33.「あこぎ」の嘆願
姫は我を失ったまま中納言の前に引き出されてきたために、ぱたりと座らされてしまいます。
「どうにか連れてきました。私自ら連れ出さなければ、ここに来そうもありませんでしたから」
北の方がそう言うと、中納言は
「早く閉じ込めてくれ。私は見たくもない」
と言うので、北の方はまた姫を引っ張り立たせて、北の物置部屋に閉じ込めてしまいました。
その時の北の方のなさりようはとても女性とは思えぬほどで、その恐ろしいご様子に姫は、半ば死にかけるような思いをなさったことでしょう。
樞戸(回転式の戸)が付けられた北の廂の間にある、東西二間の、酢、酒、干し魚などが置かれたその部屋に、薄縁を一枚、入口の近くに敷いて、
「自分の心の思うようにする者は、こういう目に遭うのだよ」
と言うと姫をとても荒っぽく部屋に押し入れて、自ら戸を閉め、鎖を強く差して行ってしまいました。
姫は色々な物の臭い匂いが辛く、あまりにひどいので涙も止まってしまいます。どのような罪からこのようなことになったのかも分からず、不安でおかしいと思っています。「あこぎ」と会う事は出来ないかしらと思いますが、姿さえ見ることが出来ません。
こんな事になって、自分はなんて悲しい身なのだろうと思い、姫はうつぶせになって泣き崩れていました。
北の方は落窪の間においでになりますが、
「ここにあったはずの櫛の箱はどこに行ったのだろう。きっと「あこぎ」が差し出がましくも、さっさと隠してしまったのだろう」と言っていると、やはり「あこぎ」に、
「こちらでしまってあります」
と言われてしまいました。さすがにそれをよこせとは言えません。北の方は、
「この部屋は私が開けない限り、開けてはならぬ」
と言って、固く鎖をかけてしまいました。
北の方はうまくいったと思って、早くこの事を典薬助に話そうと、人の目が無くなる時を待っています。
「あこぎ」の方は邸を追い出されそうでとても悲しく、
「なんでこんな目に会うのかしら。いっそ、こんなところ、出て行ってしまおうか」
とも思いますが、姫の事を考えると、
「姫様はこれからどうなってしまわれるのかしら。姫様のこの先を見届けなくちゃ、どこにもいくことなんかできないわ」
と思い直し、姫様はどんなご様子か知りたいと思い、三の姫にお手紙を書く事にしました。
「ひとえにあなた様をお頼みしております。とても驚いた事に私の知らないことで北の方に責められ、『出ていけ』と言われてしまい、三の姫様のご奉公を続けることが出来なくなってしまいました。大変悲しいことでございます。やはり、是非、あなた様に今ひとたびお会いしたく思います。ぜひ北の方に良いようにお聞かせいただいて、このたびの一件をお許しいただけるようにお取りなし下さいませ。私は小さい頃から「落窪の君」にお仕えしておりました。でも今では「落窪の君」から離れ、あなた様にお仕えしておりますので「落窪の君」の事はよく知らないのです。可愛がって召し使っていただき、お仕えして来たあなたの御手もとを離れるのは本当に辛いことなのでございます」
と、言葉上手に仕え続けたいと訴える手紙を秘かに三の姫に送ります。
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中納言は姫に一言の弁明も許すつもりはないようです。それどころか顔も見たくないと姫を突き放してしまいます。あこぎ以外にこの邸で姫を守れそうな人は実の父の中納言しかいないにもかかわらず、「見たくもない」の一言で片づけられてしまいました。姫の心中はいかばかりだったでしょう。
