51.新年と昇進
こうして十二月を迎えました。二条邸の姫の元へ少将の母上の北の方から、
「少将の新年の装束を、今急いで準備して下さい。こちらでは内裏にいらっしゃる娘の女御の新年の準備で、暇がありませんので」
と言って、質の良い美しい絹、糸、綾と共に、茜、蘇芳、紅と言った多くの染料を下さいました。
これは少将の母上が姫の事を認めて下さった証拠でした。装束の仕立てはもとより姫の得意とするところです。姫は張り切って召し使っている人達に、急いで目をよく配りながら指示なさいます。
その他にも少将に仕えている、地方の出で裕福な右馬允になった人が、絹を五十疋献上して来たので、その絹は召し使える侍女たちに様々に分け与えます。
その絹を分け与えるにも、衛門が絹を手にとって、侍女たちに的確に目を配りながら与えている姿は、さすがは女房の長として見ていて気持ちの良い采配ぶりです。
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さて、日々が行事と儀式だらけの様な貴族たちにとっても、さらに大切な行事のお正月が近付いてきました。少将は自分の復讐のために中納言一家に知られないようにと、姫の存在を世間に公表していません。世間的には姫は中納言一家にも存在を公表されていませんでしたし、まして今は親も生死の判断がつかない、行方不明のままです。現在の姫は少将に守られると同時に、世間に隠されている身の上です。「どこの誰かは分からないが、少将のお気に入りの女性」と言うのが世間の知る姫の姿です。
それでもこの型破りなお母さんは、少将と姫を信じ、姫を少将の実質的な北の方と認めたようです。本来の北の方(正妻)の仕事である、夫の新年の朝賀の席に着ていく装束の準備を、必要な品だけ贈ってすべて姫に任せました。母親自ら、姫を少将の第一の妻と世間に公表したのです。
姫はどれほど喜んだことでしょう。しかも頼まれたのは大の得意の裁縫です。張り切って召使たちに指示を出します。こうなったら彼女を「姫」と呼ぶのも変ですね。これからは本文と同じように「落窪姫」の事を女君と呼ぶ事にしましょう。
ここにも書かれているように、当時の裁縫と言うと、生地を自分で染めるところからしなくてはなりませんでした。生地を見極め、色の合わせを考え、色を決め、思う色に染まるように指示を出し、染めさせます。思う色に染まったら、貴重な生地が無駄にならないように的確な裁断をさせ(和服ですから比較的単純でしょうが)、折り目をつけて一目一目手で縫っていくのです。
しかも当時の衣装は男女の差はあまりなく、大きな布をゆったりと身につけるので、縫う部分もとても多かったはず。和服ですから直線縫いが美しくまっすぐでないと、仕上がりも良くならないでしょう。しかも重ね着をするので、晴れ着の準備となれば仕立てるまでが大変でした。ミシンの様な機械のない時代、人に任せて仕立てるにしても大仕事です。
でもそこは女君にとっては得意分野。自分で手順も縫い方も良く分かっていますから、優秀なお針子さんさえいれば怖い物は無かったでしょう。手つきを見極める事も出来たでしょうし、自分が指導する事も出来たはず。もちろん、見栄えに関わる所は御自分でも縫ったのでしょう。少将のお母さんはその縫い目の美しさを褒め称えて、宮中の内裏で女御様になっている、自分の娘の大事な行事や儀式の時の、晴れ着の仕立てを頼みたいとまで言っています。まさに「芸は身を助ける」。女君としては変わった特技かもしれませんが、少将のお母さんにとって、「二条の北の方」である女君への評価は、うなぎ登りになっているようです。
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この二条の邸は少将の母上である、左大臣の北の方が親族から受け継がれたお邸でした。
この北の方には左大将との間に女君がお二人お生まれになっています。大君(長女)は帝の女御様(帝の后の一人)となって入内なされており、男君は、太郎君(長男)はこの少将、次郎君は侍従(帝の補佐と雑務係)になっておられ、管弦の遊びに夢中になっておられます。三郎君は幼いので童殿上(殿上人の為の子供の召使)をなさっていらっしゃいました。
左大将はこの、太郎君の少将を幼かった時から大変可愛がっていらっしゃいました。しかも少将自身も明るく朗らかで人に好かれる性質でしたので、世間からも褒められ、帝の憶えも良かったので、こうなっては少将がどんな事をなさっても何もおっしゃりそうにありません。この少将の事となると左大将は笑み捲いて喜ばれるので、左大将の邸に使われている人々は、誰もかれも、雑色や、牛飼いまでもが少将の言う事なら聞いてしまうのです。
こうして年が変わり、一日に着る少将の朝賀の為の御装束は、二条にお住まいの北の方(落窪姫)が染め上げられた色はもとより、裁断も、縫いも、大変美しく仕立てられましたので、少将はとても素晴らしく思い、その御衣装で左大臣のお邸に新年のご挨拶に行きます。
少将の母上の北の方は、少将の装束をご覧になると、
「まあ、美しい。とてもお裁縫が御上手な方なのね。内裏にいらっしゃる女御に大事な事があった時などには、お願いしてみようかしら。縫い目など、本当に美しい仕上がりですわ」
と、大変な褒めちぎりようでした。
そしてこの春の司召(除目)により、少将は中将に昇進しました。位も一気に三位に上がり、上達部になられます。世間の人々からの信望も、これまで以上に勝られることでしょう。
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少将はやはり、相当なお坊ちゃんとして育てられていましたね。多くの兄弟姉妹の中でも、長男の彼はとりわけ愛されて育ったようです。彼の伸びやかで明るい、朗らかな性格は、親や邸中の人から愛されて培われた物のようです。母親の型破りで世間体にこだわらない性格も受け継いでいるのでしょう。ただし、広い心の方は受け継がなかったようですが。
母親も甘いけれど、父親はもっと甘いようです。世間がちょっとでも褒めようものなら、自然に顔が崩れるほどに可愛がって育てたようですね。誰もが自分を愛し、明るく接してくれるので、彼自身もいつも機嫌がよく、明るく楽しい雰囲気を身に付けたのでしょう。 すこしわがままで自分が一番の所もありますが、世間の卑屈さ、口さがのなさを歯牙にもかけない事がいい方向に働いて、普通の貴族よりも真っ直ぐな心を育ててくれたようです。そのあたりが人に好かれる要因なのかもしれません。
そんな彼は春の除目(官職の任命)で、近衛少将から中将へと昇進を果たしました。位にいたっては一気に五位から三位にまで上がっています。特別に昇管運動をしている様子は無かったんですが。帝の憶えも良くて評判がいいからでしょう。
本来、近衛中将は従四位下の位にあたりますが、大臣などの息子で特別に三位を賜る場合「三位の中将」と呼ばれ、格別に珍しいことではありませんでした。名家の子息は得ですね。
彼の年齢も二十歳程度のものでしょうが、現実にも二十歳や二十一、中には十五歳で従三位の中将になった人もいますから、珍しくはあっても不自然な昇進でもないんですね。
それでも親の勢いと、本人の人に好かれる性格のおかげで、大変恵まれた出世をした事に違いはありませんけど。右馬允も、せっせと絹を献上した甲斐がありましたね。当然彼も美味しいご褒美に預かったことでしょう。このために大量の絹を奪われるように用意させられたであろう、地方の人たちは気の毒ですが。正式な納税ってわけではありませんから……。でも、こうやって貴族の暮らしは成り立って行くんですね。




