28.山なしの身の上
時は、十一月二十三日頃、三の姫の夫蔵人少将が、賀茂の臨時に行われる祭りの舞人に急に欠員が出たのでその代理に指名されました。北の方は何も手につかなくなるほど慌てています。
「あこぎ」はきっと姫様に縫物の仕事を持ってくるに違いないと思っていたのですが、心配していた通り、使いの人が上の袴を裁断して持ってきて、
「これをすぐに縫って下さい。まだまだ縫物の仕事はありますと、北の方がおっしゃっています」と伝言します。
姫はまだ几帳の中で寝ていますのであこぎが、
「どうしたことでしょうか、姫様は昨夜から御気分が悪くなって、おやすみになられているのです。今に起きられるでしょうから、その時お伝えしておきましょう」
と言ったので、使いの人は裁断された袴を置いて、そのまま帰りました。
姫は「早く縫わなければ」と思って起き上がろうとしますが、少将が、
「私一人で、ぼんやり寝ているのは嫌ですよ」と言って姫を起き上がらせません。
北の方が「どうか。縫っているか」と聞くので、使いの者は、
「いえ。まだ『おやすみになられて』いるそうです」
と答えたのですが、北の方は姫に敬語を使った事が気に入らず、
「何が『おやすみになられて』だ。言葉の使い方がなってない。私達に使う敬語を、あんな者の為に使うんじゃないよ。耳障りな」と、使いの人を叱りつけます。
「しかも昼寝だなんて子供じゃあるまいし、自分の身の程を知らないとは、何とも情けない」
北の方はあざけるように笑いました。
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賀茂の祭りとは、都にある賀茂神社の例祭です。本来は四月の酉の日に行われます。平安時代にもっとも華やかに行われた例祭で、古文で「祭り」と言えば、たいていこの例祭の事を指す程です。葵の葉で牛車や社殿、祭り人の冠を飾ったので、別名「葵祭」とも呼ばれました。この時の祭りは断り書きがあるように、季節外れの臨時の祭が行われることになったようです。
しかも、その舞人に何らかの理由で欠員が出て、蔵人少将は臨時の舞人として指名されたとあります。都を代表する祭りで、舞人に指名されるというのは大変に名誉なことなので、欠員の代理とは言え本人は勿論、婿に迎えている中納言家にとってもこれは名誉でした。それだけに大切なその日の衣装の準備に、手抜かりは許されません。当然、「落窪姫」の裁縫の腕に期待を寄せ、身を入れて仕事をさせたいはずです。
ところが肝心の姫が縫ってくれない。本来の時期ではない季節外れの祭りで準備する間が無いというのに、さらに急な代理で支度を整えるような時間はまったくないと言っていいくらいなのかもしれません。けれど大事な婿君に恥もかかせられませんから、北の方は相当焦っているのでしょう。もとより姫の体調を気遣えるような人でもなさそうですし。
それどころか北の方の姫への憎みようは、普通ではないですね。彼女が認めてはいないとはいえ、まぎれもなく中納言の実の娘の姫に、自分達と同じ敬語を自分の子ならともかく、召使いにも使う事を許さないなんて。
しかもこの場合は「あこぎ」が自分の主人の姫に敬意を込めて使った言葉を、使いの人が繰り返して伝言しただけなのに、北の方は「言葉の使い方を知らない」と叱っています。自分の夫の中納言はこの邸の主人なので仕方がないと思っているようですが、それ以外の人間すべてが自分の思い通りになって、自分と同じように姫をさげすむ事を要求しているようです。
使用人達にしてみれば、本当なら自分達とは身分が違う姫君に敬語もろくに使えないなんて、かえって気まずい、落ちつけない気持ちになったことでしょう。「落窪姫」より身分は下の、他の姫たちには十分言葉づかいに気を使わなければならなかったでしょうから。
こういう事もあって、使用人達は姫の所に近づく事を避けているんでしょうね。
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今度は下襲のを裁断した物を、北の方が自ら姫の所に持っていきましたので、姫は驚いて几帳の外に出ました。几帳の中の少将に気づかれたら大変だと思ったのです。
北の方が見てみると、上の袴も手をつけずに置かれたままになっていました。
「上の袴に手もつけていないじゃないか。もう、縫い上がった頃だと思ったのに。どういう事だい。私の言う事なんか聞く気もないってことか」と、すっかり機嫌を損ねてしまいます。
「この頃お前は変に他の事にかまけたり、着飾る事にうつつを抜かしてばかりだ」
北の方の言葉を姫はとても辛く思います。遠回りに他の事と言っているのは、きっとあの手紙の事なのでしょう。少将様がどんなふうにお聞きしているのかと思うと気もそぞろで、
「気分がすぐれなくて。もう少し良くなったらと思ったものですから」
そう言いながら上の袴に手をかけ、
「これはすぐに縫い上がりますから」と言いました。
すると北の方は、
「そんな突然目を覚ました馬みたいに働こうとするなんて。こんなやる気のない人に頼まなきゃならないのは、他に頼める人がいないからだってのに。この下襲もすぐ縫わなかったら、もう、この家から出てってもらうよ」
と言って腹立まぎれに下襲の布を投げつけるように立ち上がります。その時、少将の直衣が姫の後ろから出ているのを見つけて、
「それはなんだ。この直衣はどこのものなんだい」
