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37.焼石

 北の方が中納言にお食事を差し上げている間に「あこぎ」は姫の部屋にそっと近寄ると、戸を軽く叩きました。


「誰」と姫の声がするので「あこぎ」は、


「実はあの厭らしい典薬助が北の方にそそのかされて、姫様と結婚する気でいるのです。それも今夜、姫様のもとに行くつもりでいます。私は『今日は姫様の御忌日おんきにちです』と言っておきましたが、まったく恐ろしいことになりました。どういたしま……」


 と、姫に御相談している途中でしたが、北の方の気配を察したので最後まで言いきることもできずに、立ち去らねばなりませんでした。

 話を聞いた姫は、さらに胸が張り裂けるような思いでいます。今までも辛い思いをして来たと考えていましたが、今度の事に比べればものの数に入らないと思えるほど苦しくて、


「もう、逃げ隠れ出来る方法もないわ。どうしたらたった今死んでしまう事が出来るかしら」


 などと思い詰めているうちに、胸がひどく痛くなってしまいました。とうとうその場で胸を押さえて、うつ伏せに泣き崩れてしまいます。


 やがて火を灯す頃になると、年老いた中納言はすぐに眠気に襲われるらしく、早々と眠ってしまいました。でも北の方は典薬助の事があるので、起き上がって姫のいる部屋の戸を開け、様子を見ます。すると姫がうつ伏せになったまま、ひどく苦しげな姿で泣いていました。


「なぜ、そんなに泣いているんです」と北の方が聞くので姫は、


「……胸が痛むので……」と、虫の息のような声で答えます。


「それは可哀想に。きっと何かの罰でも当たったんでしょう。医者の典薬助に胸元を探らせてみたらどうでしょう」


 北の方がそんな事を言うので、これには姫もたとえようもなく憎らしく思いました。


「いいえ。ただの風邪ですわ。お医者様に診てもらうほどではありません」


 姫はそう言って断りますが、北の方は、


「そうは言っても胸の病は恐ろしいものですよ」と言います。


 二人がそんなやり取りをしている間に典薬助がやって来て、北の方が、


「こちらにいらっしゃい」と呼ぶと、素早く寄ってきました。


「この姫君が胸を病んで苦しんでいます。何事かの罪のせいとは思うのですが、胸元を探って診て、薬でも差し上げて下さい」


 北の方はそう言って、典薬助に姫を預けて行ってしまいました。典薬助は、


「わしは医者じゃから姫君の御病気もすぐに直して差し上げましょう。今宵より、ただわしを頼りに思って下され」


 そう言いながら姫の胸元に手を触れ、掻きさぐり出したので、姫はあまりの気味の悪さに泣き叫んでしまいます。でも、誰も止めに来てくれるような人もいません。とうとう我慢も出来かねて、切実に苦しい思いで、泣きに泣きながら、


「それはとても頼もしく思いはしますが、今はさらに苦しくて、どうしようもないのです」


 と、ようやく言って典薬助から逃れようとします。でも典薬助は、


「頼もしく思っていただけるか。どうしようもなくお苦しいのならば、今はこの翁こそ姫君の代わりに病になりましょうぞ」そう言ってさらに姫の身体を抱きかかえます。


 北の方は姫を典薬助に預けたので安心して、いつものように戸に鎖をさすこともなく、眠りについてしまいました。


 ****


 姫にとってはこの上なくひどい場面ではあるんですが、読み手としては正直「実にうまいなあ」と、感心させられる表現方法です。


 まず、「あこぎ」との相談が途切れてしまい、姫の不安が一層募っている事を読み手に想像させます。唯一頼りにしている「あこぎ」との話も途切れ、途方にくれる中で恐怖だけは確実に迫ってきます。姫の胸が痛みだしたと言っても、ちっとも不自然に感じません。ろくに物も食べずに、吐き気を催しそうな匂いの中、逃げようのない恐怖だけが迫ってくるんですから。

「あこぎ」との会話が途切れることで、姫の感じている恐怖が一気にリアルになります。


 そして北の方との会話。北の方がやけに丁寧に姫に接しています。それもイヤミ交じりに。

 北の方が猫なで声で声をかけ、姫の反応をいちいち楽しんでいる様子が、この会話だけで目に浮かびます。これまでの言いっぱなしの表現から、真逆に皮肉をたっぷり込めた丁寧な口調。それでいながら、姫に胸を典薬助に『掻い探らせ』なさい。と、実にストレートな表現で勧めています。これで今まで一度も姫が抱かなかった北の方への憎しみを、初めて表すのです。これだけで姫がどれほどこの事を辛く思っているか、ひしひしと伝わります。


