38.「あこぎ」の説得
典薬助が行ってしまうと「あこぎ」は、
「この数年、大変つらいことが多々ありましたが、その中でも今度の事はひどく辛いことです。一体どうしたらよいのでしょう。前世にどのような罪があって姫様はこのような目に遭われなければならないのでしょうか。それに北の方は後世にどんな身に生まれようとこのようなひどいことをなされるのでしょう」と、あまりのことに愕然としながら言いました。姫も、
「もうわたくしは本当に何も考える事が出来ないわ。今まで死ぬこともできなかったことが、辛いばかりで」と嘆きます。そして、
「とにかく、もう、気持ちが悪いの。あの翁が近づいてくるだけで、ひどく辛いのよ。その戸に鎖を差してしまって、典薬助を閉めだしてちょうだい」
と、姫は「あこぎ」に頼みますが、「あこぎ」は賛成できません。
「お気持ちは分かりますが、そんな事をしても典薬助を怒らせるだけでしょう。ここは機嫌を取って、なだめておかなくてはなりません」
そういう「あこぎ」に姫は怪訝そうな顔を向けます。それでも「あこぎ」は言いました。
「明日、すぐにでも助けに来て下さる人でもいるのなら、典薬助を閉めだすのもいいでしょう。今宵は戸を閉め切って、明日の朝にそういう人に相談することも出来ます。でも、今はそういう人がいないんです。少将様だってどんなに心配なさってくださっていても、今、何ができるって言うんです。邸の外にいる少将様には、たった今、姫様がこんなにお辛い目に遭っている事に思い寄ることさえも難しいでしょう」
「あこぎ」は姫に、今この時の現実をお話します。たとえ少将様の御心を頼りにしていても、今、この場では姫は「あこぎ」と共に、自力でこの状態をやり過ごさなければならないのです。
脅えて泣いているだけでは典薬助や北の方の思うつぼ。姫にしっかりしていただくより、他に手立てはないのでした。
「さあ、私と共に神仏にお祈り下さいませ」そう言って姫を励まします。姫も、
「たしかに「あこぎ」の言うとおりだわ。今のわたくしに頼れる人はいないし、姉妹でさえも味方になってはもらえない。これまでもそっけない態度しか見せていただけなかったもの。そんな人達では相談することもできないわ」
姫も少しは冷静になって、「あこぎ」の言葉を受け止めます。
「本当に悲しいことだけれど、わたくしと心を分かち合ってくれるのは、「涙」と「あこぎ」だけなんだわ」
そう事実を受け入れてしまうと、やはりそれはとても悲しくて、今夜は「あこぎ」がそばにいてくれる分、二人で共に涙を分かち合うのでした。
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弱気な姫に、とうとう「あこぎ」ははっきりと言いきりましたね。もっとしっかりしてほしいと。本当なら姫のような人は、しっかりすることよりも、ちゃんと人の言う事を守れる人間でいる事を求められるんでしょうけど、今の姫の境遇では、そんな事は言っていられません。
確かに姫はこの時代の理想的な姫君ですけど、全ては姫を全面的に保護出来る人がいてこそ。今の姫にはどうしても強さを求められるのです。
そして姫にも覚悟ができたようです。姫は今まで自分の身の上を嘆きながらも、その身の上の現実から、目をそむけていたのですね。その現実に向き合う事が出来たのは、「あこぎ」の姫を思う気持ちと、少将の愛でした。姫も確かに少将の愛によって、少しづつ変わっていました。今までの「死にたい、死にたい」ばかりでは、目の前の愛を失ってしまうのです。そしてその愛する人は、姫が生きることを望んでいるのです。
ようやく姫も、誰かの為に必死に生きるという、人を愛する意味を理解したようです。自分の命が自分だけのものではないことを実感として受け止め、その人の為に自分の身を守りたいと本気で願っているのでしょう。「あこぎ」もこれまで姫の為に懸命になってきましたが、その事に感謝しつつも姫は自分を大切にしようという気にはなかなかなってくれませんでした。少将の愛が姫に与えた影響は、それほど大きなものだったんですね。
