので、
「それは困ったことだ。母親に早くに死なれて、ものの判断もできないのだろう」
と、嘆きました。
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姫の悲しげな姿に中納言も心動かされたようで、姫に古着でもいいから温かいものを着せさせてやるようにと言っています。いくら薄情でまったくかまっていない姫とは言え、あまりに哀れな姿に親としての同情心が湧くのでしょうか?
そこから姫への愛情に繋がればいいのですが、北の方に話かけたとたんに、あっさりと北の方に丸めこまれてしまいました。高齢でものの判断ができなくなっているのは、明らかに中納言のように思えるのですけど。
少将に頼まれている「帯刀」も困っている様子。女性たちは戸惑っているのかもしれませんが、少将にしてみれば、せめて手紙くらい読んでもらえなければ、相手の心の動かしようもありません。
ジリジリと待っているであろう自分の主人に、読むどころか手紙を見てさえもらえなかったとは、従者としては言いにくいのでしょう。「帯刀」も頭を抱えざるを得ないでしょうね。
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北の方は姫に三の姫の婿の蔵人少将の袴を縫うように言いつけます。その時北の方からは、
「この袴はいつもより上手に縫うように。褒美に衣を着せてあげるから」
と言う伝言があったので、姫はとても情けなく思いました。それでも大変美しく丁寧に袴を縫い上げましたので、北の方も良くできていると思い、自分が今まで着古してしまった、綾の綿入りの衣のひどく傷んだものを姫に着せさせました。このごろはすきま風も激しく、冷たくなる一方だったので、こんな衣でも喜んでしまうほど姫の心は屈折してしまっていました。
蔵人少将と言う人は、悪いことはやかましいほど騒ぎ立て、いい事は大いに褒める性格の人なので、縫い上がった袴の出来栄えの良さに感心して、
「こちらでご用意くださる装束は、どれも大変素晴らしいですね。とても上手に仕上がっている」と、それは褒めちぎります。
仕える人々が北の方にその事を申し上げますが北の方は、
「声が高い。「落窪の君」に聞かせるんじゃないよ。つけ上がらせてしまうじゃないか。ああいう者は調子に乗せずに貶めておくくらいでちょうどいいんだ。そうすればこちらにも勝手良く、黙って使われているんだから」と言うので、人々の中には、
「まあ、ひどいおっしゃりようだこと。あんなに御心も良く、お美しい方なのに」
と、隠れて噂する人もいるのでした。
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姫、温かい衣に喜びながらも、卑下されながら懸命に縫い上げた袴の御褒美としてようやく着古しの衣をたった一枚手に入れた事に複雑な感情が湧いてしまいました。そのつもりはなくてもいつの間にか自分が屈折してしまった事に気付いたのです。衣は身体は少し温めてくれましたが、心は返って寒い思いをさせられているようです。
そんな姫に北の方は酷な態度を示します。姫の縫い上げた事が褒められたことを、使用人が噂する事すら禁じるのです。こんな話を微かに伝え聞くだけでも今の姫なら心に喜びが湧くのでしょうが、それすら北の方には許せないようなのです。この憎みようは異常なくらいですね。
自慢の婿が褒めることとはいえ、「落窪の君」の事だけは別の様です。こんな継母に虐げられて暮していれば、姫が卑屈になってしまうのも仕方がないことなのでしょう。