 しかもその後の表現も決して遠回りにはしません。北の方が立ち去った後、典薬助の動作がはっきりと客観的に書かれています。姫が飛びあがらんばかりに悲鳴を上げたであろうことが、すぐに推測できます。そして助けが来ないと強調するのです。

 私が女性のせいでしょうか? ここまで第三者の視線で描くと、不思議と厭らしさは感じません。伝わるのはひたすら姫の恐怖です。余計な感情がそぎ落とされて、姫の恐怖心だけが浮き彫りになる。まるでホラーの一場面のようです。


 これこそがこのお話の大きな持ち味だと私は思います。悲劇的かと思えは滑稽で、爽快かと思えばジリジリさせられる。そして一見厭らしそうな部分が、恐怖心を煽る描き方で表される。遠慮のない、感情移入のしやすい書き方で、読者をとてもうまく振り回してくれるのです。

 これは千年以上昔のお話なんですよ。なんて技巧的なんでしょう。


 同じ古典でも王朝文学とはまるで色が違いますね。あくまでも庶民を対象にした作風だからこその表現方法でしょう。全てが雅な中に描かれて、物を食べる場面さえほとんどない王朝物とは一線を画しています。この辺を私は今日の「ライトノベル的作品」だと感じるのです。

 ここはあくまで姫の恐怖が中心に描かれて、いわゆる「サービスシーン」とは違います。弱々しくはかなげな姫に、最大限に読者の同情を寄せさせる事がこのシーンの目的でしょう。


 実はこの作品の「サービスシーン」は、別にあると私は思っています。幾度か少将がおこなってきた「垣間見」です。当時、男性がある程度の身分の女性の姿や顔を見る事は、本当に難しかったようです。特に取り澄ましていない普段の顔など、絶対に普通に見る事は出来ません。

 普通にできない事は、人の興味を大きく駆り立てます。当時の男性にとって良く行われていたとはいえ、やはり「垣間見」はかなり魅力的な事だったんじゃないでしょうか。


 そう考えると、上手く人の気配のないところで姫君を「垣間見」し、その後は姫の部屋に隠れて普段の人々の姿を「垣間見」し放題。他人の邸の内実をこっそり知るというのは、直接的な恋がいくらでも許される当時の男性にとっては、かえって十分刺激的な事だったと思うのです。

 そう考えると読者を楽しませる技術にいかにこの作品が長けているか。私は感心させられるところが多いのです。


 ****


「あこぎ」は典薬助が姫の部屋に入ったのではないかと心配で、慌ててやってくると戸が細めに開いています。「まさか」と胸のつぶれるような思いをしながらも、姫の傍に近寄れるのが嬉しくて戸を引き開けて部屋に飛び込むと、典薬助が姫を抱きかかえてしゃがんでいます。部屋に入り込まれていたのかと思うと、気が気でなくて、


「今日は姫様の御忌日と申し上げたのに。心づかいもなく部屋に入り込むなんてひどいじゃないですか!」と言ってやると、


「何を言うか。男女の関係を迫ったというのならともかく、『姫君の胸の病を診ろ』と北の方がわしにお預けになっていったのじゃ。わしは診察をしていたのじゃ」


 と、典薬助は言い返します。成程良く見ると、典薬助は衣装の帯紐も解いてはいません。


 姫は大変に苦しんでいましたが、さらにこれ以上ないほど泣き続けています。「あこぎ」は、


「どうして姫様ばかり、取り分け、こうもひどい目にばかり遭われるの。まったくこれはどういう事なのかしら」と考えてしまい、ひどく心細くも悲しく思えます。それでも「あこぎ」は、


「姫様、焼石(焼いた石を布でくるんだもの)を胸にあてて、温めてみてはいかがでしょう」と姫に声をかけます。


「それはいいわ」と姫もおっしゃって、「あこぎ」は典薬助に、


「あなた様が今は頼りです。焼石を探してきて下さい。みんな寝静まってしまって、私が頼んでも誰も用意してはくれませんから」とお願いをし、


「あなた様のご誠意を姫様にお見せする初めの事にして下さいませ」と典薬助を持ち上げると、


「そうですな。残りの寿命も少なくなったわしじゃが、姫君が一筋にわしを頼りにして下さるのなら、ご奉仕いたしましょうぞ。姫君の為なら岩山でさえも御持ちしようと思っていますのじゃ。まして焼石など実にたやすいこと。わしの『おもひ(想い)』の『ひ(火)』にて石を焼いて差し上げましょう」と、長々しゃべっているので「あこぎ」が、


