26.落した手紙
その日の夜は少将は仕事で内裏に参内しなければならなかったので、姫の所に行くことが出来ませんでした。だから少将は朝早くに、「帯刀」に姫への手紙を届けさせました。
「昨夜は参内しなければならなかったので、そちらに伺う事が出来ませんでした。そのことで「あこぎ」がどれほど惟成を責めた事だろうかと思うと、惟成には悪いが、おかしく思えてしまいます。「あこぎ」の気性がきついのは、ひょっとしたらあなたに習っての事かも知れないと思うと、あなたの事も恐ろしいような気がしてしまいます。けれど今夜の私は『昔はものを』というような気持でいます。
さらでこそそのいにしえも過ぎにしを
一夜経にけることぞかなし
(以前は何でもなく過ごす事が出来た夜が、あなたに出会って一夜逢えない事さえ悲しく感じるようになりました)
あなたも気に病む事ばかりが多い今のお暮らしから、離れようとは思いませんか。私と共に、心やすらぐ暮らしが出来る場所を探しましょう」
手紙には少将の心のこもった言葉が並んでいました。「帯刀」は、
「急いでお返事を書いていただけませんか」と姫にお願いします。
「今、お返事を渡していただけましたら、私が少将様に参上し、お渡しします」
姫がお返事を書いている間に、「あこぎ」は少将様の手紙を読みました。自分と姫様が『恐ろしい』なんて書かれているので、「あこぎ」は吹きだしてしまいます。
「惟成ったら、少将様に私の悪口ばっかり言ってるんでしょ。あんたの他に話せる相手がいないから、つい、喧嘩になっちゃうだけじゃない」と、「あこぎ」は笑いながら言い訳しています。
姫はお返事を書き終えました。
「昨夜わたくしは『まだき しぐるる』という気持ちでした。
一すぢに思ふ心はなかりけり
いとどうき身ぞわくかたもなき
(とても辛い身の上の不幸を分けあって下さる方のいない私を、一途に思って下さるお気持ちはないのですね)
本当に『憂き世は門させりとも』というように、私がこの邸から出るのは難しいことです。
「あこぎ」は優しい子ですよ。彼女がいうには『心にやましさがある人は、何でもない事でも恐ろしく感じるもの』なのだそうです。あなたはわたくしに、何かやましい事があるので恐ろしく思うのでしょう」
お返事を受け取ると、「帯刀」はさっそく姫の部屋を後にしました。
ところが部屋を出てすぐに、
「蔵人少将が、急いで来い、とお呼びです」
と言われたので、手紙を落窪の間に戻す暇もなく、懐に入れたまま参上しました。
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実に少将らしい手紙ですね。姫の気持ちを明るくしようと冗談を書いてみたり、恨み事めいたおふざけを書いたり。けれど歌には姫に逢えない寂しさを表して、姫への真摯な気持ちも伝えようとしています。
と同時に「あなたに首ったけなんです」というノロケにもちょっと思えますけどね。
『昔はものを』という歌は、「あなたに出会う前は、恋の悩みも喜びも知らなかった」という有名な歌です。それがたった一晩逢えなかっただけで、寂しさを感じるようになったと言っているんですね。
そして少将は本気で姫を邸から連れ出す気持ちがあるようです。今のままにはしておかない。自分達の明日のさらなる幸せを共に夢見てほしいと、姫に訴えているのでしょう。
「あこぎ」も言い訳しながらも、またちょっと惟成を責めているような……。
「あこぎ」は惟成の事を自分の夫として頼りにしているだけではなく、共に姫の幸せを考えてくれる、数少ない「同士」のような気持も持っているのでしょう。そして、安心して軽口をたたき合える、親友のような気持でもいるんでしょうね。惟成はしっかり者の「あこぎ」にとって、一番甘えられる人なんですね。
北の方の仕打ちに耐え、三の姫のお世話に追われ、それでも姫様を支え続ける「あこぎ」にとって、惟成がどれほど心の安らぎになっているのかが分かります。
もちろん惟成もそれが分かっているから「あこぎ」に言いたい事を言わせているんでしょう。何より彼は「あこぎ」が可愛くって仕方がないので、何を言われても腹も立てませんしね。
歌だけ見ると一見湿っぽい姫のお返事に思えますが、これは少将の冗談へのお返しです。姫の方でもわざと、「あなたは薄情な人ね」なんて、すねたふりをして見せています。
『まだき しぐるる』の歌は「私の袖が時雨に濡れたようになっているのは、あなたの心に飽き(秋)が来てしまったから」という意味で、少将の歌とも合わせて、「私と一晩でも離れているのが悲しいって本当ですか? 実は早くもわたくしに飽きて、やましい心があるから私を怖いと思いになっているのではありませんか?」と、冗談で返しています。本当にお互いの心が通じ合った自信があるからこそ、通用する冗談ですね。
『憂き世には門させりとも』の歌は、「辛いこの世には目に見えない門があって、鎖がさされている」という意味で、自分はこの邸から出るには、色々な問題があるので難しいと言っているのです。姫には父親の中納言よりほかに保護者になってくれる人はいませんし、少将に頼っても、少将の立場がどんな影響を受けるか分かりません。結ばれたとはいえ極秘の結婚で、どちらの親にも認められてはいないのですから姫が不安に思うのも当然でしょう。とても軽々しく返事が出来ない事柄なのです。
