39.典薬助からの後朝の文
「あこぎ」は遣戸を閉めると、自分が姫と一緒にいた事が北の方に知られない様に急いで自分の部屋に戻ります。すると部屋には「帯刀」からの手紙が届けられていました。さっそく中を開いてみると、もう一通の手紙が入っています。「帯刀」からは、
「俺はこの邸に警戒されているので、かろうじてここまで来たが、やはり門は閉じられ、どうしても開けてはもらえなかった。残念だが帰るしか無かったよ。昨夜顔を見せなかったからって、情が薄いと思わないでほしい。俺も少将様の気持ちを考えたり、御様子を見るにつけ、心の休まる暇がないくらいだ。これは少将様からのお文だ。どうにかして、夜には来る」
と、書かれています。
「今ならまだ、北の方に知られずに姫様にいただいたお手紙を、お見せすることが出来るかもしれない」
「あこぎ」はそう思って急いで姫のところに駆けつけましたが、すでに北の方が来ていて、部屋に鎖を差している所でした。
「ああ、くやしい」と思いながら帰ろうとすると、典薬助とばったり会って、姫あての手紙を渡されます。どうやら典薬助は姫に後朝の文を書いたようでした。「あこぎ」は急いで姫のいる部屋の前に戻ると北の方に、
「ここに典薬助様からの文を預かっています。姫様にお渡ししたいのですが」
と言うと、北の方はニヤニヤ笑って、
「御気分を訊ねているのか。大変良いことだ。男女が心をこめて互いに想いあうというのは結構なことだから」と言います。
そして鎖をしっかりとさしていた戸を引き開けたので、あこぎは喜んで姫に典薬助の手紙と共に、少将からの手紙を差しいれました。姫は勿論、少将からの手紙を読みます。
「そちらの様子はいかがでしょうか。私は日の重なるままにとても悲しく思っています。
君が上思ひやりつつ嘆くとは
濡るる袖こそまづは知りけれ
(あなたの身の上に降りかかった不幸を共に涙して嘆きたかったが、その涙は袖の方が先に知ってしまいました)
私達二人の仲は、どうすればよいのだろう」
そう書かれた手紙を見て、姫はこの上なく悲しく思います。
「わたくしの事を思って下さるあなたでさえ、そんな風に聞かれるのですね。
嘆くこと隙なく落つる涙河
うき身ながらもあるぞ悲しき
(嘆くことにも、涙を川のように落すことにも絶えることのないわたくしの身。涙に浮かぶように生きる、悲しい身の上なのです)」
今度は典薬助への返事の為に筆も墨もあるので、姫は少将へのお返事を書く事が出来ました。
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「帯刀」も、姫への罪悪感もあって、きっと必死に「あこぎ」に会おうとしたんでしょうね。
でも、昨夜は「あこぎ」も姫も大きなピンチを迎えていて、「帯刀」を助けるどころか、こっちが助けてほしいくらいの状況でした。お互いがそれぞれに必死なのにうまくいかない。もどかしい思いも募りそうです。
それでもこの手紙は「あこぎ」に元気をくれたようです。一晩中気をもんで過ごして、くたくたのはずの「あこぎ」ですが、「今なら姫に手紙を渡せるかも!」と、必死で姫の所に駆けつけます。だけど惜しくも一歩遅く、手紙は届けられずに終わるかに見えました。
けれどそこはやっぱり「あこぎ」です。典薬助の後朝の文を使って、無事に姫に手紙を届け、今度はきちんとした返事ももらえました。あんな夜を過ごした後です。姫はどれほど勇気づけられたことでしょう。邸の外にいる二人と連絡を取ることと、姫に気力を保ってもらう事が今は一番重要だと分かっているんですね。素晴らしい頭の回転の速さです。明け方まで顔も見たくないほど嫌って見ていた相手を、瞬時に利用できると判断できるなんて、大したものです。
これほどまでに隙のない子なんて、そうそういないでしょう。味方としては頼もしい限りですが、敵に回したら怖そうなほどの判断力です。これで姫の身に何かありそうなものなら、北の方、彼女に何をされるか分からないですね。なんだか北の方が、少しばかり気の毒な気もしてきました。ここは姫と北の方の無事を祈りましょうか。
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でも、姫は典薬助の手紙は見るのも嫌で、
「「あこぎ」この返事はあなたが書いて下さい」
と言って、典薬助の手紙で少将の手紙を隠して「あこぎ」に渡します。「あこぎ」はそれを素早く受け取って、その場を離れました。「あこぎ」が典薬助の手紙を開いてみると、
「本当に、本当に、まったくもって昨夜はお可哀想なことじゃった。一晩中お苦しみだったのは、この翁にとっても不運な気持ちじゃった。ああ、大切な、大切な、わしの姫君。今夜だけでもわしに嬉しい思いをさせてくだされ。わしは姫君のおそば近くにいられるだけで寿命が延びて、若返るような気がするのじゃ。大切な大切な、わしの姫君。
老い木ぞと人は見るともいかでなほ
花咲き出でて君にみなれむ
(人に老木と見られようとも、若返り、花を咲かせ、実がなるように、あなたとも見慣れるほど睦まじくなりたいものです)
