32.追い立てられた姫君
姫は少将が帰るとすぐに、急いで縫物の続きを始めます。そうするうちに北の方も目を覚まし起き上がると、
「昨夜は途中で縫物をやめていたから終わっていないだろう。出来ていなければ血が滴らんばかりに罵ってやろう」と思い、使いの者に、
「縫物をお出し下さい。出来上っているはずですね」
と伝えると、姫は全ての縫物をとても見事に仕上げ、重ねて出してきたので、あてが外れてしまいました。悔しくて、
「いつの間に仕上げたのだろう」と思いながらも、それきりとなってしまいます。
姫の方には少将から手紙が届きました。
「昨夜は縫物を途中でやめてしまいましたが、どうなりましたか。北の方はまた腹を立てていることでしょう。私もぜひ、一緒にあのどなり声を聞きたいものです。ところでそちらに笛を忘れてきてしまいました。取ってこちらに送ってください。これから内裏の管弦の宴に参上しますので」
探してみると、とてもよく香を焚き締められた笛があります。さっそく包んで送る事にします。そしてお手紙には、
「『腹を立てて』なんて良くないおっしゃりようですね。人に聞かれたら大変ですよ。そんな事はもう、思い出さないでください。縫い物は全部仕上がりましたので、北の方はとてもご機嫌がよろしくていらっしゃるようです。笛をお届しますわね。内裏でお使いになる大切な笛まで忘れてしまわれるなんて、
これもなほあだにも見ゆる笛竹の
手なるるふしを忘ると思へば
(私の事もいい加減なお気持ちなのかしら。使い慣れた笛竹でさえ忘れてしまうあなたの御心を思うと、心配になります)」
というお返事を書きました。これを見て少将は姫を愛おしく思って、
あだなりと思ひけるかな笛竹の
千代もねたえむふしはあらじを
(あなたにいい加減と思われているとは。千の代にわたっても絶えることのない竹節の根のように、あなたと伏して寝ることが絶える事などありませんよ)
と、読み返しました。
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姫の裁縫の腕は本当にすごいんですね。明け方から北の方が目を覚ますまでの僅かな時間で次々と言いつけられた縫物を、全て仕上げてしまったようです。もし中納言に叱られたり少将が邪魔をしていなければ、あこぎと二人で昨夜の内に十分仕上げてしまっていたことでしょう。だから北の方にいいように使われてしまうんでしょうけど。
少将は相変わらず軽口を叩いています。「北の方や中納言の言う事など気にするな。そんなもの私が笑い飛ばしてやる」姫にたいするそんな気持ちが表れているんでしょう。
それを姫もやんわりと咎めながらも少将に心配をかけない様「北の方は機嫌がいい」と返事をし、大切な席で使う笛を忘れた事を歌でたしなめています。
それにたいする少将の返歌も粋ですね。竹の節根に、姫との伏し寝をかけています。艶っぽくて睦言めいた歌。プレイボーイの一端が見えます。見た目が良くて、育ちの良い朗らかさがあって、軽口や冗談、人を楽しませることが好き。こういう人は自然にモテて当然だったんでしょう。一緒にいるだけで明るい気持ちになれそうです。
ただ姫の少将へのお諌めは、少しばかり遅かったですね。すでに昨夜、二人が知らない内に北の方は、少将が『腹を立てさせておけ』と言っているのを耳にしてしまいましたから。
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少将が内裏に参上する頃、北の方が中納言に、
「こんな事になるのではないかと心配していたのですが、落窪の君が大層嫌な、みっともない事をしでかしました。ああ嫌だ。まだ、私達とは縁のない人ならともかく、どうにでも出来ますが、そうでないだけに厄介です」と、訴えはじめました。
中納言は大変驚いて、
「なんだ。何事があった」と聞き返します。
