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58.親子げんか

中将が女君に心をはせていると、中将の乳母が現れました。乳母は、


「あの、右大臣の姫君との御縁談は中将様に言われたとおりにお伝えしたのですが、『中将殿の通う方はきちんとした身分の方ではないようだから、そちらには時々通えばいいだろう。こちらの話も受けていただき、左大将殿にもお知らせして、四月に婚儀をと思っています』とおっしゃって、御支度を急いでいらっしゃいますので、その御心づもりでいて下さい」と言います。


 けれど中将は乳母の方が恥ずかしくなるような素晴らしい笑顔で、


「なぜ、男が嫌だという事をしようと考えるんですか。私は世間の様な人間ではないし、大した身分でもない。そんなに人様が婿に欲しがるような人物じゃありません。こんなこと、聞いたままに伝えたりしないでくださいよ。どうかしています。我が妻がきちんとした身分じゃないなんて、どうやって知ったんです。決して言いようがないほどひどい身分の人じゃないんですがね」


 とおっしゃいます。


「分からず屋な事をおっしゃって。右大臣殿があんなにしっかりとお決めになって、御仕度なさっていらっしゃるのに。まあ、ご覧になっていてください。身分の高い方がなさろうとおっしゃっているんです。今更どうなるというんです。何かに迷うようなことではありません。きちんとした御身分の御子息と言うのは、華やかに妻方の家にも、御実家と心合わせてお世話いただくのが今時らしいというものです。中将様が心に思われている人がいるのは分かっておりますが、それはそれです。右大臣の姫君に、お文など差し上げて下さい」


 乳母は中将に話もさせずにこんこんと説得します。


「聞くところによりますと、二条にお住みの方も上達部かんだちめ(三位以上の位の貴族)の娘と言う事ですが、「落窪の君」などと名をつけられて、他の姫君の中でも劣った者として閉じ込められていた方だそうではないですか。そんな方に他にもないほどの御世話をなさっているなんて、おかしいとは思いませんか。片方にそういう御愛情があっても、それとは別に御両親が揃っていて、お世話をして下さる妻こそが心惹かれるというものです」


 すると中将は顔を赤らめて、


「私は古めかしい心の持ち主だから、今時らしい好もしさを欲しいとは思いませんし、婚家からの『ちやほや』だって欲しくない。両親が揃った妻がいいとも思いません。『落窪』だろうが『上がり窪』だろうが何だって言うんです。私はその人を生涯愛し続けると決めたんです。他人はあれこれと勝手な事を言うものですが、よりによって私の乳母であるあなたがこんなことを言って来るなんて。心悲しく思いますよ。ただ、あなたへのこころざしがないと思われるのでしょうが、すぐにも二条の北の方(落窪姫)にあなたもお仕えする事があるでしょう」


 そう言って二条の女君に大変頼もしそうな御様子で、その場をお立ちになりました。


 ****


 中将はきっぱりと言い切りましたね。自分の生涯愛する女性は、二条の北の方、ただ一人だと。いくらでも妻を持てて、その妻の家に自分の出世を頼るのが当たり前の時代に、ここまではっきりと態度に示す。大したものです。この人は。

 話を進めてしまえばいくらなんでも右大臣の顔を潰すような真似はできないだろうと踏んでいた乳母の魂胆は、完全にあて外れでした。中将はまるで鼻にもかけてはくれません。


 右大臣の姫君に文を書いてもらうどころか、顔を赤らめて怒られてしまいました。『落窪』であれ『上がり窪』であれとは、洒落が効いていていかにも中将らしい言葉です。こんな風に怒っている時でも、この人の心にはユーモアがあるんですね。何か余裕を感じます。

 この乳母も大事な大事な自分の育てた若君の事なので、随分詳細に二条の女君の事を調べたんですね。二条の邸に勤める人から、こっそりと聞きだしたんでしょうか? なかなかのやり手のようです。


 乳母なのにたいそうな口を利いているように思えますが、乳母は一番の教育係で、もっとも身近で直接主人の子供を育てる人です。実質的な母も同然です。

 お乳ももちろん与えますし、おむつの世話も、夜泣きの御世話もします。女主人の産後の健康にも気を配り、他の侍女たちにお子様の御世話をどうするのかも指示をします。もちろん当の母親も世話は焼くんですが、母親は主人である男君の御世話を第一にしなければなりません。子供が生まれたというのに男君が通ってくれなくなったりしたら一大事ですから。だから乳母は信頼のおける人でなければなりませんし、立場も強いんです。


 それに乳母を雇っているのは両親の方。子供は乳母のいう事を、ある程度は聞き入れなくちゃいけないわけです。何より赤ちゃんの時から世話を掛けていますしね。育ててもらった感謝の心があるのでしょう。その乳母をもってしても、中将の心は右大臣の姫君に動く事はありませんでした。中将が乳母にこんなことを言われて悲しいというのはきっと本音でしょうね。


 ****


 そのやり取りを聞いていた「帯刀」は、爪弾きをバチバチしながら、


「なぜ、あんなことを中将様に言うんです。中将様は母上の「養い君」とはいえ、今の態度は大変素晴らしいではありませんか。あんなことを言って母上は恥ずかしくないんですか。ただ今の中将様と二条の北の方の御仲は、人が近づく事も出来ないほど親密でいらっしゃるんです」

 