どうか、どうか、わしを疎まんでほしい」と書かれていました。
「あこぎ」は全く不愉快だと思いながら、返事を書きます。
「姫様は大変お具合が悪くて、御自分ではお返事が出来ませんので、私が代筆します。
枯れ果てて今は限りの老い木には
いつかうれしき花は咲くべき
(枯れ果てた最期を迎えようとしている老木に、いつまでたってもうれしい花など咲くはずがないでしょう)」
書いてしまってから、
「こんな事を書いたら典薬助が腹を立てるかもしれない」とおもった「あこぎ」でしたが、
「ええい。書いちゃったんだから仕方がないわ。思った通りの事なんだから」
と、思い切ってそのまま典薬助に渡してしまいます。どうなる事かと思いましたが、典薬助は喜んで文を受け取りました。返事の意味なんで、深く考えなかったようです。
そして今度は「帯刀」への返事を書きます。
「昨夜はとにかく大変だったの。私もどう言えばいいか、分からなくなるくらいのことがあったのよ。あんたがいて、話を聞いてもらえればちょっとは慰めにもなったのに。待ってた効もなくて残念だわ。少将様のお手紙はどうにか姫様にお渡ししたわ。本当にとっても大変なことばかり起ったの。詳しくは会って話すわ」
こう書いて、手紙を使いに届けてもらいました。
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よほど今度のことで「あこぎ」も頭に来ていたのでしょうか。めずらしく彼女は年相応の怒りの表現を見せています。あこぎの返事の歌は平たく言えば、「あんたみたいな死にかけた老いぼれが、姫様の相手になれるわけ、ないでしょうが!」って、ことですね。顔では表情を繕っていても、筆に書いては『口が滑った』ならぬ、『筆が滑った』状態のようです。
典薬助の手紙も凄いですね。まるで姫に手足をすり合わせんばかりの、懇願の手紙。大事に大事にするから、一晩だけでも契らせてくれと。問題はこれが十代の姫に六十の老人が書いている所なんですよね。可笑しいというか、憐れと言うか。
若い姫と一夜を過ごせるのなら、自尊心も何も放り出しそうな手紙です。幼児が使うような繰り返し言葉を多数使っている辺りも、言葉を選ぶ事を失った老人らしさが現れています。
二度も繰り返し使われた「大切な、大切な、わしの姫君」と言う部分は『あが君あが君』で、『あが君』と言うのは、私の大切な人。大事な恋人と言う意味で、少将も何度も姫に「私の大切な姫君」と言う訳で手紙を送っています。手紙で恋しい人を表す時の、決まり文句のような感じです。そして原文ではこの繰り返し言葉がとてもよく効いています。出来れば全文ご紹介したいくらいにリズミカルなんです。
最初の「本当に」からの部分は、『いともいともいとほしく』リズムのいい繰り返し言葉でいきなり姫への想いを強調しています。そして二度も『あが君あが君』。涙でも流さんばかりにひれ伏している感じがします。そして最後は『なほなほ』と、泣きつくような言葉づかいで自分を疎まないでほしいと言っているんです。
前の晩に姫を抱えて「診察だ」と、厚かましく言っていた老人が、同じ人間が書いたとは思えないようなこの手紙の口調。実に笑わせてくれます。読んだ「あこぎ」にして見れば、どこの口の舌の根が乾かないうちに、こんなこと書いて来れるのか。と思ったことでしょう。
言葉を選ばず、やたらと繰り返し言葉のような、ちょっと幼稚さを感じさせる文章を、前夜の自分の態度をすっかり忘れたように(もしかしたら、本当に忘れているのかも)ずうずうしく書いてくる。おもわず「あこぎ」でさえも、つられてしまったんですね。
心の中では「まずいかも」と思ったあこぎでしたが、前夜からの怒りもあって、勢いで「かまうもんか」とばかりにそのまま典薬助に渡しますが、老いてしまって意味が通じないのか、返事が来ただけで納得してしまったのか。典薬助は喜んで受け取りました。
以前、この時代の和歌は子供や老人でも親しめる、「コマーシャルソング」のように気楽な物と書きましたが、それだけに和歌を見て、洒落や冗談、皮肉などがピン! と来ない人はかなり軽侮されたようです。ここは典薬助がそういう軽侮をされている所をあらわしているんですね。
ひどい夜の後なので、「あこぎ」も「帯刀」を薄情者とやり込めることもなく、「せめて愚痴を聞いて欲しかった」と「帯刀」に弱気な所を見せています。姫にはまるで指導者のように、毅然として見せた「あこぎ」も、やっぱり「帯刀」の手紙には女の子らしい気弱さが出てしまうようです。こんな彼女も可愛らしいですね。「帯刀」も今度こそ、あこぎに会いに来られるといいんですが。
典薬助の書いた手紙が、なかなかリズミカルで面白いので、参考に原文を載せておきますね。
「いともいともいとほしく。夜一夜悩ませ給ひけることをなむ、翁のものの悪しき心地侍る。あが君あが君、夜さりだに、うれしき、見せ給へ。御あたりだに近く候はば、命延びて、心地も若くなり侍りぬべし。あが君あが君。(和歌)
なほなほ、な憎ませ給ひそ」
なんだか拍子を取ったり、太鼓でも叩きたくなります。