その姫に北の方は、ここぞとばかりに容赦のない態度を取ったようです。「女性とは思えぬ」ような様子だったのですから、力ずくで引きずるように姫を引っ立てて、おそらくは鬼のような顔で物置部屋に連れていき、突き飛ばすように姫を部屋に閉じ込めた事でしょう。
その「北の物置部屋」は、本来人がいるような場所ではなく、食料の保存などに使うための部屋のようです。当然、腐敗を防ぐために日の光も入らないでしょうし、室温も低いところのはずです。
北の方が縫物を持ちこんだ日付で考えれば、この時は十一月の末ごろ。旧暦ですから今の一月にあたります。一年の中でも寒さの厳しい頃です。そんな寒い季節に姫は、食料や調味料を保存しておくような、暗く寒々しい部屋に閉じ込められてしまったのです。悲しみと相まって、心の底まで凍えてしまいそうです。
そんな姫の為に「あこぎ」はただ嘆き悲しんでばかりはいません。足をすり合わせ、全身で悲しみを表現していた「あこぎ」でしたが、心を落ち着けようと姫の部屋を片付けていただけの事はあります。姫が少将からもらった手紙をしまってある、あの櫛箱だけはちゃんと自分で保管していました。無人の部屋から北の方が、姫の物をまた持ち去る事を予測していたのです。
こういう所はどんなに嘆いている時でも、しっかりしている「あこぎ」なんですね。
「あこぎ」もこのままではこの邸から追い出されてしまいそうです。あこぎ自身は追い出されても困る事はありません。夫の「帯刀」のところでも暮らす事は出来ますし、何より彼女を我が娘同然に可愛がってくれる伯母さんがいます。そこに行けば人に使われることもなく、逆にお姫様扱いされる日々が待っているでしょう。「帯刀」の世話だって、全部面倒見てもらえるでしょう。「いっそ、こんなところ出て行ってしまおうか」そんな思いがよぎるのも当然でしょう。
けれど一途な彼女は思い直します。姫の行く末を見届けなければと。彼女はどんなことがあろうとも、姫の一番の味方でいる道を選ぶつもりのようです。
そのためならどんな嘘だって付き通します。三の姫に情で訴えかけ、姫様の事は「良く知らない」と言い、「今ひとたびお会いしたい」「お手元を離れるのは本当に辛い」と泣きつきます。
必死なせいもあるんでしょうが、「あこぎ」はなかなかの役者のようですね。
以前、石山詣でを辞退する時も、「本当は行きたいのに」と演技をして、北の方の目をごまかしましたし、御厨子所の女性にも「夫の客に朝食を」と嘘をついて少将と姫の朝食を用意しています。他にも出迎えが遅れた時も「汚いものを運んでいた」とか、少将の直衣を「他の人の頼まれ物」とか。いざという時、実に知恵が回ります。
それが大人をやり込める爽快さでもあるんですが、「あこぎ」の立場に立ってみると、彼女のこういう利発さは悲しみも含んでいそうです。
彼女が虐げられている姫と共にいるためには、そして引き離された姫を上手く守るためには、こうした嘘は必要不可欠だったに違いないでしょう。「あこぎ」自身はおそらく明るく、人に好かれる、一途で素直な少女だったのでしょうが、生き抜くための環境が彼女にピンチを嘘で切り抜ける事を、学ばせてしまったんだと思います。彼女が姫のピンチを切り抜ける姿は実にすがすがしいものがありますが、彼女がたどってきた道を考えると、少し、苦い思いも舌先に感じ取ってしまいます。とにかくこれは、「あこぎ」と姫にとって最大のピンチです。「あこぎ」はここを乗り切れるのでしょうか?
