36.針に込めた愛
「あこぎ」は少将様から頂いた手紙を握りしめ、どうやって姫様にお渡ししようかと歩きまわっていましたが、まったく戸の開く気配はありません。「あこぎ」は切なくなるばかりです。
少将と「帯刀」はどうやって姫君を連れ出そうかと、考えを巡らせています。少将は自分のせいで姫君がこんな目に遭っていると思うと一層姫君がお可哀そうで、
「何とかして姫君を連れ出して、後で北の方に、気が動転するほど悔しい思いをさせてやる」
と、思うばかりではなく、口にまで出して言うほど、執念深く考えていました。
一方、以前姫に親しく話をしていた少納言が、交野の少将の手紙を持ってきましたが、姫がこうして閉じ込められていると知り、大変驚き、悔しくもお気の毒に思い、「あこぎ」と、
「姫君はどんなお気持ちでいらっしゃるでしょう。なぜこのような目に遭う身の上でいらっしゃるのでしょうか」と話し、声も立てずにそっと涙をこぼしています。
日が暮れるにつれ、「あこぎ」はなんとかお手紙をお渡ししたいと願っていました。
一方北の方は蔵人少将の笛の袋を誰かに縫わせようとしますが、誰も縫い方が分かりません。誰も手を付けようともしないので、北の方は物置部屋の戸を開け、中にはいると、
「これをたった今、縫いなさい」と姫に命じます。
「ひどく気持ちが悪くて」と姫がそのまま伏せっていると、
「これを縫わなければ、下部屋(下働きの者達の部屋)に連れて行って押し込めるよ。こういう事をしてもらうために、ここに置いているんだから」と北の方がいいました。
この人なら本当に言った通りのことをしかねないとと思うと、姫は辛く、気分が悪くて自分の身とも思えぬように苦しいけれど、起き上がって縫いはじめました。
「あこぎ」は部屋の戸が開いたのを見ると、あの、三郎君を呼んで、
「前は本当に嬉しいことを言って下さいました。またお願いがあるのです。この手紙を北の方が見ていらっしゃらない隙に、姫様に渡して下さい。絶対にその様子を気づかれないようにね」
と言うので、三郎君は「いいよ」と受け取りました。
姫の閉じ込められた部屋に入ると、姫の横に座り笛を手にとって遊んだりして、隙を見て姫の衣の下に少将の手紙を差しいれました。
姫はすぐにでも手紙を読みたいと思いながら縫い終えると、北の方が蔵人の少将に袋を見せに行っている間に、かろうじて見る事が出来ました。それはそれは嬉しく思って、硯や筆もありませんが少将様に何とかお返事を書きたい一心で、針の先を使い、ただ、
「 人知れず思ふこころもいはでさは
露とはかなく消えぬべきかな
(人知れずあなたを思っている心も伝えられずに、私ははかなく露と消えてしまいそうです)
と思う事が悲しいのです」
と書いてそれを見つめています。そこに北の方が来て、
「さっきの笛の袋はとてもよく縫えていた。でも、『戸を開けっぱなしだ』と中納言様が怒っています」
そういって戸を閉め、鎖を差そうとするので姫はあわてて、
「待って! 「あこぎ」に『あちらに持っていった櫛箱を持ってきて』と伝えたいのです」
と言うと、北の方は手を止めて「あこぎ」に、
「『あの櫛箱を欲しい』と言ってるよ」
と言うので「あこぎ」は大慌てで櫛箱を姫のもとに持っていきます。姫は箱を持って差しだされた「あこぎ」の手の中に、さっきの返事の手紙をこっそり入れ、「あこぎ」も手紙を隠して立ち去ります。
そして少将のもとに、
「お手紙は北の方が姫様に笛の袋を縫わせようと戸を開けた時に、かろうじてお渡ししました」
とお伝えします。少将はただひたすら、姫君を可哀想に思われました。
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姫、今までで一番必死ですね。北の方に「縫わなければ下部屋に入れる」と脅されて、危機感が増したようです。下働きの人の部屋となってはいますが、この口調では、邸の警備などでもする、荒くれた男達の部屋の事でも言っているのでしょう。吐き気も吹き飛んで袋を縫い上げたようです。
そしてこういう機会を「あこぎ」は決して見逃しません。あの三の君に再び手紙を託します。三の君も前に北の方に叱られ、叩かれたにもかかわらず、果敢にも姫に手紙を渡してくれました。しかも今度は上手に北の方に知られることなく渡す事が出来たようです。
そのお返しが泣かせてくれますね。当然書く道具など無い環境ですが、少将に一言返事を伝えたい一心で、持っていた針の先で歌をしたためます。墨などあるはずもないですから、針の先で弱々しくひっかいた文字だったのか、指先を針で突いて、自分の血で文字をつづったのか。
どちらにしても必死さがこんなに伝わる手紙も、そうそうないでしょう。
そうまでして必死に書いた手紙です。姫も今度ばかりはおとなしくあきらめはしませんでした。北の方の手を無理に止めさせてまで「あこぎ」に櫛箱を持ってきてほしいと頼みます。北の方も自分の手に入りそうもない、櫛箱の一つくらいでとやかく言う気はなくなったようです。姫を完全に閉じ込めて、これから典薬助に見張りをさせ、姫が他の男と結婚できないようにすれば全ては万々歳と、ある程度安心しているようです。
