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34.悲しい伝言

 とうとう夜になって少将がやってきました。少将は「あこぎ」から一部始終の事情を聞かされ、大変決まり悪く思いました。


「姫君はどんな思いでいることだろう。とにもかくにも、私のせいでこんな目に遭わせてしまったのだ」と、これ以上ないほどに嘆かれます。そして「あこぎ」に、


「人目がない時に姫君の近くによって、こう伝えてくれ」といい、言づけを頼みました。


「早くお逢いしたいとやってまいりましたが、驚くなどと言うありきたりな言葉では足りない、悪夢のような話を聞かされて、途方に暮れるばかりです。あなたがどのようなお気持ちでいるのかと思うと、私もあなたのお気持ちに勝るほど苦しい思いに駆られてしまいます。どうしたらお目にかかることが出来るのかと考えるにつけ、とても辛い思いをしています」


「あこぎ」は少将の伝言を胸に、衣擦れの音がなる衣を脱ぎ、袴の裾もたくしあげて、中納言や北の方に見つからないよう、下廂しもびさしの方に遠回りをして姫の閉じ込められた物置部屋に行きました。人も寝静まっているので「あこぎ」はこっそり戸に近づくと小さな声で、「もしもし」と言ってそっと戸を叩きます。けれど中からは何の音も聞こえません。


「おやすみになられてしまいましたか。「あこぎ」が参りました」


「あこぎ」がそう言うと、やっと姫の耳にもほのかにその声が聞こえました。姫もそっと声の方に近寄って、


「どうしてここに来たの」と言いますが、すぐ涙ながらに、


「ひどい事になりました。一体どうしてこんなことをされなくては……」


 姫は涙声のあまり、最後まで言葉を紡ぐことが出来ません。「あこぎ」も泣きながら、


「今朝からこの部屋のあたりをかけずり回っていたのですが、近づく事が出来ませんでした。本当にひどい事になりました。北の方が姫様と「帯刀」の事を、中納言様にあることないことおっしゃったのですわ」


 と言うと、姫は一層激しくお泣きになります。


「少将様がおいでになっています。事情をお聞かせしたので、涙にくれていらっしゃいますわ。少将様から御伝言を預かっております」


 そう言って「あこぎ」がお言葉を伝えると、姫はそのお言葉が本当に心に染みました。


「少将様に、『ますます何も考える事が出来なくなってしまい、お返事も差し上げられません。お目にかかるのは難しいですわ。


  消えかへりあるにもあらぬわが身にて

    君をまた見むことかたきかな


(消えてしまったようになって、生きているのかどうかも分からないような私の身では、あなたにお目にかかるのは難しいことでしょう)


 と、伝えてちょうだい」と、「あこぎ」に言づけを頼みました。そして、


「ここはとても臭い物がたくさん並んでいるので、たまらないほど気持ち悪くて苦しいの。なまじ生きているばかりに、こんな目に遭うものなのね」


 そうおっしゃって、それこそありきたりな言葉では足りないほどにお泣きになります。「あこぎ」の気持ちも、どれほどのものがあったことでしょう。


「あこぎ」は人が驚いて目を覚ましたりしない様に、こっそりと少将の待つ、自分の部屋へと戻りました。


 ****


 少将は自責の念に駆られたようです。まさか北の方がこれほど思いきった手を打ってくるとは思いもよらなかったのでしょう。一応この邸の主は中納言ですし、中納言は自分を婿に迎えたいとさえ思っている。しかも老齢で老い呆けているから、自分が強くでさえすれば、姫との結婚も簡単に認めさせられると踏んでいたのでしょう。むしろ厄介なのは自分の親や乳母の方で、四の姫との縁談が進んでいる分、姫の事が事後報告になってしまった事を上手く角が立たない様に認めさせる事に、神経が行っていたのかもしれません。


 最初は姫の事をよく知らなかった少将にとっても、この結婚は唐突な事でしたからね。なんの根回しも、事前準備もないままに極秘で結婚しているんです。親の顔を潰さない様に体裁を整えながら、四の姫との縁談を断って姫を迎えたかったのでしょう。特に姫の場合は本来の通い婚ではなく、自分が引き取る必要がありますし。親に悪い感情を持たれては姫にとっても不幸です。


 ところがこの邸の実質的支配者は北の方でした。少将が「何とでもなる」と考えていたであろう中納言は、北の方にとっても「何とでもなる」存在なのでした。

 少将は自分の読みの甘さから、中納言の邸で少しづつ大胆にふるまっていました。自分でもそれが分かっているので姫を巻き込んでしまった事を悔んでいるのでしょう。


「あこぎ」は遠回りをしながらも、衣装がこすれて出る、僅かな衣擦れの音さえも立てないようにと寒い中衣装も脱ぎ、袴の裾までたくしあげて姫の閉じ込められている部屋へと向かいます。

 わざわざ遠回りするくらいですから、行く道はかなり北の方たちがいる近くを通らなくてはならないようです。人に頼るのではなく、北の方自身で監視するつもりで姫を閉じ込めているんですね。出て行けと言われている「あこぎ」にとっては、大変な伝言役です。


 それでもなんとか二人の為に、「あこぎ」は伝言を届けましたが、あの明るい少将でさえ、伝えた言葉は姫を心配する心と、自分の苦しい胸の内でした。姫にいたっては少将に二度と会えないのではないかと泣き崩れてしまっています。手を取り合って励ます事も出来ずに、姫の泣き声だけを聞く「あこぎ」の気持ちは、余りある物があるでしょう。