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手紙を読んだ三の姫は「あこぎ」が本心を書いていると思い「あこぎ」が可哀想で、母北の方に、
「どうして「あこぎ」までお責めになるのですか。「あこぎ」は身近で召し使っているので、彼女がいないと本当に困るんです。「あこぎ」を使わせて下さい」とお願いしました。
「不思議だね。あなたまで大事にしている童なんだね。盗人がましい童で、あいつが「落窪の君」に良い思いをさせようとして起こしたことだと思うのに。とても落窪が自分で考えたとは思えない。男に興味があるようには見えなかったから」と北の方はおっしゃいますが、三の姫は、
「でも今回はお許しください。いじらしく、許しを請う手紙をよこしてきたのです」
と言って、北の方に折れてもらおうとします。
「どうなさるもあなたの御心次第です。ただ、『使いいい』なんて言うんじゃないよ。まったく馬鹿らしい」
と不満そうに言っています。こんな北の方を説得するのはさすがに面倒なので、「あこぎ」には、
「しばらくは堪えなさい。そのうち母上に良く、言っておくから」と言いました。
「あこぎ」は考えても考えても、悲しみが尽きる事はありません。部屋にこもっている姫の方も、呆然としています。
「あこぎ」はまた姫の事で思いつく限りのことを心配してしまいます。
「姫様にお食事も差し上げられないまま、閉じ込められてしまったわ。あいつ、憎らしい北の方はよもや姫様にお食事などは下さらないわ」
「あこぎ」はあれほどお可愛らしくもいじらしい姫様が、北の方に引き立てられて、連れて行かれた様子を思い出すたびにつくづく悲しくなります。
「私は今すぐにでも高貴な身になりたい。そうしたら北の方に仕返ししてやろう」
そんな事を考えて、胸が早鐘のように鳴り響く一方で、
「少将様が今夜お越しになってこの事を聞いたら、どのようにお思いになることだろう」
と思うと、申しわけなさで胸がいっぱいになってしまいます。
まるで亡くなった人を悼むように不吉なほど悲しんで、寝ても起きても苛立ってばかりいるので「あこぎ」に使われている女童の露も、心配しながら見ています。
姫の方では時の経つままに物が臭く匂う部屋に突っ伏して、
「もし、このまま死んでしまっては、少将様とお話しすることもできなくなってしまうわ。末長くと言って、契りを交わし合ったのに」
そう思うとそれは悲しくて、昨夜、少将が布を引っ張ってくれた事ばかりが思い出されるにつけ、余計せつなくなります。
「どんな罪で私はこんな目にあっているのかしら。継母が継子を憎むのは良くあることと、人の話に聞いたこともあるけれど、御父上の御心までもが、このようだなんて」
と、とても辛く思っていました。
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「あこぎ」は三の姫の懐柔には成功したようです。でも、北の方の心が和らぐことはなさそうです。三の姫の近くにいられなければ、北の方がなにをしようとしているのか知ることが出来ませんが、とにかく邸から追い出される事態は避ける事が出来そうです。「あこぎ」がここからいなくなったら、姫の様子が分からないだけではなく、少将が何か手を打とうにも連絡役が居なくなってしまうのです。
それでも「あこぎ」は後悔ばかりが募るようです。せめて何かお食事を取らせておいてあげたかったと嘆いています。きっとほかにも次から次へと思う所があるのでしょう。親しい人を亡くしたかのような嘆きように、幼い露ちゃんまで心配するほどです。北の方に復讐したいと思う一方、少将に何と言ったらいいのかと、胸を痛めています。
閉じ込められた姫の方でも少将の事を想っていました。でも、ここで姫は今までにない感想を抱いています。
これまで姫は、悲しい目にあったり、苦しいことが起きたりするたびに、「死んでしまいたい」「消えてしまいたい」とばかり思っていました。辛いこの世から逃げたい一心で、心のどこかで死が訪れるのを待っているようなところがありました。
けれど、今までで一番の悲しみの中、彼女は思います。「このまま死んでしまっては、少将様と会えない」と。これは彼女が変わった証しでしょう。彼女は今、どんなに苦しい中でも愛する人の為に生きたいと願っているのです。
苦しみと切なさの中で、初めて彼女は希望を捨てない心を手にしようとしています。唯一頼りにしていた「あこぎ」さえ失った中で、彼女は自分の中にある少将への愛を頼りに、生きたいと願おうとしていました。