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蔵人少将は髪を整えさせるために「帯刀」を呼んだのでした。さっそく「帯刀」は髪を整えます。後ろの髪をなでつけるために蔵人少将に下を向いていただき、「帯刀」自身も前かがみになりました。その時、「帯刀」の懐から姫君のお返事の手紙がポロリと落ちてしまいました。「帯刀」は気がつきません。でも、蔵人少将は目ざとくそれを見つけ、サッと御隠しになります。蔵人の少将は「帯刀」が恋文を無くして慌てる所を見てみたいと、いたずら心を起こしてしまわれたようです。
蔵人少将は髪を整え終わり、奥の間に入ると手紙を無くしたことになかなか気がつかない「帯刀」を面白がって、その手紙を三の姫に見せました。
「これをご覧よ。惟成の奴が落した恋文だ」
と言って三の姫にお渡しになります。蔵人少将も一緒にその手紙をご覧になりました。
「ほう。手(筆跡)はとても見事だな」と感心していましたが、
「まあ。これは落窪の君の手だわ」と、三の姫がいいました。
「落窪の君とは誰の事だい。変な名前の人だな」
蔵人少将は不思議がりました。この邸には一の姫から四の姫までがいる事は知っていますが、他に『君』と呼ばれる様な姫君がいるなどと、聞いたことがありません。
「そう呼ばれている人がいるんです。縫物をしている人です」
この邸では「落窪の君」の事をあまり話してはいけないとされているので、三の姫はそのまま口を閉じてしまいます。だからその場の話は終わってしまいました。
でも三の姫は手紙を手に取り、「これはおかしい」と思っていました。
「帯刀」は調髪の為の水を入れた調度などを片付け、立ち上がりざまに自分の懐を探りましたが、確かに入れておいたはずの姫君の御手紙がありません。
着物のどこかに引っかかってはいないかと、慌てて立ったり、座ったり、衣の紐まで解いてみたりしましたが、見つかりません。何処で無くしたのだろうかと顔を赤くして、座り込んで懸命に考えます。
手紙を受け取った後、この部屋以外に何処にも歩いていないのだから、落したとしてもここにあるはずだと思い、蔵人の少将が座っていらした敷物まで持ちあげて振って見ますが、どこにもありません。
これは誰かに拾われたに違いない。こんな事になって、これからどんな厄介事が起るだろうと考えると、「帯刀」は我が身の愚かさを嘆かずにはいられませんでした。頬づえをついて呆然と座っています。
そこに蔵人少将が、三の姫の部屋から出ていらっしゃいました。
「どうした、惟成。しょんぼりとして。何か無くしものか」
そう言って笑っていらっしゃいます。
「帯刀」はこの方が手紙を拾われて、隠されたのだと思い当たると死にそうな気持になります。何とも耐えがたいような思いを顔に浮かべながら、
「何とか返していただけませんか」とお願いしますが、
「私は知らないよ。三の姫は『末の松山』などとおっしゃっていたみたいだがね」
蔵人少将はそう言いながら、楽しそうに部屋を出ていってしまわれました。
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さあ、大変な事になりました。「帯刀」は大事な姫君から少将様へのお返事のお手紙を落してしまったのです。少将のようなプライベートで親しくしている人ではなく、正式に家来として雇われている蔵人少将に「急いで来い」と言われて、手紙をしっかりと懐の奥まで入れていなかったのか、髪を整えている時の、動き方がたまたま悪かったのか、とにかくその手紙はあっけなく懐から落ちてしまったようです。
これはどうやら朝のやり取りのようなので、「帯刀」は主人のお供をした時、髪を整えるのはいつもの朝の仕事なのでしょう。おそらくその仕事の合間を縫って、姫に少将の手紙を渡しに来たのです。
ですから本来の主人の仕事の方が当然優先されます。「急いで来い」と言われたら「帯刀」は何をおいても主人のもとに行く必要があります。しかもいつもの仕事をしない訳にはいかないでしょう。受け取っているのが秘密の手紙なので、本当なら一層気をつけて持ち歩かなければならない所を、誰かに不信がられないように急いで仕事をこなす事の方に気を取られたようです。
そして「帯刀」は手紙を落とした事に気がつきませんでしたが、蔵人少将の目には留まってしまいました。一目で恋文と分かる手紙に、蔵人少将は好奇心を駆られたようです。「帯刀」が気付かないのをいい事に、手紙を拾って隠してしまいました。
この蔵人少将も人が悪いですね。いくら家来とはいえ人の恋文を盗むなんて。
でもこの時代の手紙は全て人から人への手渡しです。こんなことも当然あったことでしょう。
蔵人少将は手紙を見て、それが人から預かったものではなく、「帯刀」自身の受取った手紙だと思いこみました。何故ならこういう「文使い」は、もっと目下の人や幼い童がする仕事だからです。若い「帯刀」が懐に忍ばせていれば、貰った手紙を後で読もうと大事に持ち歩いているに違いないと思ったのでしょう。
でもこの手紙は「落窪姫」が書いたものでした。それも途中に「私が邸を出るのは難しい」と書かれているのです。
せめてこの手紙を蔵人少将一人が見たのなら、彼には手紙の意味など分からず、惟成をからかった楽しさだけで終わっていたでしょう。
ところが彼はよりにもよって、自分の妻である三の姫に手紙を見せてしまいます。
自分の家来の恋文を妻と一緒に読むなんて、ちょっと感心できませんね。あまり思いやりがなさそうで、信頼できそうもない人です。
それはともあれ、「落窪姫」の手紙は三の姫の手に渡ってしまいました。そして物語は波乱を迎える事になるのです。