と、立ち止まっておっしゃるので「あこぎ」はまずいと思い、
「ある人から姫に縫って欲しいと頼まれた物なんです」とごまかします。
「他から頼まれた物は縫う癖に、ここの分はおろそかにしてもいいと思ってるんだね。もはや、こうしてここにおいてやってる甲斐もないわ。ああ、がっかりだ」
北の方は不満そうにしながら帰っていきます。少将が伏したまま几帳の隙間から覗いてみると、その後ろ姿は髪も子供を多く生んだために抜け落ちてしまい、僅か十筋ほどでスカスカし、長さも腰のあたりまでしか無くなっています。体つきも太ってしまっているので、みっともない容貌だなと、つくづく思って見ていました。
姫は我も忘れて、生地に折り目をつけはじめました。でも少将が姫の衣の裾をつかんで、
「まあ、こっちにいらっしゃい」
と言って引っ張るものですから、姫は仕方なく几帳の中に入ります。
「憎らしい縫い物だ。せっかくの二人の時間なのに。あなたもこんな物は放っておいて、もう少し北の方を怒らせて、慌てさせればいいんです。なんです、あの物の言いようは。何年もあんな言い方をされていたんですか。よく堪えていらっしゃいますね」
と、少将は言いますが、
「『山なし』の身の上ですので」と、姫は悲しげにお答えしました。
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北の方は本当に急いでいるようです。とうとう耐えられずに自ら姫の部屋まで催促にやってきました。どういう訳か少将が隠れている時に限って、この人は落窪の間に来てしまうようです。
姫は気が気ではありません。あの手紙を読まれた後に少将を見つけられたら、言い逃れのしようがありませんから。自分だけでなく少将にもどんな災いが起こるか、姫には見当もつきませんでした。両家が全く認めていない結婚を無断でしてしまっているのですから。
さらに北の方は遠回りに男性と手紙をやり取りしている事を非難しています。姫だって一人前の女性なのですから、恋文をもらったり身を装ったりするのは普通の事です。けれど北の方はそれすら許す気はありません。手紙の事を北の方に持ち出されるのも、自分がこんな風に扱われていることも、姫は少将に知られたくないので、一刻も早く北の方に出て行って貰いたにのに、うかつにも少将の直衣が自分の後ろから見えてしまっていました。
けれどそこは、はしっこい「あこぎ」です。とっさに他からの頼まれ物だと言い繕います。北の方が不審に思って几帳に近付いてしまったら間違いなく少将はその姿を見つかっていました。
型破りな少将は、北の方の姫への憎みようや、この邸での君臨ぶりを知りませんから「見つかってもかまわない」くらいの気持ちでいるようですが、北の方の何をするか分からない性格をよく知っている姫と「あこぎ」は必死です。
「あこぎ」のとっさの判断で、ここも事なきを得たようですが、北の方のあまりの物の言いようと態度の悪さに、少将も姫に同情しています。「もっと怒らせて、慌てさせてやれ」と言いますが、姫が頷くはずもありません。
少将が同情を寄せるのももっともなことで、この姫は本来、母親の身分が高くてどこの姫君よりも大切に扱われてよい身分の人です。それなのに姫はこうして縫物をさせられています。
本当ならどんなに地位が低くとも「姫君」という立場の人は仕事などさせられる事はありません。「姫君」の仕事は教養とたしなみを身につけ、美しく装い、良い「婿君」を迎えて家を繁栄させることです。そのために家じゅうの人が「姫君」にかしづき、御世話をするのです。
本当なら縫物という仕事は姫は勿論、侍女だってそうはしません。こういう家事は身分の低い下女と呼ばれる人たちの仕事です。それなのに姫は下女という絶対に姫君になれないまったくの庶民と同じ仕事をさせられています。しかも下女の何倍もただでこき使われているのです。「姫君」という身分だけは残ってしまっている分、これは大変屈辱的なことです。
しかも体調が悪いと言っても気遣ってももらえず、罵られ、卑下され、追い出すと脅されてされいるのです。姫としてどころか、人としてもまともに扱われていません。
姫の立場に立って見れば「よく耐えていらっしゃる」という少将の言葉は、とてももっともなことなのです。普通の人が馬鹿にされているより、ずっと辛い思いをしているはずなのです。
姫の言う『山なし』というのは、『世の中を憂しと言ひてもいづこにか 身をば隠さむ山なしの花』(世の中が辛いと言っても、私には山梨の花のように何処にも身を隠す山などありません)という歌をたとえに出して、「所詮、自分は他に身を寄せる場所のない身ですので耐えるしかない」と言っているんです。
北の方に自分がどんな扱われ方をしているか知られてしまった上、手紙の事をあてこすられ、今にも少将様と引き裂かれてしまうのではないかと脅える姫。「あこぎ」もその場しのぎと分かってはいても、少将様が姫を迎える準備を整えて下さるまで、なんとかここで耐えなくてはならないと思っていることでしょう。姫も不安を抱えながらも少将と離れる事など、考えられなくなっているはず。今、ここを追い出されてはいけない。そう思っていることでしょう。
ですから少将に「姫君」である自分が見下されている姿を見られても、辛いながらも耐え続けています。今や姫は、恋人に自分の恥を知られる事より引き裂かれることの方が辛く、苦しいことだと感じているのかもしれません。




