40.ひりかけ
北の方は姫を典薬助に預けたと思い、安心して今までのように戸に鎖を差す事はなくなったので、「あこぎ」は喜びます。
けれど、時が過ぎ、また日が暮れる頃になると、今夜はどうしたらいいだろうと悩ましく思います。姫のいる部屋の内側からでは鎖を差す事が出来ないので、どうやって籠ろうかとあれこれ戸が開かない様に試してみます。
そこに典薬助がやって来て、
「「あこぎ」姫のお具合はどのようじゃ」と聞くので、
「まだ大変苦しんでおいでです」と答えます。典薬助は、
「わしの姫君のお身体は、どうなってしまわれるのじゃろう」
と、まるですでに自分の妻のような顔をして言うので、「あこぎ」は「可愛げがない」と思って見ています。
すると北の方がまるで鳥が羽ばたくように忙しげにしはじめました。何事かと思っていると、
「明日の臨時の賀茂の祭りには、蔵人少将が舞人として行列に加わるから、そのお姿を三の君にお見せしよう」と、準備に追われているようです。
これを聞いた「あこぎ」はきっと姫を助け出す良い機会があるに違いないと思い、胸の鼓動を速めながら喜びました。
「それなら今夜だけ典薬助から逃れればいいんだわ」
そうとなるとさっそく戸の後ろを閉ざす事の出来るものを探しては、戸の脇に挟んで歩きます。「火を灯せ」などと言っているのに紛れて戸に近づき、敷居の溝に沢山のものを隙間なくはさんで、すぐには探り当てられない様にしました。
部屋の中にいる姫もどうすればいいだろうと考えて、大きな杉の唐櫃の後ろを持ちあげ、戸口において、あれこれと工夫して押さえると震えながら座り込んで、
「どうか、この戸が開きませんように」と、神仏に願をたてました。
北の方は物置部屋の鍵を典薬助に渡し、
「人が寝静まった時、部屋に入りなさい」と言って寝てしまいます。
人々が皆寝静まる頃、典薬助は言われたとおりに鍵を手にして姫のいる部屋に来ると、鎖を開けて戸を引き開けようとしました。どうなる事かと姫は胸のつぶれる思いでいます。
ところが戸の鍵を開けても戸はビクともしません。いくら引いても固く閉まった戸が動かないのです。典薬助はなんとか戸を開けようと立ったり、座ったり、手を広げ悶えるうちに「あこぎ」がその物音を聞いて少し離れた所から様子をうかがいます。
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沢山の心配事が解決する時がやってきそうです。賀茂の祭りの舞人は、いくら臨時の代役とはいえ、大変な名誉でした。その婿君の立派な晴れ姿を見ようと、誰もが心浮き立てているに違いありません。それは北の方だって同じこと。むしろこの邸の実質支配者は北の方です。自分が世話した婿君の晴れ姿。当然見たいに決まっています。
もちろん晴れの席ですから、少しでも立派な行列に、一人でも多くの人を連れて、権威を示しての祭り見学になります。つまり、あの「石山詣で」の時のように誰もかれもが出払って、邸の中が空になるのです。しかも今は北の方も、姫は典薬助に預けたから大丈夫だと油断しています。姫の救出にこれ以上のチャンスはないでしょう。「あこぎ」が胸の鼓動を速めて期待するのも当然です。
そしてそれなら今夜だけ典薬助を姫に近づけなければいいと、割り切ります。明日逃げ出すなら、典薬助をいくら怒らせようとも、もう、関係ありません。「少将様さえ来て下さればなんとかなる」あこぎもそう考えてか、すっかり強気になっています。そして思った以上に「あこぎ」の戸の固め方は頑丈だったようです。老人がいくら力を込めてもびくとも動かないほど、戸は固く閉められているようです。
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典薬助は鎖は探り当てましたが、「あこぎ」が隙間なく差しこんだ所は探り出せずに、「おかしい、おかしい」と言って、
「姫君、中から鎖を差されたか。翁をこうも苦しめられるとは。この邸の方々も、わしとの仲は皆許している事じゃから逃れようなど無いというのに」
と、中にいる筈に姫に訴えますが、誰も返事をしません。戸を叩いたり、強く引いたりしますが、内も外も物を詰めて固めているので戸は揺るぎもしません。
今開くか、今開くかと夜が更けるまで板の上にいましたが、冬の夜の事なので身のすくむような寒さです。その頃の典薬助は腹を壊している上に、着ている物もとても薄かったので、板の冷たさが身体に上がって、腹がゴロゴロ鳴ってきました。
「ああマズイ。身体が冷え過ぎてしもうた」
と言っているうちにもさらに腹がゴロゴロ鳴って、ついにビチャビチャと音がしました。
典薬助は自分の尻がどうなっているか気になって、手で触ると糞が漏れそうだと、尻を抱えてしまいました。あこぎは笑いをこらえるのに必死です。
