56.右大臣からの縁談
女君(落窪姫)の御前を許されただけではなく、このようにかばわれて少納言は
「こういう方だからこそ、両親に大切に育てられた御姉妹の方々より、ずっとお幸せになられたんだわ」と嬉しく思いました。
そして、他の侍女たちの前では女君にお仕え出来る事が嬉しいと言い、侍女達が去って、女君や衛門と三人になると、中納言邸での出来事を詳しくお話します。あの典薬助が、その後北の方にした言い訳などをお聞かせすると、衛門は大変に笑っていました。そして、
「四の姫の婿取りの恥の掻きようは、きっと前世からの宿縁だったのでございましょう。あれよと言う間に四の姫が懐妊なさってしまったので、あんなに自慢げでいらした北の方も、お悩みが頭から離れずにいるようです」と少納言が言うので、女君は訝しげになさいます。
「それはどういうことでしょう。四の姫の婿君の事はこちらの中将は大変褒めておいででしたのに。『鼻は特に素晴らしい』とおっしゃっていましたが」と女君がおっしゃるので、
「それはきっと中将殿が北の方様をおからかいになったのでしょう。鼻は中でも特に見苦しくていらっしゃる方ですもの。鼻が上向きで大きく膨れ上がって、鼻の穴の大きさと言ったら、左右に対の屋を建てて、寝殿を作ることも出来そうなほどです」と少納言が答えます。
「それは大変なことになりましたね。本当に四の君はどれほどお辛く思っておいででしょう」
と、女君がおっしゃっている所に、中将殿が内裏からお帰りになりました。どうやらひどく酔っていらっしゃるようです。とても顔を赤らめていますが、それでも美しいご様子です。
「宮中での管弦の遊びに招かれて、いろんな人に酒を強いられてしまったので、苦しくて仕方がないよ。帝に笛を吹くように言われて、御褒美に衣をいただいたんだ」
そう言って、その衣を手に持っています。それは許し色(どの身分でも許された色)の大変良い香を焚き締めた衣で、中将はふざけて、
「あなたに御褒美として差し上げましょう」と言って、女君の肩にお掛けになります。女君は、
「何の御褒美でしょうか」と言って御笑いになりました。
中将が少納言を見つけて、
「この人は、あの、中納言邸で見た人じゃないですか」と、女君に聞くので、
「その通りです」と、女君もお答えになります。
「どうしてここに参上しているんだ。これは是非ともあの、艶っぽくて華やかだという交野の少将の話の残りを、聞かせてもらわなくてはね」
とおからかいになりますが、少納言は自分があの時言った事をすっかり忘れてしまっていたので、「変ね。何をおっしゃっているのかしら」と思いながらかしこまっていました。中将は、
「とても苦しいや。横になりたい」
と言って少納言にかまうことなく、御帳台の中に女君とお入りになりました。少納言は、
「中将殿は、立派でお美しい方なのね。姫君の事を本当に大切にしていらっしゃるし。幸運がある人は、やはり立派になられるものなのね」と思っていました。
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少納言の口から、中将の嘘がばれてしまいました。やはりこういう事はいずれどこかから知られる物なんですね。女君は四の姫の事を気の毒に思っているようですが、そこに嘘を言った本人の中将が帰ってきました。
ところがその中将は、帝から管弦の遊びの席に呼ばれ、勢いのある彼と親しくなりたい多くの人たちから、次々と酒を飲まされてしまったようです。赤い顔ですっかり酔っぱらって帰ってきました。この辺は今のサラリーマンの付き合い酒とたいして変わらないようですね。
さらに場を盛り上げるために、帝に笛の演奏を所望されたようです。以前も宮中で使う笛を「落窪の間」に忘れて、女君に届けてほしいとお願いをして、女君にたしなめられていましたね。
どうやら蔵人少将が舞が得意なように、中将は笛が一番得意なようです。中将は帝のお気に入りですから、帝も彼に華を持たせてくれたのでしょう。
そしてその笛の演奏を、帝はお気に召したようです。ご褒美に「許し色」の衣を下賜なさいました。中将は酒の酔いもあってすっかり上機嫌。これでは優しい女君には、中将の嘘の話など持ち出せないでしょう。ふざけて衣を肩に着せかける中将に、女君は『何の禄ならむ』と笑ってしまいました。幸せな光景です。
この二人が初めて結ばれた翌朝、当時少将だった彼は、ボロボロの衣一枚の姿の「落窪姫」を憐れんで、自分の衣を着せかけましたが、「落窪姫」は返す衣一枚ないわが身に、大変な悲しみと屈辱を感じていました。けれども今は、中将が召使に衣を褒美に与えるように、女君の肩に衣を着せてふざけると、姫は思わず笑ってしまっています。
身分の上の人が、下の人に褒美を与えることを、『禄を与える』と言います。
この『禄』には衣や絹がよくつかわれました。これを受け取るには作法があって、貰った衣や絹を肩にかけて受取るので、別名『被け物』と言われました。中将はふざけて自分が帝から被けて頂いたしぐさを、女君にしたんですね。高価な衣を帝から栄誉あるご褒美としていただいたので、中将も嬉しかったんでしょう。そのおふざけに女君も付きあったんです。この二人にはもう、以前、衣を返し合う事が出来なかった悲しみなんて、無くなっているのが分かります。