そんな事とは知らない姫と「あこぎ」は、今この場で少将にせめてもの手紙を届ける事だけで頭がいっぱいになっています。
それにしても姫と「あこぎ」の心のつながりは本当に深いのですね。姫はとっさに「あの箱を」と言い、「あこぎ」はちゃんと北の方の手に渡らない様に、櫛箱を保管していました。
少将との手紙が入った櫛箱を、「あこぎ」がやすやすと北の方に渡す事はないと、姫も分かっているんでしょう。二人の信頼の深さが分かるやり取りです。
受取った少将の気持ちなんて、もう、書いても蛇足ですね。
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日が暮れて来たので典薬助は早く夜になればいいのにと心浮き立ち、そわそわしながら歩き回り、「あこぎ」の部屋に寄ると、ひどく気持ちの悪い笑い方をして、
「「あこぎ」もこれからはこの翁(典薬助)を大切に思ってくれるようになりますな」
などと言うので、「あこぎ」はひどく気味が悪いと思い、
「なぜ、そんなことおっしゃるんです」と聞き返します。すると典薬助は、
「「落窪の君」をわしが賜る事になったからじゃよ。「落窪の君」はお前の大切な主人ではないのか。だったら婿になるわしの事も大切にしてもらわないと」
といいます。「あこぎ」はあまりに驚き仰天し、なんてひどい事になったのかと、とっさに包み隠そうとした涙さえ堪え切れずに出てしまうほどでしたが、それでも平静さを装って、
「姫様には頼りになる男君がいらっしゃればいいのにと日頃から思っていましたから、私も頼もしく思いますわ。ところで、御結婚の許可を下さったのは中納言様ですか。それとも北の方かしら」と聞き返します。
「中納言様も恵んで下さったのじゃ。私に目をかけて下さっている北の方は、言うまでもありますまい」と、それは喜んでいるようです。
「あこぎ」は他の何事よりも「どうにかしなきゃ」「なんとかこの事を姫様に伝えなければ」と思い、もうじっとしていられません。
「で、そのご結婚はいつになるのですか」と聞くと、
「今宵じゃよ」と、典薬助は待ちきれないような顔で答えています。
「まあ、今日は姫様の忌日ですのに。御疑いにならないで、本当のことですから」
「あこぎ」はとっさにそう言いましたが、
「じゃが、姫君には他に男がいるそうではないか。急がないと危ういものだ」
そう言うと典薬助は立ち去っていってしまいました。「あこぎ」は途方に暮れるばかりです。
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典薬助はどうも口が軽いようです。若い姫を賜ったと、浮かれて誰かに自慢したくてならなかったんでしょう。北の方は人に知られぬように内密に事を運んでいるのに。
他の人に言う訳に行かなくても姫のお付きの童ならと、我慢できずに「あこぎ」に自慢しに来たようです。おかげで「あこぎ」はこの事態を知ることが出来ました。
でも、さすがの「あこぎ」も今度ばかりはお手上げのようです。良い手も思い浮かばずに途方に暮れています。
そこまでひどいことをするのかと仰天し、大事な姫様が北の方のいいようにされている事に涙が隠せないほど悔しい「あこぎ」ですが、今騒いでここを追い出される訳には行きません。歯を食いしばって冷静さを装ったことでしょう。彼女のことですから、笑顔さえ浮かべたかもしれません。
せめて中納言が反対なら、邸の主の許可を得ずに結婚なんてと、口車に乗せる事も出来ましたが、聞いてみれば中納言は全くあてにできないと分かりました。何か手を打とうと「いつになるか」と聞いてみると、何と今夜だと言うではありませんか! 時はすでに日暮れ。さすがにこれでは「あこぎ」も手を打つ暇がありません。
北の方の身内の典薬助を邸から追い出す方法もないし、逆に自分が追い出されそうな身の上で、表立って動く事が出来ません。そのうえ姫は閉じ込められ、北の方が直接監視しています。
とっさに「今日は姫の忌日だ」とは言いましたが、典薬助は「他の男がいるから」と北の方に煽られて「急いでしまえ」という気でいるようです。「忌日」とは喪に服し身を慎む日のことで、命日のことです。ただ、ここでは話の流れから女性の「月のもの」の日と解釈される場合もあるようです。どちらにしても普通なら結婚出来るような日ではありません。
ただ姫は今、人として扱われてはいない上、閉じ込められ監禁状態。そして典薬助は北の方にいいように煽られています。少将がすぐに助けに来れる訳でもないでしょうし、そもそも連絡する暇さえありません。まさに八方ふさがり。
せめて姫にこの事をお伝えしたいと、「あこぎ」はじりじりした思いでいるようです。
ところで、典薬助が浮かれてそわそわする様子が、「心化粧」と書かれています。恋しい人に逢うのに心の中まで化粧したように、浮立つ様子を表す言葉です。恋心に良く似合う、美しい言葉ですね。
私としてはこんなところで使ってほしくなかった言葉ですが、よぼよぼな老人の「心化粧」は確かに滑稽さが増しますね。このお話の作者の笑いのセンスが光ります。