でも、やっぱり二人は唯一無二の存在なのでしょう。「あこぎ」は必死で姫に生きることを望んでいますし、姫に「少将の為にも生きたい」と思わせたのはほかならぬ「あこぎ」です。この場面の「あこぎ」に少女らしさはまったくと言っていいほど感じません。姫を強く生きる人になって欲しいと、導く人としての威厳さえ感じさせます。そんなあこぎにとっての生きがいが姫なのでしょう。この少女には、どこか母性的な愛を感じます。
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そうしているうちに翁が本当に焼石をどこからか持ってきました。こんな夜中なので焼石の用意など出来ないだろうと思っていた二人は残念に思いますが、典薬助の機嫌を取ろうと、姫自らの手で焼石を受け取ります。その時の姫の気持ちは、恐ろしいほどに辛く思っていました。
翁は装束の帯紐を解いて、横たわりながら姫を抱き寄せようとします。そこで姫は、
「私の大切な方。そのような事はなさらないでください。とてもひどく胸が痛むのです。こうして起き上がっている方が、少し楽な気がいたします。後々のわたくしとの事を考えて下さるなら、今夜は何もせずに、ただ、横になっていて下さい」と言います。
姫にそう言われると、胸が痛む時はそういう事もあるのかと思い、
「それならわしに寄りかかられると良いじゃろう」と言って、姫のすぐ前に横たわりました。
姫は嫌なことだと思いながらも、典薬助にもたれかかって泣いています。「あこぎ」も姫の傍にいて、典薬助の事は憎いけれど、おかげで姫の傍にいられるんだからと、そこだけは嬉しく思い、典薬助に感謝しました。
典薬助はほどなく寝入ってしまい、いびきをかいています。その姿に姫は少将の事を思い合わせてしまって、余計に典薬助を憎らしく思ってしまいます。
「あこぎ」の方は、
「どうやってこの邸から、姫様をお連れして出て行こうか」と策を考えています。
翁が目を覚ました時は、姫はより胸を痛がり、苦しがってみせるので典薬助は、
「ああ、お可哀そうに。わしがそばにいる夜に限って、こんなにも苦しまれるとは。悲しいことじゃ」と言って、また寝入ってしまいました。
そうして夜が明けたので、姫も「あこぎ」もそれは嬉しく思いました。「あこぎ」は早速翁を突き起こします。
「もう明るくなりましたよ。この部屋から出て下さい。しばらくの間は、人に昨夜のことは知らせない方がいいですよ。姫様の事を末長く思って下さるんならね。姫様のお言葉に、従った方がいいでしょう」と、典薬助にくぎを刺します。
「そのとおりじゃな。わしもそう思う」
典薬助もそう言って、眠たそうに目ヤニでふさがった目を手でぬぐい開くと、姫に寄りかからせていたために身動きできず、すっかり固くなってしまった腰を、折り曲げたまま部屋を出て行きました。
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絶体絶命に思われた姫のピンチを、二人はどうにか乗り越えました。「あこぎ」の言葉に目が覚めた姫も、懸命の演技で典薬助の機嫌を損ねない様に、耐えきりました。
典薬助の方も、ちょっとおだてられると弱いところがあるようですし、そもそも女性には甘そうです。下心があるというものの、弱った女性を困らせるようなことができる人ではなさそうですね。
以前の姫ではそれでも危なっかしかったのですが、今の姫と「あこぎ」の組み合わせでは、典薬助を選んだ北の方は完全に人選を失敗したようです。
そして姫は今を乗り切るだけでいっぱいいっぱいだったようですが、「あこぎ」はすでに姫を連れ出す具体案はないかと、考えを巡らせています。
典薬助は人の良いところがあることが分かって、一安心ですが、北の方はそうはいきません。
この邸にいる限りは北の方の掌中にいるのと同じ。いかにしてこの邸で北の方の目をくらますかは、とても難しい問題のようです。
今なら姫を典薬助に預けて一安心と、北の方も油断してくれそうですが、これが姫を連れ出す隙に繋がってくれるのでしょうか。邸に入れない少将と「帯刀」にも、連絡を取りたいところです。
とりあえず、目の前の危機は去りました。「あこぎ」は姫を励ましつつ、邸に良い隙はできないかと、懸命に目を見張っていることでしょう。