 ****


 さっそく伝言を伝えると、少将はより悲しく姫への思いが募り、それは悲しげに涙をこぼします。ついには直衣の袖に顔を押しあてているので「あこぎ」も大変お気の毒で、胸が痛みます。


 少将はしばらくの間そうしていましたが、やがて気持ちを落ち着けると、


「やはり、もう一度伝言してくれ。『私の大切な姫君。私は、あなたよりもさらに言うべき言葉が見つかりません。


  あふことのかたくなりぬと聞く宵は

    あさを待つべき心こそせね


(今夜会う事が出来ないと聞かされて、私も朝まで生きられる気がしません)


 こんな事を思うべきではないですね』と」


「あこぎ」はもう一度姫のもとに向かいます。けれど途中で物音を立ててしまい、北の方が目を覚ましました。


「なぜ、あの部屋の方から足音が聞こえるのだ。誰かいるのか」


 と言っているので、「あこぎ」は急ぎ伝言を伝え、


「すぐ、戻らないと」と言うと、姫は、


 『みじかしと人の心をうたがひし

    わが心こそまづは消えけれ』


(短いお気持ちだろうとあなたを疑っていた私の心こそ、先に消えてしまうのですわ)


 と急いでお返しの言葉を言いますが、「あこぎ」はそれを最後まで聞けませんでした。少将のところに戻ると、


「そんな訳で北の方の声に驚いてしまって、姫様の御返事も詳しくは承れませんでした」


 と言うしかありません。それを聞いた少将は、


「たった今にも忍びこんで、北の方を殴り殺してやりたい」とまで思いました。


 こうして誰もが嘆き明かして、夜明けを迎えてしまいました。少将は帰り際に、


「姫君を連れだせる折があれば、すぐに知らせてほしい。姫君はどれほど苦しんでおられることだろう」


 と、とても姫に深く想いを残した言葉を告げて、お帰りになりました。

「帯刀」もとても気まりの悪い事に、自分と姫の事を中納言に誤解されてしまっているので、この邸にいる事が出来ず、少将の車の後ろに乗って帰ってしまいました。


 ****


 少将は姫からの伝言を聞いて、堪え切れずに涙を落としているようです。この人の場合、なんだかそういう気が、私にはしてしまいます。

 この時代、男性の涙は決して恥ずべきものではありませんでした。自分のわがままの為に流す涙は男女ともに軽率に見られて恥ずべきものだったでしょうが、「もののあはれ」と言われる、深い感受性を持った涙は、むしろ尊ばれました。


 美しさや素晴らしさ、情緒あふれる様子などに感動して流す涙は、男女ともに美しいとされました。そういう感動を理解できる感性が、貴族らしさとして求められていたのです。

 特に他人や、愛する人の為に流す涙は一層美しいとされました。この時代のお話では悲しみだけではなく、喜びにさえも多く涙が描かれます。涙は貴族の人間性の象徴だったようです。


 でも、少将はこれまであまり涙を見せるシーンがありません。はっきり涙をこぼしたのは姫が自分の呼び名を「落窪」だと知られてしまって、号泣した時だけです。それも、あまりの姫の悲しみように、申し訳のない思いに耐えきれずに流した涙でした。

 この人の場合簡単に感動を涙に頼って表すのではなく、常に人に笑顔を向け、喜びも感動も素直な笑顔で表し、軽口や冗談をいい、人の心を明るくひきたてながら、自分も励ましている。そんな生き方をして来たように感じます。


 その少将が堪え切れずに涙をこぼす。しかも、そんな姿を人に見せたらこの苦難に負けてしまうと言うかのように、直衣に顔を押しあてて、懸命に心を落ち着かせようとします。その姿は今の男性が「涙は恥」と堪える姿よりも、より一層の悲しみを感じさせます。自分の為の涙でもなければ、自分の恥の為の我慢でもないのです。あくまでも愛する人の為の涙であり、我慢なのです。こんな姿を目の前で見ていた「あこぎ」は、どれほど胸を痛めたでしょう。


 そんな少将の想いを伝えようと、再度「あこぎ」は姫のもとへと行きますが、完全に気配を消すのは難しいのでしょう。北の方に気取られてしまいました。急いで戻ったために、せっかくの姫のお返事も最後まで聞く事が出来ません。

 姫と少将は、ほんの今日の明け方までは共に寄り添い、優しい言葉をかけあっていたというのに、今はわずかな伝言さえも届け合う事が難しくなってしまいました。


 けれどここで少将が強引に姫を連れ出そうとしても、邸の警備の者につまみだされるのが落ちでしょうし、そんな事が表沙汰になれば中納言家から少将へは勿論、左大将の邸にも苦情が行って、一族の面目を潰すことにもなりかねません。まして姫は少将を失えば、どこにも身を寄せる所がなくなってしまいます。こうなったら姫を助けるためには少将の存在を知られずに、上手く姫を邸から連れ出す以外に方法はないのです。今はそのチャンスを待つ以外に手立てはありません。


 そして「帯刀」もこの邸に来るのが難しくなりました。事実はどうあれ、表面上「帯刀」は「あこぎ」の夫を装って身分も顧みずに中納言家の姫君に懸想けそうし、強引に姫と関係を結んだ張本人とされてしまったのです。これで「あこぎ」と「帯刀」も会う事が出来なくなってしまいました。


「あこぎ」と姫は引き放されたまま、この難題に二人だけで取り組まなければならなくなりました。しかも二人の試練はこれからまだ、続くのでした。


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