「どっちの火でも同じなんだから、早くっ」


 と急き立てると典薬助も、


「どうせなら姫君に逃げられない様にするには、わしを親しく想うようになっていただいた方がずっと楽じゃろう。わしの誠意や愛情を姫君にお見せしよう」


 と思い、焼石を求めて立ち去っていきました。


 ****


 さすがは「あこぎ」です。ギリギリ姫の危機には間にあいました。典薬助は帯を解く間もありませんでした。どれほどの剣幕で「あこぎ」が部屋に飛び込んだか想像がついてしまいます。

 ここで『戸を引き開けた』となっているのは、この部屋の戸が、途中から「遣戸やりど」と呼ばれる引き戸になっているからです。


 姫が押し込められた戸は樞戸くるるどと書かれていました。けれど北の方が姫に笛の袋を縫わせる所では、遣戸になっています。これは途中でお話が一巻から二巻に移ったので、単なる間違いだという説と、この部屋は二つの戸がついた構造になっているという説があります。


 困ったことにこの戸の存在は、この後のお話に大きく関わってしまうので、現時点では戸は引き戸を使っていると思って下さい。樞戸は何らかの問題が発生して、開ける事が出来なくなったようです。訳によってはこういう矛盾を避けるために最初から遣戸で統一されているものもあります。私はこの時代にすでに、回転式の扉の存在があったという事実が面白く感じたので、樞戸を登場させてみました。あまり部屋を仕切らない構造の寝殿造りのお邸ですが、建具に関してはかなりの技術がすでにあったんですね。


 さて、典薬助もなかなか面の皮が厚いようで、姫への動作は診察だと言いきっています。ここでは分かりやすくするために典薬を「医者」としていますが、原文は「薬師くすし」で薬草を使った薬剤師さんのような感じです。当時は薬草による治療や、祈祷による病魔の平癒が治療の中心でした。薬師にそれほど触診による診断が出来たとは思えません。

 そういう人が胸を『掻い探る』必要はなさそうですし、まして姫を抱き寄せる必要なんて、もっとありません。「あこぎ」も白々しさにあきれた事でしょう。


 でも、ここで「あこぎ」は典薬助の言い分を逆手にとります。診察をしているのなら、姫のお苦しみを和らげろと、焼石を持ってこいと言って、上手く典薬助を追っ払ってしまいました。

 しかも話の持って行き方が巧みです。自分では真夜中に焼石の用意など出来ない。典薬のあなたならなんとかできるでしょうと、下手に出てお願いをし、姫に誠意を見せる最初の仕事だと言いくるめます。


 この後の典薬助とのやり取りもユニーク。典薬助が老人に不似合いな恋の想いの火で、石を焼いて見せると姫に語って聞かせようとしている所に、どっちでもいいから早くしろと追い立てます。「あこぎ」としては一時でも早く、姫から典薬助を離して追い払いたかったんでしょう。「いいからさっさと行け!」と言う「あこぎ」の心の声が聞こえてきそうです。


 それなのに典薬助は、どこからその自信が来るのか本気で姫に好かれるつもりでいるようです。誠意と愛情を示せば自分が姫に想われて、自分のもとから逃げ出す気など無くなるだろうと本気で考えているようです。どうやら典薬助の頭の中だけは随分と若返って、雅男になった気持ちでいるようです。

 姫を憎む北の方や、その北の方に操られて姫を平気で疎んでしまう中納言よりはマシかもしれませんが、姫にとっては困った好意を寄せられたものですね。


 だけどそのおかげで姫と「あこぎ」は共に寄り添って協力することができ、典薬助を口車一つでとりあえずは追いやることができたようです。

 けれども二人にとっての長い夜は、まだ続くのでした。


追加です。焼石の説明をすっかり忘れていました。

当時は拳くらいの大きさの石を、焼いて熱し、それをしっかりと布にくるんでちょうどよい温かさになったものを、今のカイロのようにして使いました。

姫の言う胸の痛みも、おそらくはストレス性の胃痛でしょう。

温める事によって、痛みが和らいだものと考えられます。

そして当時の風邪はかなり広い意味で使われたようです。

人が邪気にあたって起る軽い病は、全てを風邪と呼んだそうですから。

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