「三の姫の婿君に仕えている「帯刀」と言う者が「あこぎ」の夫となって通っていると聞いていたのですが、実は「落窪の君」の方が目当てで「帯刀」が無理に関係を結んだようなのです。「帯刀」は馬鹿な男で、懐に入れていた「落窪の君」の返事の手紙を蔵人の少将の前に落してしまい、それを見つけられて、蔵人の少将も細かいことが気になる方ですから、『誰からの手紙だ』と問い詰められると、隠しておけずに白状したらしいのです。おかげで蔵人の少将からは、
『こちらでは大変素晴らしい相婿(妻の姉妹の婿)をお取りになって下さいましたね。主と家来で婿同士とは、世間の評判になりそうです。他人が何と聞くだろうと思うと、いたたまれません。なぜ、こんな者を通わせられるのか』
と、それは恥ずかしそうにおっしゃるのです」
そう、北の方は詳しく説明します。
中納言は老いた身としては力のこもった爪弾きをして、
「実に困った事をしでかしてくれたものだ。この邸にいる以上、私の子だと誰もが知っているというのに。相手は六位とはいえ蔵人でさえない、地下の帯刀ではないか。年もまだ二十歳ばかりで丈など一寸ほどしかない。それがこんな事をしでかすとは。豊かな受領なら身分の事など目をつぶり、そ知らぬ顔でくれてやろうかと思っていたものを」と怒りにまかせて言います。
「私もそれがとても残念なのです。私が考えるには、この事が広く世間の人に知られる前に、物置部屋に閉じ込めて見張らせようと思っています。「落窪の君」も「帯刀」を想っているようですから、このままでは邸を出てでも逢おうとするでしょう。そんなことされたら、すぐに噂が広まります。閉じ込めてほとぼりを冷ましませんと。それからでも何とでも出来ますから」
北の方がそう言うと中納言も、
「それでいい。たった今にも追い立てて、北の物置に閉じ込めろ。食べ物のも与える必要はない。責め殺してくれよう」
と、老い呆けたままに何を言っているかも良く分からず叫んでいます。北の方はうまくいったと喜んで、衣のすそを高らかに引き上げながら落窪の間にやってきます。そしてひざを付くと、
「なんて困ったことをしでかしてくれた。他の子の面汚しだと中納言殿がたいそう御立腹です。
『ここに住まわせるな。早く閉じ込めてしまえ。私が見張るからたった今追い立てて来い』
とおっしゃっています。さあ、いらっしゃい」
と言うので、姫は驚いて、辛く悲しく、ただ泣きに泣かれるばかりです。
「中納言様はどのようなお話を聞かれたのかしら」
と考えると、悲しいという言葉だけでは足りないほどでした。
「あこぎ」が慌てて前に出て、
「どんな事をお聞きしたというのでしょう。姫は過ちを犯したりなどなさっておりませんのに」
といいますが、北の方は「あこぎ」に、
「急に出てきて差し出がましい。何故こんな事をした。私に隠していたようだが中納言殿が外より聞いておっしゃったんだ。まるでものの善悪も知らぬ主人を持ったと言うのに、大切にお仕えすべき三の姫より、「落窪の君」の方を大切に思っていたくせに。お前などここにいるんじゃない。出て行きなさい」と言って姫に、
「中納言殿がお前に言いたい事があるそうだ」
と言うと、姫の衣の肩を引っ張って立ち上がったので、「あこぎ」は激しく泣きます。姫はさらに訳も分からず、我を忘れています。
北の方は逃げる人を捕まえるかのように姫の袖をつかみ、前に押し立てて姫を歩かせます。
軟らかな紫苑色の綾織りの衣に、白い袷。さらには少将が姫に着せかけた、あの綾の単衣を着て、このごろはこまめに櫛通されていた髪もとても美しく、背丈よりも五寸ほど余って揺らめきながら歩かされていく姫の後姿は、実に美しいご様子です。
「あこぎ」はそんな姫の後姿を見送りながら、北の方は姫をどうなさるおつもりだろうと考えると、目の前が暗くなるような心地がして、倒れ込み、両足をこするようにして嘆き悲しみ、涙するけれども、その心を鎮めるために北の方が散らかしたものなどを片付けていました。
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とうとう北の方は行動を起こしました。あの手紙を利用して姫と「帯刀」に関係があったというでたらめをでっち上げ、中納言を自分に都合よく煽りたてました。そして「帯刀」が三の姫の婿君、蔵人の少将の家来であることまで利用しています。