中将が貰った「許し色」の衣。当時は身分によって身に付けられる色が厳粛に決められ、高貴な方しか着られない色は「禁色」と呼ばれていました。逆に「許し色」は、どんな場でも、誰でも着る事ができる重宝な色の衣です。臣下に下賜するには便利な色の衣なのでしょう。酔った勢いとはいえ、こんな風におふざけの小道具にしてしまうなんて、中将は本当に帝のお気に入りで、こういう御褒美にも慣れてしまっているようです。普通だったら、帝から『禄』を賜わったりしたら、あまりの名誉に大騒ぎするんでしょうけどね。
そして少納言は、酔った中将に言われた「交野の少将」の事に戸惑っています。それはそうです。中将はあの時の一部始終を、すべて几帳の裏で聞いていましたが、少納言は、まさかこの人があんな所に隠れていたなんて、思いもよらなかったでしょうから。おそらく後で衛門に聞かされて、ビックリしたことでしょうね。
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右大臣となられている方が、御自分の一人娘の婿に中将を迎えたいと思っていました。
「我が娘は帝に差し上げようと思っていたが、内裏暮らしは後ろ盾がないと苦しいと聞く。私が死んだ後の事が心配だ。三位の中将なら出仕中の社交での心づかいなど見ても、なかなか頼もしそうで、娘の後見を任せられる心をお持ちのようだ。我が娘はこの方と結婚させよう。妻がいるとは言うが、きちんとした身分の身寄りがいる娘ではないらしいし、そういう身分の正妻もいないらしい。長年、婿としてどうだろうかと心にとどめて見て来たが、思った通りの人だ。たった今にも出世するに違いない」
そこで知っているつてを頼りに、
「娘を中将と結婚させたい」
と、中将の乳母に伝えてもらいました。乳母は勿論喜んで、
「右大臣殿から中将殿とあちらの姫君との御縁談のお話しがありました。大変申し分のない、素晴らしい御縁談と思います」と中将にお知らせします。しかし中将は、
「私が一人身の時だったら、大変ありがたい仰せだと思っただろうが、今ではこうして通う所ががあるからと、上手くほのめかしておいてくれ」
と言って、話に取り合う事もなく立ち上がってしまいます。けれど乳母は、
「中将殿が通っておられる方は、両親もいらっしゃらないご様子で、ただ、中将殿に頼っているだけの方らしい。そういう方ではなく、右大臣の姫君の婿になられて、華やかにお世話されるようになったら、素晴らしいことになるだろう」と思い、中将に言われたようには伝えず、
「大変結構なお話です。すぐ、吉日を選んで中将のお文もお贈りいたしましょう」
と、勝手にお返事してしまいます。そこで右大臣も結構なことだと思い、善は急げと四月にも中将を婿に迎えようと、姫君の御調度も今あるものより立派にご新調なさったり、若い女房をお探しになったりしてご結婚の準備に奔走していました。
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中将にとんでもない方からの縁談が舞い込みました。右大臣家の姫君です。
左右大臣と言うのは、従三位の中納言や、正二位の大納言よりも上、この上にはたった一人しかなる事が許されない、太政大臣の地位しかないという、正二位の、大変高い位です。
しかもこの姫君は、よほど素晴らしい方らしく、右大臣は女御様として帝に差し上げようとお育てして来た方のようです。けれど右大臣はこれから長生きできる自信も、他の後ろ盾を任せるような人もないようで、思い切ってこの姫君に臣下の婿君を取らせることにしたようです。その白羽の矢が中将に当たりました。
本当なら二条のお邸の女君も、母上は皇族のご出身ですし、父親も中納言。右大臣の姫君に引けをとる方ではありません。
けれど今の女君には、中将以外に後ろ盾になってくれる親はいません。虐待を受けていた邸から中将に救出されて、中将だけを頼って生きている身です。政治戦略のための姫君としては圧倒的に不利な立場。しかも、中将は自分の復讐心の為に女君の本当の御出自を、誰にも公表していないのです。
けれど、中将はこの縁談に、まったく聞く耳を持つ気は無いようです。相手の親は右大臣で、姫君は仮にも帝の女御様にさせようと育てられた方。礼を欠かないように上手くほのめかして断るようにと乳母に言いました。
この乳母は「帯刀」のお母さんです。久しぶりの再登場ですね。中将にとってはよく知っている乳母。しかも乳兄弟の「帯刀」は自分のいわば腹心です。「ほのめかせ」と言う一言で中将はすっかり安心してしまったようです。
けれど乳母からすれば、こんな馬鹿げた返事をする気は無いようです。身分の十分すぎるほど高い右大臣からの縁談。しかも相手は帝の女御様でもおかしくない様な姫君。こんな名誉な話はまたとありませんし、自分の御育てした方の後ろ盾としては十分な名家です。当然、お受けすれば中将の名も上がるでしょうし、中将はこの上ない御世話を右大臣から受ける事が出来るでしょう。
さらに、こういう話をまとめるのは、乳母の大切な役目です。乳母の仕事はお乳を上げている時だけではありません。邸の主人や御母上の意向に沿ってしつけをし、自分の御育てした方に生涯責任を果たすのが乳母の勤め。縁談も乳母の大切な仕事です。乳母と言うのは召使の中でも主人の信頼の厚い、地位の高い仕事なのです。
しかもこういう良い縁組をまとめ上げると、乳母にもそれ相応の御褒美がありました。乳母の立場その物も良くなり、周りの見る目も変わります。良い縁談が来れば、乳母の目の色が変わるのも仕方がないことなのです。
こんな良い話に耳を貸す気のない中将に痺れを切らし、乳母は勝手に話を進めてしまいました。もちろん、中将は断ったつもりでいます。幸せな中将と女君の生活に、またまた波乱が起る気配がしてきました。