それでもうろたえて帰る時に、鎖を差して鍵を持って行ってしまったので、「あこぎ」は典薬助をひどく憎らしく思いましたが、戸が開かなかったことが何より嬉しく、戸に近寄ると姫に、
「典薬助は腹を壊して『ひりかけ(糞たれ)』して行ってしまいましたから、もう来ることはないと思います。おやすみになられて大丈夫です。私の部屋に「帯刀」が来ていますので、渡せずにいた少将様へのお返事も、お渡ししておきましょう」
そう言うと、「あこぎ」はとても嬉しい気持ちで自分の部屋に戻りました。
部屋に戻るといきなり「帯刀」から文句を言われます。
「なんで今まで戻ってこなかったんだよ。少将様は『姫君はどうなっておいでだ』と、ずっと心配してらっしゃるってのに」
「あこぎ」が姫様はまだ閉じ込められたままだと言うと、「帯刀」はがっかりして、
「まだ出てこられていないのか。まったく、気にかかって仕方がないや。少将様のお嘆きもひどいもんさ。本当にお気の毒だよ。『夜中などにひっそりと、救い出してあげられないだろうか。そのことを確かめて来い』って言われたんだ」と、肩を落とします。
「こっちも前より大変な事になっているのよ。夜中に救い出して差し上げるのは難しいわ。戸が開くのは一日一度のお食事を差し上げる時だけ。しかもね、姫様は北の方のとても年老いた伯父と結婚させられそうになっているの。姫様はこの事を聞いてから、ずっと胸を悪くされて苦しんでいるのよ」
と、涙ながらに「あこぎ」は話します。やっと「帯刀」に会えて今までの大変だったことを話す事が出来たので、つい涙もこぼれてしまうのでした。「帯刀」もひどい話に同情してくれました。
「お前も姫君も、大変だったんだな」
「そうよ。それに今夜だってね……」
「あこぎ」は典薬助が今夜も姫の部屋に来て閉めだされてしまったこと、あこぎと姫が内と外から固めた戸を、立ったり、座ったり、手を広げて悶えたりしているうちに、身体を冷やしたこと、その後の逃げて行く姿を事細かに話しました。話が『ひりかけ』の所に来ると、「帯刀」はとうとう我慢できずに吹きだしてしまいました。「あこぎ」は少しだけ胸のすくような思いがします。
「そうだったのか。少将様も『早く姫君を救い出して、北の方に仕返ししたい』と言ってるよ」
と、「帯刀」が言うので、「あこぎ」は、
「その、姫様を救う、絶好の機会があるの。明日、この邸の人たちは賀茂の臨時の祭りを見に、みんな出払ってしまうの。その隙に来てほしいのよ」と教えます。
「それは最高に良い機会があったもんだ。早く夜が明けてほしいや」
と、期待で落ち着かない思いで夜を明かします。
その頃典薬助はと言えば、袴にやたら沢山『ひりかけ』てしまったので、姫への懸想の気持ちも忘れ、とにかく袴を急いで洗っているうちに、伏せて寝込んでしまいました。
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はい。このお話で最も下品なシーンです。以前の牛の糞どころじゃありませんね。あれこれ言い回しを考えましたが、中途半端はあきらめて、そのまま『ひりかけ』を載せました。
ただし、擬音はだいぶ現在とは違います。お腹がなるのは『こほこほ』その後の音は『ひちひち』ちょっと実感が湧きにくいですね。でも当時と今ではかなり違ってしまっている擬音は多いです。
猫の鳴き声の「ニャア、ニャア」が『ねう、ねう』などは近いですが、犬の「ワン、ワン」が『びよ、びよ』と言うのは随分遠いですね。赤ん坊は『いが、いが』だそうです。
ですからこの表現でも当時は随分リアルに音まで描かれていたんですね。こんなシーンなのに。本当にこのお話はこういう事に思い切りがいいです。読者に実感してもらうためなら、遠慮がないんですね。当時の人たちもこのシーンで「帯刀」のように吹きだしたんでしょうか?
そう、こんな事態の最中だというのに、「あこぎ」も「帯刀」も明るいです。姫の苦しみに共に涙した先から、典薬助の無様さに二人で笑ってしまっています。この二人はどんな時でも心に笑いを忘れないんですね。この逞しさは本当にうらやましいです。そして「あこぎ」が明るくいられるのはやっぱり「帯刀」の笑いを理解する心あってのことでしょう。彼は少将の冗談もちゃんと理解して受け止めますし、自分でも心に笑いを持っています。
姫と「あこぎ」に焦点が集まりがちな展開ですが、少将と「帯刀」の存在は欠かせません。
この四人がそれぞれに個性的だからこそ、このお話の面白さがあるんですね。
そして、待ちに待った姫救出のチャンスも近そうです。「帯刀」は朝が来るのが待ちきれない思いでいます。もちろん「あこぎ」だってそうでしょう。早く邸の中が空になって欲しいと願っているに違いまりません。
そして典薬助にはしっかりオチまで用意されていました。ふしだらな翁も、『ひりかけ』には敵わなかったようです。