 そう言って「帯刀」は乳母をたしなめます。


「いいですか。中将様は母上にたいして十分におこころざしをお持ちに違いありません。それなのに母上は華やかな右大臣家に中将様を行かせて、御自分の得を受けようとしている。ああ、情けないことだ。少しでも良いところがある人なら、そんな心は持たないはずです」


 そう「帯刀」は嘆きました。


「それにどうして『落窪』などと不遜な名を言うんです。失礼な。老いぼれて二条の北の方をひがんでいるんでしょう。こんな話を二条の北の方がお聞きになったら、どう思われるでしょう。これよりこんな事は言わないでください。中将様の御心を想うと私はとても恥ずかしい。中将様が右大臣の姫君を妻にする名誉が、そんなに欲しかったんですか。その御恩恵をあてにしていたんですか。そんなことしなくても、母上にはこの惟成がいるじゃありませんか。母上の身一つくらいなら面倒見れます」そう「帯刀」は言いました。そして、


「こういう心を持つ人は、大変罪深いと聞きます。また中将様にこんなお話をしようものなら、この惟成、母上の罪を代わって償うために、法師になってしまいましょう」と宣言します。


 さらに、「そうなったら、母上は大変可哀想ですね」と言います。すると乳母も、


「返事もできないほど、言いたいだけ言うんだね」と言い返しますので「帯刀」も、


「でも、愛し合う二人の仲を裂く事は、とてもひどいことじゃないですか」


 とすかさず言い返します。


「誰も『すぐに別れて欲しい』とか『捨てて下さい』とか言ってるわけじゃないだろう」


 と、乳母は口ごもっていいます。


「だってそういうことでしょう。二条の方とは別の妻を持てという事は」


 と「帯刀」は追い打ちをかけました。


「ちがう、ちがう。ああ、うるさいこと。中将様からは文も書いて貰っていないというのに、そんなに悪かったって言うのかい。どうしてこう、大袈裟に言うんだろうね。一つにはお前の妻が二条にお仕えしているから、そんな風に言うんだろう」


 乳母の言葉を聞いて「帯刀」はニンマリとしてしまいます。自分の母親の性格はよく知っています。乳母は途中でとっくに説得されて、降参していました。ただ、自分の息子にやり込められたのが悔しくて、口を塞ぎたいばかりに「あこぎ」の事まで持ち出したのです。それが分かっている「帯刀」は自分の母が気の毒で笑ってしまいました。


「よしよし、どうしても自分の思い通りにする気ですね。それなら結構。この惟成、このまま法師になってしまいましょう。母上のその御罪、大変気の毒に思いますから。母上が来世でも罪を背負う事を知らん顔は出来ませんから」そう言って「帯刀」は脇に剃刀を挟んで持ちます。


「まだ、この話を持ち出すおつもりなら、すぐに髪を下ろします」と言って立ち上がりました。


 乳母にとって惟成は一人っ子です。本当に髪を下ろされてはたまりません。息子にこんなことを言われるなんて情けないと思いながら、


「その口からそんな縁起の悪い言葉が出るとは。その脇に挟んだ剃刀、我が心で打ち折って見せるわ」と、ムキになります。「帯刀」はこっそり笑ってしまいました。


 乳母は、


「中将様はもっと動じるご様子もないし、我が子はこんな風に言っている。これはどうにも無理な縁談だったらしい」とあきらめて、


「右大臣殿に御断りをしなければならない」と思いました。


 ****


「帯刀」とお母さんは、親子げんかになってしまいました。「帯刀」はここで自分の母親に二度とこんな気を起させまいと、少しきつくお灸を据えようと思ったようです。お母さんにしてみれば、より良い家に婿に通うのはごく普通の事だし、今度の話はまたとない良縁。中将の為にも、左大将家の為にもいいことなうえに、自分の名誉にもなって御褒美ももらえる。世間並の乳母の仕事をしているのだから、息子にこんな風に叱られるなんて心外だったかもしれません。


 多分「帯刀」もそれは分かっていたのでしょうが、「帯刀」は中将と二条の女君の純愛をよく知っています。自分の母親が二度とこんなことをしないようにと、気を張っていたんでしょう。

 わざときつく「自分の母が褒美目当てで仲のいい夫婦を裂こうとした」と言う話にしてしまいました。一方的な言い草にお母さんも言い返そうとはしますが、「帯刀」に上手くかわされてしまいます。「帯刀」も結構やり手ですね。


 でも「帯刀」も決してお母さんを責めるだけにするつもりはありません。「こんなことに神経を使わなくても、母さんの事は自分がちゃんと面倒見るから安心して欲しい」と、暗に言っているんです。なかなかの親孝行ぶりじゃないですか。出世頭の中将に仕えているから強気になっているところもあるのでしょうが、まだ若くて新婚だというのに立派な心がけです。


 とはいえ、老いたと言っても親は親。ここで息子に言い負かされるのも癪なのでしょう。お母さんは「帯刀」の弱点、「あこぎ」の事を持ち出してきました。でも二人は親子。「帯刀」は自分の母親の事は良く分かっていました。これは親の威厳を保ちたいがため、自分の口を塞ごうとするへ理屈だと。そこで彼は「法師になる」と言って何と一芝居打ちました。ご丁寧に剃刀まで用意しています。これにはお母さんもビックリ。慌てて白旗を上げたようです。とうとうこの縁談は無理だと納得したようです。


 この二人は日頃からこんな親子げんかがあって、コミュニケーションがとれているんでしょうか? 口げんかしながらも、お互いを思いあっていてなんだかほほえましい感じですね。




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