もちろん中納言が冷静になって蔵人の少将本人に「そういう事を言ったのか」と聞けば一発でばれてしまう嘘なのですが、北の方は中納言がそんなことまでしないことを良く知っているのでしょう。老人特有の頑固さが出ていて、一度思い込んだらそれを全面的に信じてしまう事を分かっているので、とにかく中納言を感情的にさせればいいのです。
しかも中納言は高齢からか、かなり思考力が失われてしまっているようです。
良く考えれば中納言家で「落窪の君」を世間から隠していること自体がおかしいのですし、蔵人の少将が「落窪の君」の存在を知らず、「帯刀」も何の処分も受けていないのですが、この人はそういう事に考えが回る事は無くなっているのでしょう。しかも北の方は証拠の手紙も握っていますし。完全にいいなりです。
愛情が薄いとはいえ自分の姫に、身分の低い馬鹿な男が手を出した。それを邸中で最も大切に扱っている蔵人の少将に知られてしまい、彼が恥ずかしい思いをしている。それで頭に来ているようです。
人から言われたままの事を信じ、しかも感情的になりやすい。何よりも自分が我が娘に何をしているのかも良く分かっていない。全ての判断基準を北の方に頼ってしまっているんですね。
それどころか仮にも自分の子を、感情任せに「責め殺す」とまで言っています。訳し間違いじゃありませんよ。ちゃんと「殺」の字がありますから。姫の命より、婿君の恥の方が大変なことだと思いこんでしまっているのです。
主がこれでは北の方がしっかりしていなければ、この邸はとっくに運営できなくなって姫たちも使用人達も悲惨な事になっていたでしょう。姫の数が多くて華やかに見える中納言家の内実は、とても危うい状態のようです。少将が中納言という高い役職に就く人を軽んじていたのは、人としての信頼が出来ないせいだったんですね。
ここで「帯刀」の身分や年齢が明らかになっています。「帯刀」と言う役職その物は次の帝となる東宮の警護をする人の中で、刀を帯びている人の事を言います。役職その物の位は手元の資料だと無位(十位)の下級官となっています。
でも中納言は彼を六位と言っています。惟成は少将の乳兄弟ですし、母親が権威ある良家の左大将邸の乳母を務めているのですから、惟成自身の位はそこまで低いものではないのでしょう。どうやら年齢も二十歳前くらい。当時は数え年ですから今の十七、八と言ったところでしょうか。歳若い惟成はまだまだ仕事は見習い期間なのかもしれません。
少将も惟成を乳兄弟として持っているのですから、同い年ですね。
三の姫、四の姫の年齢から「あこぎ」や「落窪姫」の年齢も推し量ることが出来ます。少納言が年上の姫を差し置いたと言っているのですから、十三、四歳の四の姫と年があまり変わらないという事はないでしょう。最低でも十五歳以上、当時は十八までに結婚するのが一般的ですから、三の姫はそれ以下でしょう。つまり三の姫と「落窪姫」は十五歳から十七歳の間の年齢と言う事になります。「あこぎ」は三の姫の女童なので、三の姫より下か、せいぜい一つ上。成人して結婚している事を考えれば、十五歳くらいだと思います。現代の満年齢なら十三、四歳。幼いものですね。
でも当時と現代では寿命がまるで違います。当時の貴族は運動不足の上(歩く事がはしたないくらいですから)仏教思想の影響で栄養状態もあまりよくなかったそうなので、四十歳で長寿のお祝いをするほどです。その一方で七十歳まで生きられる人もいましたから、個人差も激しかったのでしょう。
精神的にも早く大人になる必要がありましたから、「あこぎ」の年齢は今の感覚なら二十代初めの大人になりたて、姫は二十代の半ばの女性として輝かしい年頃だと思います。
そんな輝かしい年齢を迎え、やっと幸せをつかみかけた姫に、北の方は策略を企てました。そしてまんまと中納言を煽りたてることに成功したようです。姫は北の方に引っ立てられてしまいました。これから姫と「あこぎ」は試練にさらされることになります。




